06 父
06 父
その朝、エミリーの父は、いつもより早く書斎にいた。
窓の外はまだ薄暗い。机には、昨夜のうちに届いた報告書が積まれている。領地の収穫高。取引先からの書簡。どれも急ぎではなかったが、読んでいるあいだは余計なことを考えずにすんだ。
扉が叩かれ、執事が入ってきた。
「旦那様、王宮より使いの方がお見えです。書状を、直接お渡ししたいとのことで」
「通せ」
現れた役人は、深く一礼してから、赤い封蝋のついた書状を差し出した。
「王室よりの正式な要請でございます。お目通しの上、ご返答を賜りたく」
「承知した。ここで読もう」
父は封を切り、書面に目を走らせた。
王女殿下毒殺未遂事件に関する裁判。証言者としての出廷要請。場所は王都の闘技場。
読み終えて、紙の端を指で押さえた。
(闘技場、か)
裁判を闘技場で行うなど、聞いたことがなかった。しかし、王室が決めたことに口を挟めるはずもない。
「出廷いたします。妻にも届いているのでしょうか」
「はい。同じものが、奥様宛てにも」
「そうか」
役人が下がると、父は書状を机に広げたまま、椅子の背にもたれた。
あの娘が、王女殿下に毒を盛った。
そう聞かされた日から、何度も考えてきた。考えるたびに、同じところで行き詰まった。あの娘にそんな度胸があっただろうか。いや、度胸の問題ではない。そもそも、あの娘が何をしたいのかを、自分は一度でも考えたことがあっただろうか。
父は首を振った。
(くだらない。今は、そんなことを考えている場合ではない)
重要なのは、王太子殿下との婚約が、なくなったことだ。それどころか、家名に傷がついた。この裁判で、どう振る舞うか。それがすべてを決める。
娘を庇うような言葉は、一言たりとも口にできない。少しでも情けをかければ、共謀を疑われかねないのだ。
ふと、遠い日の光景が頭をよぎった。
まだ小さかったエミリーが、この書斎の扉の前に立っていた。手に本を抱え、何か尋ねたそうにこちらを見ていた。空いたほうの手で、本を持つ手の甲を、ゆっくりと円を描くようにさすっていた。
その仕草に、父は覚えがあった。
亡くなった母だ。
母は厳しくも優しい人だった。言いたいことがあっても、めったに口には出さなかった。ただ、言葉を飲み込むとき、決まって右手で左手の甲をさすった。幼い自分は、その指の動きを見て、母が何かを我慢していることを知った。
あの日、扉の前に立つエミリーの手に、同じ動きを見つけて、父は一瞬、息が止まった。
けれど、自分は書類から顔も上げずに答えたのだ。
「あとにしなさい。今は忙しい」
娘は何も言わず、静かに扉を閉めた。
その後、あの子が同じ扉を叩いたことがあっただろうか。
思い出そうとして、父は眉を寄せた。
ポーラはいきなり扉を開けて飛び込んできていたというのに……
(覚えていない。それだけのことだ)
代わりに浮かんだのは、食卓の光景だった。
ある晩、妹のポーラが、スープの皿をひっくり返した。大きな声で泣き出した娘を、妻はすぐに抱き寄せた。
「あらあら、大丈夫よ。熱くなかった? エミリーもっと妹を気にかけなさい。ポーラ、お洋服が汚れただけですからね」
エミリーは小さく「はい」と答えて、目を伏せた。ナプキンを持つ手を、膝の上でさすっていた。
父はそのとき、二人への声の違いに気づいていた。気づいていながら、何も言わなかった。
(子どものことは、妻に任せているのだから)
そう自分に言い聞かせて、スープを口に運んだ。
そして、もうひとつ。
別の晩のことだった。食堂へ入ろうとした父の耳に、陶器の割れる音が届いた。扉を開けると、床に花瓶の破片が散らばり、ポーラが椅子の脇に立っていた。その隣に、エミリーがいた。
「お母様、お姉様が押したの」
ポーラは目に涙をためて言った。
父は思わず、エミリーを見た。
押したのは、エミリーではなかった。花瓶の横で、ポーラが椅子に乗って花を引き抜こうとしていたのを、父は扉の隙間から見ていたのだ。エミリーはその数歩後ろで、手を伸ばしかけていた。止めようとしたのだろう。
「エミリー、どういうことなの」
妻の声が低くなった。
「……ごめんなさい、お母様」
エミリーは反論しなかった。弁解も、ポーラを指差すこともなかった。ただ、右手で左手の甲をさすりながら、うつむいた。
父は口を開きかけた。
違う、と言うべきだった。自分は見ていた、と。
けれど、妻はすでにポーラを抱き上げ、使用人を呼んで破片を片づけさせていた。食堂の空気は、もう動き始めていた。ここで自分が口を挟めば、場がこじれる。たかが花瓶一つのことだ。
(明日にでも、あとで妻に話せばいい)
そう考えて、父は黙って席についた。
明日になっても、話さなかった。話す機会はあったはずなのに、いつしか花瓶のことは、誰の口にも上らなくなった。
あれは確かに、おかしいと思ったのだ。驚きもした。それでも、流した。
そうやって流したものが、一つや二つではなかったのかもしれない。
だが、今それを思い出したとしてなにが変るのか?
父は書状へ視線を戻した。そこには娘の名前がある。罪人として記されたその名を、長いあいだ見つめていた。
扉が再び叩かれ、執事が顔を出した。
「旦那様、奥様がこちらに向かわれております」
「わかった」
父は書状の皺を手で伸ばし、背筋を正した。
廊下から、妻の足音が近づいてくる。
「お前にも届いたか」
扉が開く前に、父は先に口を開いた。
娘の言い分を聞こうという考えは、最初から彼の頭になかった。




