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変化

 夢を見ていた。何かとても悲しい夢で、だけど、目が覚めることに恐れて、ずっとそこに浸っていたいような……。


 シャアッ、と静寂を裂く音に起こされて瞼を開く。すっかり眠っていたらしい。カーテンが開き、無彩色な景色に飛び込んできたのは、清々しいまでに明るい青のシャツだった。


「よっ、調子はどうだ」


 愛嬌の良い半月の瞳が厚い黒縁メガネの奥から覗く。矢島が来てくれたのだ。

 俺が体を起こすと、矢島が慌てて手で制そうとする。


「いやいや、起きていいのか?」

「ああもう大丈夫、一週間も経ってるしな。明日には大部屋に移動の予定だよ」


 その言葉に心底ほっとしたような溜息が聞こえた。


「そりゃよかった。悪いな、なんか起こしたみたいで……おっと、忘れる前にこれ」


 ジャケットのポケットから、さっとお見舞いの封筒を取り出し、差し出す。その上にカードが添えられている。


「ここにいたら退屈だろ?」


 有料テレビのカードだ。気の利くプレゼントに俺は素直に「ありがとう、かなり助かる」と返した。

 ノリは軽そうなのに、こういうところでさりげなく気遣いができるからこそ、彼とは長く付き合えているのだろう。


「でも俺、あの時の飲み代も払ってないのに、もらっていいのか?」

「いやいや、それとこれとは別。元気になったらおごれよ」


 遠慮がちにそう笑いつつ、ベッド脇の丸いスチール椅子に腰かける矢島。

 しばらく何を言おうかと視線をベッドのシーツにさまよわせて、矢島はこう切り出した。


「にしても何、狭心症だって?」

「ああ。心筋梗塞の一歩手前だったって言われたよ」

「マジで? ……ホント、よく生きてたな」


 その神妙な顔つきからは、彼が今回の出来事でいかに心配したかが十分に伝わってくる。もし心筋梗塞に発展していたら、死んでいてもおかしくない病気だ。


「まさか飲み会抜け出して倒れてるなんて思わないっての。前兆とかなかったのか?」


「いや、まあ、今思えば胸……はたまに痛かったかな? それでもしばらく休めば治ってたし。肩こりとか背中が痛くなったりとかはかなり感じてたけど、単に仕事で疲れてるからだと思ってたんだよ、それ医者に言ったら、全部心臓が原因だろうって」

「そっか……やっぱりちょっとおかしいなと思ったら、早めに医者は行っておくべきなんだな」


 自戒を込めた台詞だろうか? 安堵とも落胆とも言えないその表情には、案外どちらの意味も含んでいるのかもしれない。


「まあ、とりあえず助かってよかったよ。それにしても、夏美には感謝してもしきれないんじゃないのか?」


 冷やかしというより真剣に、矢島は俺の目を見つめてきた。

 確かにそうだ。放置していたらそのまま心筋梗塞になっていたような状況だ。もし夏美が俺を追いかけて来なければ、救急車を呼んでいなければ、今頃俺は病院のベッドじゃなくて、骨壺の中で眠っていたかもしれないのだ。そう思うと背筋がすっと冷たくなる。


「全く、飲み会の時もなんかおかしかったし、急に出ていくし、どうしたのかとは思ってたが・・・まさか病気とはね」


 矢島はあれもこれも病気のせいにして納得しようとしているが、きっとそうではない。

 あの時家に大きな忘れ物をしてきたような気がしていて、慌てて帰ったのは確かだ。なにを忘れていたのか、そのこと自体を俺は忘れてしまっているわけだが……。その時に走ったのが倒れる引き金になったのはあり得る、だが、その行動自体は病気だから起こったわけじゃない。

 ゴールデンウィーク終盤だと思い込んでいたのがまだ初日だったり、家に別の気配を感じたり、色々と記憶が曖昧なのは、病気のせいなのか? でも俺はあくまで心臓が悪かったのだ、記憶に障害が出るものだろうか?まあ、俺は医者じゃないので何も言い切ることはできないのだが。

 その曖昧だった記憶は、夢のように日を追うごとに霞んでいって、今はもう正直思い出すのにも苦労している。きっと数日後にはすっかり忘れてしまうのかもしれない。


 何か言い返すのも忘れてじっと考え込みだした頃、個室の扉が空く音がした。

 誰かを確認するよりも先に、矢島の頓狂な声が聞こえた。


「あっ、夏美?」

「あれ、矢島君、来てたの?」


 夏美はそう笑いながら奥へと入り、大きなバッグを運んで病室の片隅に置いた。


「これ、洗濯物持ってきたから」

「あ、ああアリガト……」

「えっ何?いつのまにそーゆー関係に?」


 俺と夏美を交互に見比べて目を丸くしている矢島。夏美ははにかむような笑顔で答えた。


「やだ、御家族の代わりにお手伝いしてるだけよ。ほら、緊急入院だったから場所も選べないし、お母さんたちも仕事あるらしいから、地元から出てきてずっと付き添うのも難しいでしょ」

「ああーなるほどね」


 そう言いつつも、なにか勘ぐるような視線を向ける矢島。


「なんだよ」

「いーや……」


 そういって意味ありげな視線を送りつつ、少しの間を置いて続ける。


「なんていうか、将来は尻に敷かれそうな気がするな」

「な、何の話だよっ!」


 にやりと人が悪い笑みを浮かべる矢島の後ろで、夏美はひとり赤面して何も言えないでいた。


 なぜ言い返せないのか? そんなことはもうわかっている。


 鈍い鈍いと言われてきた俺でも、さすがにこの一連の騒動以降、夏美の気持ちに気づかざるを得なくなってきていた。気づくその時まで、俺自身はただの友人だとしか思っていなかったからこそ軽いノリで接せていたのだが、今はなんていうか、俺自身の態度もぎくしゃくし始めている。夏美の視線を感じる度に心がむずむずするような思いだが、それが好きだからなのかなんなのか、それだけがまだ自分でもハッキリしていない。

 きっと彼女は見返りを求めていない。純粋に俺や見舞いに来て心労で疲弊した両親を助けたいと思っていて、ここまでやったから俺に好きになってくださいとは押し付けない。友人としてはあけすけな態度を見せていた、いや、そう俺が思い込んでいた彼女の、意外に控えめで女らしい一面を見て、俺は急にここ最近落ち着かない気持ちに揺れている。俺自身夏美に惹かれているのかもしれない。

 だが、それと同時に、なにか大切なものを忘れているような思いも抱えている。なにかわからない心のわだかまりが、夏美に傾いていこうとする心を時々引っ張って、違う、違うと言っているのだ。

 ただ好きで心が揺れているんじゃない、なんていうか、夏美に惹かれていくことに、不安に似た感情を覚えている。


「でもなあ」


 それも日々薄れて消えていくのを実感していて、それは、いよいよ夏美に惚れてしまったということなのかもしれない。


「でも、なんだよ?」


 気が付くと思ったことが口をついて出ていたようで、俺はどぎまぎして、いやあの、と返答に困ってしまった。それを見て矢島は笑いながらしみじみと俺を見つめた。


「人間、順調な時って意外に周りがよく見えないんだけどさ、弱くなると初めて見えてくることってのもあるんだよな」


 なにか悟ったようなことを言って、今度はけろっと話題を転換する。


「あ、そうだ夏美、結城達は見舞いに来た?」

「なんで私に聞くのよ……まだ来てないけど」

「いや、落ち着いたら奴らも行こうかなって話してたからさ。なんかこう、こういうのって早すぎても邪魔だろうし、いつ行っていいかタイミングがね」

「まあねえ、気持ちはわかるわ」


 それから世間話を二、三続けて、「じゃあ」と矢島は来て間もないのに椅子から立ち上がろうとしている。


「もう帰るのか?」

「ん、まあ今日は様子見て安心したから。えっと、まだ入院長いのか?」

「せいぜいあと一週間ちょっとかな。今時は病院も長居させてくれないからさ」

「そっか、暇ならまた顔でも見に来るさ。退院祝いでも企画しとくよ。ところで明日には大部屋なんだろ?今のうちに二人で仲良くしとけって」


 立ち上がった矢島は俺の肩を叩こうと手を上げてから、病気に遠慮したのか、その手をそっと肩に置いた。俺は肩をすくめてその手を軽く払う。


「なんなんだよさっきから、俺達をどうするつもりだっつーの」


 悪い悪い、冗談だよ。……なんて、いつもの想定していた言葉は返ってこなかった。目の前に立っている黒縁眼鏡の男は、口角を釣り上げていつものように冗談めかしながらも、存外に真剣な目つきで俺を見据えていた。


「いやいや、俺ってば大学時代からずーっと二人を見てるんだよ?いい加減煮え切らないドラマは飽きてきたわけ。そろそろハッピーエンドを願ったっていいじゃないのさ。夏美、お前にゃもったいない程いい子だよ?」


 俺の気持ちの変化に気づいているのか? という程にその言葉は今の俺の心に突き刺さって、返答に窮する。それから矢島は振り返って、すっかり真っ赤になって立ち尽くす夏美の肩をポンと叩いて「がんばれ」と呟いた。

 呆然として見送るだけの俺達二人をよそに、飄々とした態度の矢島はひらひらと片手を振って「スピーチなら俺に任せとけ」という台詞を残して病室を去って行った。


 俺と夏美はしばらく時間が止まったかのように固まっていた。

 それから、妙に落ち着かない気持ちで視線を合わせたが、口を開こうとしても、何も言葉になどならなかった……。

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