09 前夜
09 前夜
裁判の前日、エミリーはベッドの端に腰かけて、膝の上で指を組んでいた。
眠れないというほどではない。ただ、明日のことを考えると、胸の奥がそわそわして落ち着かなかった。
「顔が硬いな」
声に顔を上げると、レガシーが牢の闇の中から歩み出てくるところだった。
「レガシー。いらっしゃい」
「ああ。明日の段取りを伝えにきた」
レガシーは手を軽く振った。小さなテーブルが現れ、その上に紅茶のカップと、銀紙に包まれた小さな粒が盛られた皿が並んだ。
エミリーの目が、皿の上で止まった。
「チョコレート……」
「前祝いだ。食べながら聞け」
エミリーはテーブルの前に座り、銀紙をむいて一粒を口に入れた。甘さが舌の上でほどけて、肩の力が少し抜ける。
「明日の裁判だが」
レガシーは向かいの椅子に腰を下ろし、足を組んだ。
「俺は観客席で見物する。もう席も決めてある。闘技場でいちばん見晴らしのいい場所だ」
「観客席、ですか」
エミリーはカップを持つ手を止めた。
「一緒にいてくださるのかと思っていました」
「お前がいるのは闘技場のまんなかだ。罪人の席だからな」
レガシーはそう言って、にやりと笑った。
「だが、心配はいらん。罪人は証言しない。証言台に立つのは、呼ばれた者たちだ」
「呼ばれた者たち……」
エミリーは小さく繰り返した。
誰が証言するのかレガシーが教えてくれていた。
(先生と、お父様とお母様。それから、あの子たち)
カップの縁を、指先がなぞる。
そこで、エミリーははっと顔を上げた。
「あの、レガシー。私、話したいと言いましたよね。証言しないままは……」
「ああ、言っていたな」
レガシーはチョコレートをつまみ上げ、指先で転がした。
「だが、証人が十分に話してくれるぞ。それで足りなければ、お前が話せばいい」
「足りなければ……」
「そうだ。足りるかどうかは、聞いてから決めろ」
あまりにあっさりした言い方だった。エミリーは少し考えてから、小さくうなずいた。
「わかりました。まずは、聞いてみます」
「それでいい」
レガシーは銀紙をむきながら、世間話のような口調で続けた。
「ちなみに、見てきたぞ」
「見てきた、というのは?」
「証言者の屋敷をだ。暇だったからな。紅色のドレスを仕立てた女がいた。鏡の前で何度も練習していたぞ。顎を引いて、重々しい顔までして」
「ナタリー先生ですね」
エミリーは思わず口元を押さえた。笑ったのか、息をのんだのか、自分でもよくわからなかった。
「黒いドレスを着る女もいた。ベールまで用意してな」
「お母様……」
「ああ。ハンカチを目に当てて、泣き声の練習もしていたが、涙は出ていなかった」
エミリーは目を伏せた。
レガシーはそこで、ふと口をつぐんだ。少し間を置いてから、チョコレートを口に放り込む。
「まあ、そんなところだ。みな、明日を楽しみにしているようだった」
「そうですか……」
エミリーはカップを両手で包んだ。紅茶の温かさが、掌にじんわり広がる。
「それで、だ」
レガシーは身を乗り出した。金色の瞳が、楽しげに細められる。
「お前は座って聞いているだけでいい。つまり、明日の裁判は、お前も存分に楽しめる」
「楽しめる……ですか?」
「そうだ。楽しめるぞ」
レガシーは声をあげて笑った。
エミリーは目を瞬かせた。自分のことを裁く場で、楽しむ。そんなことがあるのだろうか。
けれど、彼女はすぐに思い出した。
(悪魔は嘘をつかない)
牢で初めて会った夜、迷信だと言い切った彼の顔を思い出す。がっかりしたなら、ちゃんと言えばいいと笑った顔も。
(レガシーが楽しめると言うのなら、私は本当に、楽しめるのね)
そう思うと、胸のそわそわが、別のものに変わっていくのがわかった。
怖くないといえば嘘になる。けれど、それと同じくらい、明日が待ち遠しいような気もしてきた。
「……はい。楽しみにしておきます」
エミリーが答えると、レガシーは満足そうにうなずいた。
「それでいい。ああ、そうだ」
悪魔は指を鳴らした。皿の隣に、もう一つ、小さな包みが現れる。
「明日の朝は、これを食べておけ。腹が減っていては、楽しめんからな」
「ありがとうございます」
エミリーは包みを両手で受け取り、胸の前でそっと抱えた。
「さて。俺はそろそろ席を押さえにいく」
「今からですか?」
「早い者勝ちだ。人間は座る場所のことになると、驚くほど必死になる」
レガシーは立ち上がり、肩をすくめた。
「今夜はよく眠れ。恨むのは、起きてからでいい」
「はい。おやすみなさい、レガシー」
「ああ。おやすみ、エミリー」
闇がレガシーの姿を包み、静かにほどけていった。
牢には、紅茶の湯気と、チョコレートの甘い匂いだけが残った。
エミリーはもう一粒だけ口に入れてから、ベッドに横になった。
天井を見上げる。昨日までと同じ天井なのに、不思議と、ずっと遠くまで見通せるような気がした。
(明日、私は皆の前に立つ)
その先に何が待っているのか、まだわからない。
けれど、悪魔が楽しめると言ったのだから、楽しめるのだろう。
エミリーは小さく笑って、目を閉じた。
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