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百人目の囚人  作者: 朝山 みどり


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10 闘技場

10 闘技場


 裁判の朝、エミリーは牢の寝台に座り、髪を手櫛でまとめた。


 ここに来てから毎朝そうしてきたように、肩のところで三つ編みにする。櫛も鏡もない。指先だけで編み終え、毛先を握って、ひとつ息を吐いた。


 昨夜レガシーが置いていった包みを開けると、中身はまだ温かい小さなパンだった。


(腹が減っていては楽しめない、でしたね)


 エミリーはそれを全部食べた。


 食べ終えたころ、鉄の扉の向こうで足音がした。


「出ろ。時間だ」


 扉を開けた騎士は、エミリーの顔を見て、わずかに眉を動かした。頬の腫れも、唇の傷も、跡形もなかったからだ。


ドレスについた血は消えていなかった。


 けれど、騎士は何も聞かなかった。聞かないまま、エミリーの両手に縄をかけた。


 地下牢を出るのは、ここに入れられた夜以来だった。階段を上がるにつれて、空気が明るくなっていく。


 城門の外には、黒く塗られた護送用の馬車が待っていた。窓には鉄格子がはまり、中は薄暗い。


 エミリーが乗り込むと、向かいに騎士が二人腰を下ろした。


 馬車が動き出した。


 格子の隙間から、王都の通りが見えた。いつもなら露店が並ぶ時間なのに、人々は皆、同じ方向へ歩いていた。子どもの手を引く母親がいた。弁当の包みを抱えた老人がいた。晴れ着を着た娘たちが笑い合っていた。


「早く行かないと、いい席がなくなっちまうよ」


 誰かの声が、馬車の車輪の音に混じって聞こえた。


 エミリーは格子から目をそらし、縄のかかった手を膝の上に置いた。


(皆、これから見にいくのね。私を)


 不思議と、胸は静かだった。


 馬車が止まったのは、闘技場の裏手にある通用門の前だった。


 扉が開くと、騎士に促されて降りた。縄を引かれ、薄暗い通路を進む。壁の向こうから、地鳴りのような音が響いていた。何千という人の声が、ひとつに溶け合っている。


 通路の突き当たりに、光があった。


 騎士が足を止め、エミリーの背を軽く押した。


「進め」


 一歩、光の中へ踏み出した。


 まぶしさに目を細めた瞬間、声の波が押し寄せた。


 闘技場の砂は白く、日の光を跳ね返していた。円形にそびえる観客席は、端から端まで人で埋まっている。身を乗り出す者、立ち上がる者、指を差して隣の人に何か叫ぶ者。


 エミリーが姿を見せると、声が一段と大きくなった。


「あれが犯人か」


「ずいぶん若いじゃないか」


「おとなしそうな顔をして、恐ろしいことをするもんだねえ」


 罵声ともつかない声が、上から降ってくる。


 闘技場のまんなかには、木で組まれた台がひとつだけ置かれていた。腰の高さほどの台の上に、背もたれのない椅子が据えてある。


 騎士に引かれ、エミリーは台に上がった。縄を解かれ、椅子に座らされる。


 周囲は、どこまでも人の顔だった。逃げ場のない円の中で、全員の目が自分に向いている。


 エミリーは背筋を伸ばし、膝の上で両手を重ねた。


 右手の指が、左手の甲をさすりそうになる。


(……だめ)


 エミリーはそっと指を止めた。


 それから、ゆっくりと観客席を見回した。


 貴賓席は、いちばん手前の高い場所にあった。金の飾りのついた椅子が並び、その中央に、王太子の姿が見えた。隣には、ポーラが寄り添っている。ポーラはエミリーと目が合うと、悲しそうに眉を下げ、すぐに王太子の袖へ顔を寄せた。


 空いた席は王女のためのものだろう。


 少し離れた席には、黒いドレスの女性がいた。黒いベールをかぶり、隣の男性に支えられるようにして座っている。


 母と、父だった。


 父は正面を向いたまま、こちらを見なかった。母はベールの下でハンカチを握りしめていた。


 証人席と書かれた一角には、鮮やかな紅色のドレスが見えた。遠くからでもよくわかる。ナタリー先生は背筋を伸ばし、満足そうに周囲を見渡していた。


 その隣に、淡い水色のドレスを着た少女が座っていた。


 エミリーは、息を止めた。


(あのドレス)


 三年前にポーラからゆずられたものだ。丈が短くて、夜のうちに自分で縫い足した。


 遠すぎて、裾の縫い目までは見えない。けれど、見えなくても、わかった。


 水色の少女は、そわそわと袖口を直していた。ガーベラだ。


 その隣には、薄青の外出着を着た侍女がいた。王女付きの、ロザリー。


 エミリーは、ゆっくりと息を吐いた。


(皆、そろっているのね)


 そのとき、観客席の最上段で、何かが動いた。


 誰もが舞台を見つめているなか、ひとりだけ、のんびりと足を組んでいる男がいた。黒い外套を着て、膝の上に銀紙の包みを広げている。


 目が合った。


 男は片手を上げ、指先でつまんだ小さな粒を、これ見よがしに口へ放り込んだ。


 エミリーは、思わず口元をゆるめた。


「レガシー」


 誰にも聞こえない声で、そっとつぶやいた。


 彼女が笑ったのを見て、近くの席の男が眉をひそめた。


「見ろよ、あの女、笑っているぞ」


「気味が悪いねえ。やっぱり、冷酷な女なんだよ」


 周囲のささやきが、波のように広がっていく。


 エミリーは気にしなかった。


 背筋を伸ばし、まっすぐに前を向いた。


(聞きましょう。皆が、何を話すのかを)


 闘技場の空に、開廷を告げる角笛の音が高く響き渡った。



いつも読んでいただきありがとうございます!


誤字、脱字を教えていただくのもありがとうございます。

とても助かっております。

楽しんでいただけましたら、ブックマーク・★★★★★をよろしくお願いします。

それからもう一つ、ページの下部にあります、「ポイントを入れて作者を応援しよう」より、ポイントを入れていただけると嬉しいです。

よろしくおねがいします。


「天使と呼ばれた魔女は、弟のように可愛がる少年の本性を知らない」

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