04 教師ナタリー
04 教師ナタリー
証言者として出廷するよう要請されたとき、ナタリー・メイソンは、手紙を持つ指に思わず力を込めた。
王室の紋章。正式な書面。そして、自分の名前。
開廷の場所は、王都の闘技場とある。
何度も読み返してから、ナタリーは口元に浮かんだ笑みを引き締めた。
「もちろん、お引き受けします。エミリー様のことでしたら、よく存じておりますから」
返事を待っていた役人に向かって、落ち着いた声で答える。だが、役人が帰ると、すぐに窓辺へ歩み寄り、明るい光の中でもう一度手紙を広げた。
(ようやく、私の話を聞いてもらえるのね)
(あの女のことなら、誰よりも私が知っているもの)
ナタリーは、かつてエミリーの家庭教師をしていた。
当時、エミリーはわずか七歳だった。机に向かう姿勢はよく、課題もきちんとこなした。ところが、ナタリーが説明を始めると、必ずといっていいほど顔を上げた。
「先生、それはどうしてですか?」
最初のうちは、熱心な生徒なのだと思っていた。
「そういう決まりなのですよ。まずは覚えましょうね」
ナタリーが微笑んで答えると、エミリーは教本へ目を落とした。けれど、すぐにまた小さな手が上がる。
「でも、こちらには違うことが書いてあります。同じ場合には使えないのですか?」
指差された一節を見ると、たしかに先ほどの説明だけでは答えられなかった。
ナタリーは教本を引き寄せ、ページをめくった。
「そこは、もう少し大きくなってから勉強するところです」
「今は、教えていただけないのですか?」
「順番がありますからね。今日は、こちらを覚えてください」
そう言って、覚えるべき箇所を指でたたいた。
エミリーは反抗するわけではなかった。声を荒らげることも、答えに詰まったナタリーを責めることもない。ただ、ナタリーの顔をまっすぐに見て、説明を待つのだった。
その目を向けられるたびに、ナタリーは落ち着かなくなった。
(七歳の子が、そんなことまで知る必要はないでしょう)
質問は文法だけではなかった。歴史を教えれば、戦争が始まった理由を聞かれた。礼儀を教えれば、立場によって作法が違う理由を聞かれた。
ナタリーは、そのつど話を切り上げた。
「今は、そこまで考えなくてよろしいのです」
「教本に書いてあることを、まず覚えましょう」
「質問ばかりしていては、授業が進みませんよ」
そうしてどうにか授業を終えると、どっと疲れが押し寄せた。
ある日の授業でも、エミリーは教本を開いたまま首をかしげた。
「先生、昨日は生まれた順に爵位を継ぐと教えてくださいましたね」
「ええ。覚えていましたね」
ナタリーが答えると、エミリーは歴史書の一節を指差した。
「でも、この方はお兄様がいるのに、ご当主になっています。どうしてですか?」
ナタリーは、差し出された本を見下ろした。
名前には見覚えがあった。けれど、その人物が家を継いだ事情までは知らなかった。
「それは、特別な事情があったのでしょう」
「どのような事情ですか?」
「昔のことですから、詳しくはわかりません」
「この本を書いた方も、ご存じなかったのでしょうか?」
ナタリーは本を閉じた。
「エミリー様。ひとつのことにこだわっていては、今日の勉強が終わりませんよ」
エミリーは閉じられた本を見つめていたが、やがて手を膝に戻した。
「……はい、先生」
その日は、それで収まった。
そして翌日から、エミリーは質問をしなくなった。
ただ、エミリーの机の端に、歴史書が数冊積まれるようになった。
ナタリーが説明をすれば、静かにうなずく。指示された箇所を読み、書き取りを済ませ、課題を提出する。授業は予定どおり進むようになった。
望んでいたはずの静かな授業だった。
それなのに、ナタリーの気持ちは晴れなかった。
「今日は、何か聞きたいことはありませんか?」
ある日、わざわざ尋ねると、エミリーは顔を上げた。
「いいえ、先生。ありません」
丁寧な返事だった。ナタリーはその顔をしばらく見つめたが、エミリーは黙って次の課題を待っていた。
(私に聞いても無駄だと思ったのね)
そう考えた途端、頬が熱くなった。
まだ七歳の子どもだった。教えてもらう立場でありながら、教師を見限ったつもりなのだと思うと、口惜しくてならなかった。
やがてエミリーの妹にも教えるようになると、ナタリーはそちらの授業を楽しみにするようになった。
妹は、教えたことをそのまま受け入れた。そして同じことを二度も三度も教える必要があった。手はかかったが、頼られているようで悪い気はしなかった。少し褒めればうれしそうに笑い、昨日と同じ問題にも素直に取り組んだ。
「よくできましたね。あなたは本当に、教えがいのあるお嬢様です」
ナタリーがそう言うと、妹は顔を輝かせた。
「本当ですか、先生?」
「ええ。人の話を素直に聞けるのは、とても大切なことですよ」
奥様に授業の様子を報告するときも、妹のことはしきりに褒めた。
「たいへん素直で、可愛らしいお嬢様です。こちらの教えをきちんと受け止めてくださいますから、上達も早いでしょう」
エミリーのことを尋ねられれば、「手のかかる、可愛げのないお子様で」と首を振った。
そんなふうに話すたび、エミリーの静かな顔が思い浮かんだ。
質問をしていたころの顔も、質問をやめてからの顔も、ナタリーには気に入らなかった。
証言の要請を受けた今、その不満をようやく公の場で語れるのだ。
(幼いころから、可愛げのない子だったわ。私なら、皆様にお伝えできる)
ナタリーは手紙を丁寧に折り直し、引き出しにしまった。
それから、仕立屋へ出かけた。
会場は闘技場。大勢の人が集まる広い場所で、地味な色を着ていては目に留まらない。
「はっきりした色がいいわ。遠くから見ても、顔が明るく見えるようなものを」
ナタリーは並べられた生地を見比べ、鮮やかな紅色を選んだ。仕立屋は一瞬だけ手を止め、何か言いかけてから、黙って帳面を開いた。
「襟元はこちらのレースで。袖は、少しふくらみを持たせてください」
仕立屋が寸法を測る間も、鏡から目を離さなかった。
証言台に立ち、人々の視線を受ける自分の姿を想像すると、自然に背筋が伸びた。
十日ほどして、注文したドレスが届いた。
包みを解くと、紅色の生地が艶やかな光を返した。ナタリーは両手で持ち上げ、胸に当てて鏡の前に立った。
「ええ、これなら誰の目にも留まるわ」
さっそく袖を通し、体の向きを変えて裾の広がりを確かめた。襟元のレースを整え、合わせる耳飾りを選び、髪をどの高さでまとめるかまで考えた。
鏡の前で顎を引き、重々しい表情も作ってみた。
「エミリー様は、幼いころから、人を困らせるお子様でした。どうしても正しい方向に導けませんでした」
声に出すと、胸の中がすっとした。
もう一度、今度はゆっくりと言ってみた。大勢の人に聞かせるのだから、慌てず、はっきり話さなければならない。
ナタリーは満足してドレスを脱ぎ、皺にならないよう丁寧に衣装掛けに掛けた。
(あと何日だったかしら)
暦を確かめてから、紅色の裾をそっとなでる。
ナタリーは、裁判の日が来るのを心待ちにしていた。




