32 語らい
32 語らい
その夜、エミリーは窓辺の机で本を読んでいた。
工房で修復している書籍に出てきた地名を調べるため、大図書館から借りてきたものだった。気になる箇所を書き留め、次のページをめくろうとしたとき、背後で声がした。
「精が出るな」
振り返ると、レガシーが立っていた。黒い衣の裾を揺らし、片手に小さな包みを持っている。
「レガシー」
エミリーは本を置き、椅子から立ち上がった。
「久しぶりだな。土産だ」
レガシーが差し出した包みを開くと、チョコレートが並んでいた。
エミリーは顔をほころばせた。
「ありがとうございます。お茶をいれますね」
「うむ」
レガシーは椅子に腰を下ろし、部屋を見回した。
窓辺の机。壁際の小さな本棚。棚の上には、工房の仲間から分けてもらった花が一輪、瓶に挿してある。
「本が増えたな」
「古本屋で少しずつ買っています。置くところがなくなったら、もうひとつ棚を買おうと思って」
エミリーはそう答えながら、カップを二つ並べた。
湯を注ぐと、部屋に茶葉の香りが広がった。
「それで、どうだ。新しい暮らしは」
レガシーが尋ねた。
エミリーは彼の前にカップを置き、向かいに座った。
「幸せです」
ためらいのない返事だった。
レガシーの金色の目が、わずかに細くなる。
「そうか」
「仕事は、まだ覚えることがたくさんあります。でも、わからないことを聞くと、教えてもらえるんです」
エミリーはチョコレートを一粒取り、指先で包み紙を解いた。
「すぐに答えがわからなければ、一緒に調べてくれます。親方は、私の見つけたことを最後まで聞いてくださいますし」
「お前には、よい職場のようだな」
「はい。明日、工房へ行くのが楽しみなんです」
チョコレートを口に入れると、懐かしい甘さが舌に広がった。
エミリーはゆっくり味わい、レガシーを見た。
「これを食べると、最初の夜を思い出します」
「たくさん、おかわりした夜か」
「頭が働かなかったんですよ」
「知っている」
レガシーは小さく笑い、カップを持ち上げた。
しばらく、二人はお茶を飲んだ。窓の外では、夜遅く港へ戻った人々の足音がしていた。
やがて、レガシーが口を開いた。
「お前の国の話を、少し聞いた」
レガシーが言うと、エミリーは包み紙を折る手を止めた。
「……どうなりましたか?」
「貴族たちが王宮に説明を求めた。侯爵夫妻もポーラも呼ばれて、ずいぶん賑やかな会合になったそうだ」
「事情を説明したんですか?」
「王宮の役人は、そのつもりだったのだろう。侍女たちが勝手に企んだことで、王女には責任がない、と説明を始めた」
エミリーは眉を寄せた。
「ロザリーは、王女殿下から命じられたと言っていましたよね?」
「ああ。だが、その話では都合が悪いのだ」
レガシーはカップを置いた。
「もっとも、王女だけを助けようとしたので、侯爵夫妻が黙っていなかった。ポーラも、自分だけ罪を負わされてはたまらんとな」
「それで?」
「互いに知っていることを持ち出して、王女の責任だ、いやポーラの責任だと、言い合いを始めた。隠しておきたい本音まで、次々に出たらしい」
エミリーは折った包み紙を皿の脇に置いた。
ポーラのために立ち上がった父と母の姿が、思い出された。
「侯爵ご夫妻は、そこでもポーラを守ろうとなさったんですね」
「そうだ。自分たちの家の名誉も守りたかったのだろうが」
「私を牢に入れたときには、何も確かめようとなさらなかったのに」
口にしてから、エミリーはお茶を一口飲んだ。
レガシーは黙って待っていた。
「……続きを聞かせてください」
「結局、ガーベラとロザリーに罪をまとめた」
エミリーはカップを持ったまま、顔を上げた。
「二人に?」
「ああ。二人が組んで、主人たちを陥れたということになったそうだ」
「主人たちというのは……」
「ポーラと王女だ。侯爵夫妻も、侍女に欺かれたという扱いになるのだろうな」
エミリーはゆっくりとカップを置いた。
「証言を聞いていたのに?」
「聞いていたとも。大勢がな」
「毒を渡した人も、命じた人も、自分で話したのに……」
「それでも、最後には侍女二人のせいにすることで話がまとまった」
レガシーの口元から、笑みが消えた。
「貴族たちも、それでよいと?」
「税の免除を勝ち取ったそうだ」
エミリーはしばらく黙っていた。
机の灯りが、カップの縁に映っている。
「……それを受け取って、納得したんですね」
「ああ。自分たちに利益があれば、王宮の説明でいいということだ」
「侯爵ご夫妻とポーラは、今もお屋敷に?」
「ポーラと母親は、家に引きこもっているそうだ。表向きは被害者になれても、闘技場で話したことまで消えるわけではないからな。侯爵も、以前のように家の名誉を口にするのは難しかろう」
母と妹の顔を思い浮かべても、会いたいとは思わなかった。
父が困っていると聞いても、帰って助けなければ、という気持ちは起こらなかった。
「王太子殿下は、どうなりましたか?」
エミリーが尋ねると、レガシーは椅子の背にもたれた。
「貴族たちに見限られた」
「……見限られた?」
「次の王を任せられるとは思われなかったのだろう。貴族たちが選んだ者を王家の養子にして、新たな王太子にするという結論が出たそうだ」
エミリーは少しため息が出た。
幼いころから、あの人が次の国王になるのだと聞かされていた。そのために学び、婚約者として務めを果たしてきた。
「そんなふうに、決まるんですね」
「今の王太子を残すより、そのほうが都合がよいと判断したのだろう」
「ポーラとの結婚は?」
「二人で仲良く暮らせばよい、と言われたらしい」
レガシーはわずかに肩をすくめた。
「以前ほど、あの二人の結婚を重要なこととは考えておらんのだろうな」
「そうですか」
エミリーは、机の上の本に目を落とした。
王太子の婚約者だったころは、読んでおかなければならない本ばかりだった。今、そこにあるのは、自分が知りたいことを調べるために借りてきた本だ。
「王女殿下も、そのままではありませんよね?」
「ああ。今後も勝手なことをされては困ると、貴族たちが処遇の話を持ち出したそうだ。侍女のせいにして終わらせても、安心して娘を王宮へ送り出せるわけではないからな」
「また、目障りだと思う相手ができるかもしれませんからね」
エミリーは膝の上で両手を重ねた。
「ガーベラが私の部屋に毒を置いたことは、許せません。ロザリーも、私を陥れる手伝いをしました」
「ああ」
「でも、だからといって、あの二人だけの企みだったことにしていいはずがありません」
エミリーはレガシーを見た。
「命じた人も、毒を渡した人もいるんです。二人に罪を押しつけたら、その人たちは、また同じことができます」
「そのとおりだ」
レガシーはうなずいた。
「お前は、自分を陥れた相手でも、そこは分けて考えるのだな」
「同じことをされたから、嫌なんです。誰が何をしたのか確かめずに、都合のいい人を犯人にするのは」
エミリーはカップに手を添えた。
まだ、温かかった。
(国を出てよかった)
もし残っていたら、何度でも呼び出されたかもしれない。侯爵家のために黙るよう求められ、ポーラを許すことまで当然のように要求されたかもしれなかった。
「私、出てきてよかったです」
エミリーが言うと、レガシーは彼女を見た。
「ああ」
「ここでは、間違いを見つけたら確かめてもらえます。本のページの順番ひとつでも、何故そう考えたのか聞いてくれるんです」
エミリーは机に置いた本へ目を向けた。
「人の命がかかっているのに、それもしないところへは、戻りたくありません」
「戻る必要はない」
レガシーはきっぱりと答えた。
「お前はもう、あの家の娘として呼び戻される立場ではない。自分で行き先を決めていい」
エミリーはうなずいた。
それから、チョコレートの包みを彼のほうへ少し押した。
「レガシーもどうぞ」
「うん? ひとつ貰おうかな」
「一緒に食べるのがいいんですよ」
レガシーは一瞬、彼女の顔を見た。
やがて手を伸ばし、一粒取った。
エミリーは立ち上がり、お茶を注ぎ足した。
戻ってくると、レガシーが机の上の本を眺めていた。
「今度は何を調べている?」
「昔の港の名前です。今とは呼び方が違うので、工房の本に出てくる場所を確かめたくて」
「わかったのか?」
「ひとつは。もうひとつは、明日、司書の方に聞いてみます」
そう答えるエミリーの声は明るかった。
レガシーはチョコレートを口に入れ、椅子の背にもたれた。
「では、そのひとつを聞かせろ」
「長くなりますよ」
「構わん」
エミリーは本を開き、見つけた箇所に指を添えた。
「この港は、もともと川の河口にあったんです。ところが、大きな洪水のあとで川筋が変わって……」
レガシーは、途中で話を遮らなかった。
エミリーも言葉を飲み込まず、調べたことをひとつずつ話した。
窓の外で、港の鐘が鳴った。
お茶はまだ残っていたし、チョコレートもあった。
エミリーは次のページを開き、話を続けた。




