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幻想から現実へ

 遠くから響いてくる規則的で甲高い音。そいつは徐々にうるさくなって、眠ろうとする意識をむりやりこじ開ける。

 そいつがサイレンの音であることを認識した頃には意識も少しずつハッキリして、周りが妙に騒々しいことにも気づいていた。

 鳴り響く携帯電話の着信音と、誰かがドアを叩き続ける音。それからささやきあう人々のざわめき。


 一体何が起こったのか? 体を起こそうと思った俺は、指先すら意思通りに動かないことに戸惑った。

 自分の体が動かないことに気づいてようやく、自分が感じていた痛みにも気づく。

 どうして気づかなかったのだろう? この、胸が締め付けられるような痛みに。

 痛みに気づいているのに、目を開くことも、胸を押さえることもできない。


 谷底に落ちたのか? いや、そんなわけはないな……夢から醒めたのか。


 どんどんとボリュームアップしていくサイレンが、ぴたりと止んだ。

 しばらくの後、いくつかの足音が重なって近づいて、止まる。そしてドアを開ける音。

 誰だ? 合鍵なんて実家にも渡してない。大家でもない限り持っていないはずなのに。


「来たよ!」

「こっちです!」


 ちょうど疑問に思ったとき、大家の声と、なぜか夏美の声が立て続けに聞こえた。


 何を呼んだんだ? なぜ二人がいるんだ? そうだ、そういえばなぜ俺は倒れているんだろう。

 橋から、突き落とされて? まさか、あれは夢なのに?


「……けど、急に帰ったから気になって、顔色悪かったし、心配で。ここに来たら、見えて、窓から。倒れて動かないのが。電話、何度もしても出な……」


 たどたどしい日本語を早口でまくし立てる夏美の声。落ち着いてくださいと諭す男の声がそれに重なる。聞いたことのない声だ。

 何のことを言っているんだろう。なぜ彼女はそんなに焦っているのだろう。

 誰か人の気配がすぐそばに近づいている。ガサガサと衣擦れの音が耳にうるさい。

 おでこと肩に生暖かい感触。手が添えられている。男の手だ。


「大丈夫ですか。聞こえますか」


 はい、と答えたつもりだが、唇が動いている気がしない。はたして聞こえただろうか。


 それにしても彼はなぜ俺の名を知っているのか。なぜ俺を呼んでいるのか。なぜ邪魔をするのか。


 俺はここでユイと眠っていただけなのに。


 ……そうだ。ユイは、ユイはどこにいるんだ?


 男はもう一人別の男と何か会話をしつつ、俺の胸郭をグッと押した。痛い。

 その時の反動で、俺は初めて重たい瞼をうっすらと開けることができた。だが、すぐにその瞼は重くなり、また閉じようとする。なんとか保てた視界も随分と狭いものだった。


 ぼんやりと目の前に映るのは全く見覚えのない男で、薄いグレーの制服らしきものを着ていた。後ろに見える女は髪が短くて、おそらく夏美だとわかる。ユイは一体どこに行ったんだろう。

 それになぜ、大家や夏美がこんなところに。


 男二人の会話が聞こえる。バイタルがどうとか、難しい用語もあるようだがよくわからない。目の前の男が、俺に向かって話しかけてくる。名前や何かを聞かれているのはわかるが、自分が上手く答えられているか自信がない。

 痛みに苦しみ、意識には霞がかかったまま、なのに、頭の片隅に妙に冷静な自分がいる。


 ユイがいない。


 周りがなにを騒いでも、ここにはいない彼女と、最後に見た悲しそうな表情が忘れられなくて、俺はただ天井を見つめて上の空だった。


 二人がかりでベッドから抱えあげられた俺は、そのまま担架に乗せられる。

 そこでようやく、彼らが俺を救うために来た救命士なのだと初めて気づいた。いや、わかっていたはずなのに、気づこうとしなかったのか。


 担架に寄り添って俺を覗き込む夏美の目は心配そうで、涙に潤む目はもう赤く充血している。それを眺めるともなくぼんやりと視界に入れつつも、俺が考えていたことはひとつだけ、一体ユイがどこに行ってしまったのか、なんてことだった。


 顔をどうにか少し横に向けて、ユイの姿を捜そうとする。担架に乗せられて通り過ぎた俺の部屋は、まるでゴールデンウィーク初日のままだ。

 そういえば俺の部屋には彼女が作っていたような食事の材料になるものなどなかったのだと今更ながら思い出した。

 あの時俺は何を食べていたんだろう? 一人暮らしの俺の部屋には、味噌汁の味噌だって置いてやしないのに。

 カレンダーや、時計や、テレビや、俺の部屋にあったはずの現実を告げる色々なものが、当然のように目に映らなかったのはなぜなのか。

 あの時あったことはすべて嘘だったから……?


 現実から乖離していくユイとの思い出が、胸の痛みよりも確かに俺の心をずたずたに切り裂いていく。


 彼女の世界にさっきまでいたはずだったのに、確かにいたはずだったのに。

 幻だと気づくぐらいなら、このまま眠らせてくれればよかったのに。


 喧騒の中、俺は走り出した救急車のサイレンを聞きながら、頬に温かい何かが伝っていくのをぼんやりと感じていた……。

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