31 結婚の条件
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31 結婚の条件
王妃との面会から十日後、王宮から侯爵家へ使者が来た。
持参したのは、結婚の取り決めを記した書面だった。侯爵は書斎の机でそれを広げ、読み進めるうちに顔色を変えた。
「持参金は、金貨三万枚。式の費用も、侯爵家の負担とする」
向かいの椅子で、夫人が扇を取り落とした。
「三万枚ですって?」
「それに、式は王宮の大聖堂で盛大に行い、貴族たちを招くこととある」
「盛大に、ですって? 今さら誰が祝うというのです」
「だからこそだ。王家は、きちんと祝われたという形が欲しいのだろう」
侯爵は書面を握りしめた。
家の金庫の実情は、侯爵自身がいちばんよく知っていた。エミリーが帳簿を見ていたころは、毎月の収支が一枚の紙にまとまっていた。それがなくなってから、どこにいくら残っているのか、侯爵は一度も正確に数えたことがない。
(数えるのが怖かったのだ)
その場で、家令を呼んだ。
「今の蓄えを、すべて出しなさい」
家令は一礼し、しばらくして分厚い帳簿を抱えて戻ってきた。
「旦那様、お許しください。奥様のお買い物の請求が、まだ整理できておりません」
「どういうことだ」
「エミリー様がいらしたころは、毎月、請求書を仕分けてくださっておりました。今は誰も……」
家令は目を伏せた。
「現在わかっている範囲で、金貨一万二千枚ほどかと」
侯爵は帳簿を見下ろしたまま、動かなかった。
夫人が立ち上がった。
「ですから、持参金を減らしていただくよう、お願いするしかありませんわ」
「どの口で願うのだ。王妃殿下に、あのように言われたばかりで」
「王家の側にも出していただきましょう。式の費用は折半に」
「それが通る相手ではない」
二人は睨み合った。
翌日、侯爵は王宮の担当官を訪ね、減額を願い出た。担当官は淡々と答えた。
「王家は、税の免除により、今年の収入が大きく減っております」
「それは存じております。しかし、持参金が三万枚とは」
「ポーラ嬢は、殿下の婚約者であった姉君の名誉を損ね、王家の体面にも傷をつけられました。その償いも含まれております」
「償いなら、すでに十分に」
「侯爵閣下」
担当官は、書面から顔を上げた。
「お断りになる場合は、この縁談を白紙に戻すことになります。その場合、先日の会合で出た話は、改めて整理し直す必要があるでしょう」
侯爵は口を開きかけ、閉じた。
白紙に戻れば、ポーラの行き場はなくなる。そして、王女の瓶の件を黙っていた恩も、持ち出す余地を失う。
屋敷へ戻ると、夫人とポーラが居間で待っていた。
「どうでしたの、お父様」
ポーラが身を乗り出した。
「減額はできん」
「そんな。私、王太子殿下の妃になるのに」
「王太子でなくなる可能性もある」
侯爵が言うと、ポーラの顔がこわばった。
「それは、貴族の方々が勝手におっしゃっただけでしょう?」
「お前は、あの場で何を聞いていたのだ」
侯爵の声が荒くなった。
「あなた、ポーラを責めないでください」
夫人が間に入った。
「娘は被害者ですわ。王女殿下に唆されて」
「唆されて、姉の婚約者に手を出したのか」
「あなたこそ、エミリーの帳簿を邪魔だと言ったではありませんか! あの子がいれば、こんなことには……」
夫人は口を押さえた。
居間が静まった。
ポーラは、母を見た。それから、父を見た。
「……お姉様がいれば、お金は足りたの?」
誰も答えなかった。
数日後、王宮の控えの間で、両家の顔合わせが行われた。
王太子は、侯爵一家が入ってくると、窓の外へ視線をそらした。ポーラも俯いたまま、王太子の顔を見ようとしなかった。
並んで座らされた二人の間には、人ひとり分の隙間があった。
「では、式の日取りについて」
進行役の役人が言った。
「式の費用は、先日お伝えしたとおり、侯爵家のご負担です」
「お待ちください」
侯爵が声を上げた。
「持参金に加えて、式の費用までとなると、我が家の財政が持ちません」
「王家の側も、苦しいのです」
王家側の席にいた宰相が、静かに返した。
「貴族方との約束で、税の免除を認めました。今年の宮廷費は、すでに削減しております」
「それは、王家が自ら招いたことでは」
夫人が言い返した。
宰相の眉が動いた。
「侯爵夫人。それは、どなたの娘の騒ぎが発端でしたか」
「あなた方の王女殿下が、毒を」
「奥様」
宰相が遮った。
「その話を、ここで続けますか」
夫人は唇を結んだ。
王太子が、初めて口を開いた。
「どちらでもいい。早く終わらせてくれ」
その場の全員が、王太子を見た。
ポーラも顔を上げた。
「殿下……どちらでもいい、とは」
「結婚の費用で揉めているのだろう。私には関係ない」
ポーラの目に、涙がにじんだ。
「私は、殿下のために」
「お前が欲しかったのは、姉のものだろう」
王太子は、ポーラを見ないまま言った。
「私は、お前に選ばれたのではない。姉から取れるものが、たまたま私だっただけだ」
「そんな……」
ポーラは膝の上で、ドレスの布を握りしめた。
侯爵が席を立った。
「娘をこのように扱われて、金だけ出せと言われるのですか」
「扱いを決めたのは、あなた方でしょう」
宰相は、静かに答えた。
「持参金は金貨三万枚。式の費用は、侯爵家の負担。この条件が飲めないのであれば、お引き取りください」
長い沈黙のあと、侯爵は椅子に座り直した。
「……分割にしていただくことは」
「検討いたしましょう」
宰相は書記に何かを書き留めさせた。
帰りの馬車の中で、三人は誰も口をきかなかった。
窓の外を、王都の灯りが流れていった。
食堂の前を通ったとき、中から笑い声が聞こえた。誰かが「寝取りの結婚」と言い、続けて大きな笑いが起こった。
ポーラは、窓の覆いを引いた。
暗くなった馬車の中で、母が小さく息を吐いた。
「エミリーが、いれば」
侯爵は、その声を聞かなかったふりをした。




