33 ひとつの願い
33 ひとつの願い
レガシーは、その後もチョコレートを持って遊びにきた。
エミリーが仕事から帰ったばかりの時に来る日もあれば、休日に本を読んでいる昼下がりに来ることもあった。
彼が現れると、エミリーはいつも喜んで迎えた。
「いらっしゃい、レガシー。今日は焼き菓子もあるんですよ」
「それはよい日にきた」
レガシーは土産を机に置き、すっかり自分の席になった椅子に腰を下ろした。
エミリーはカップを二つ並べ、お湯を沸かす。その間に、工房であったことや、図書館で見つけた本の話をした。
いつしか、チョコレートに花束が添えられるようになった。
エミリーは両手で受け取り、顔を近づけた。白い花びらの間に、小さな青い花がのぞいている。
「きれい……ありがとうございます」
その花束を挿すには瓶が小さすぎたので、エミリーは翌日、花瓶を買った。
次にレガシーがきたとき、彼は窓辺を眺めてから、持っていた花を机に置いた。
「今度は、ちゃんと入るな」
「はい。あなたがお花を持ってきてくれたら、すぐに飾れるように」
エミリーが答えると、レガシーは彼女を見た。
何か言いかけたようだったが、結局、チョコレートの包みを開くだけだった。
その日も、レガシーは花束とチョコレートを持ってやってきた。
エミリーは花瓶に一本ずつ花を挿していった。薄い桃色の花を少し高くすると、隣の白い花がよく見える。
椅子に座ったレガシーは、その手元を静かに眺めていた。
「どうでしょう?」
エミリーが花瓶を少し回して見せると、レガシーはうなずいた。
「ああ、いいな。きれいだ」
「では、お茶にしましょう」
エミリーが立ち上がろうとしたとき、レガシーが声をかけた。
「エミリー」
「はい?」
いつもより改まった声だった。
エミリーは椅子に座り直し、彼を見た。
「約束どおり、ひとつ、願いを聞いてもらいたい」
エミリーは息を止めた。
地下牢で出会った夜、彼は確かに言っていた。代償はひとつだけ願いを聞いてもらうことだと。
「……はい。言ってください」
エミリーが答えると、彼はわずかに背筋を伸ばした。
「うん。こう言ってくれ。『人間になって、ずっと一緒にいてください』と」
「え?」
エミリーは目を見開いた。
レガシーは彼女から目をそらさなかった。机の上に置かれた手が、少しだけ握られている。
「言ってくれ。それが願いだ」
「それが、レガシーのお願いなんですか?」
「ああ」
短い返事のあと、部屋が静かになった。
窓辺の花が、風に揺れた。
エミリーは彼の顔を見つめた。いつも得意げに笑っていた悪魔が、今は黙って返事を待っている。
彼が帰ったあと、カップを二つ洗う時間が少し寂しかった。
工房でうれしいことがあれば、次にきたら話そうと思った。花屋の前を通ると、レガシーが持ってきてくれた花を探した。
(ずっと一緒にいてくれる……)
その言葉を胸の中で繰り返していると、レガシーの眉がわずかに下がった。
「……嫌か?」
「いえ」
エミリーはすぐに首を横に振った。
それから、机の上にあった彼の手に、自分の手を重ねた。
「嫌ではありません。びっくりしただけです」
レガシーの指が動いた。彼女の手を握っていいのか迷うように、一度止まる。
エミリーはその指を、そっと握った。
「レガシー。人間になって、ずっと一緒にいてください」
約束を果たすためだけに言ったのではなかった。エミリーの願いでもあった。
レガシーの顔に笑みが広がった。
「ああ、エミリー。その願い、かなえよう」
握っていた手が、温かくなった。
エミリーは目を見開いた。
レガシーの黒い衣の裾が、風もないのにゆっくりと揺れる。彼の足元に落ちていた深い影が薄れ、ただの男の影になった。
金色の瞳から、炎のような光が静かに消えていく。
色はそのままだったが、夕日の穏やかさに変わった。
白かった頬に血色が差した。唇にも自然な赤みが戻り、整いすぎてどこか近づきがたかった顔に、柔らかな表情が浮かんだ。
黒い衣は形を変え、町を歩く男たちと同じ上着になった。
エミリーは手を離さず、その変化を見守った。
「……レガシー?」
「ああ。俺だ。エミリー」
声も、少し変わっていた。
闇の奥から響くようだった声が、今はすぐ目の前から聞こえる。けれど、彼女の名を呼ぶ調子は同じだった。
レガシーは空いている手で自分の胸に触れた。
しばらくじっとしてから、感心したように息を吐く。
「なるほど。ずいぶん忙しく動くものだな」
「何がですか?」
「心臓だ」
エミリーは思わず笑った。
レガシーも笑い、握っていた彼女の手を自分の胸元へ導いた。
掌の下に、鼓動があった。
確かめている間にも、少し速くなる。
「……本当に、人間になったんですね」
「エミリーが願ってくれたからな」
レガシーはエミリーを見た。
「これからは、帰らなくていいか?」
エミリーの目に涙がにじんだ。
彼女はうなずき、もう片方の手も重ねた。
「はい。ここにいてください」
レガシーはほっとしたように笑った。
その顔を見て、エミリーも笑った。涙が一粒、頬を伝ったが、拭うために手を離すのが惜しかった。
やがてレガシーが、机の上の包みに目を向けた。
「ただ、ひとつ問題がある」
「何ですか?」
「チョコレート」
エミリーは声を立てて笑った。
「それなら、大丈夫。この街にもおいしいお店があるんです」
「花も売っているか?」
「花屋は、その隣です」
「では、両方だな」
レガシーが当然のように言うので、エミリーは首をかしげた。
「一緒に暮らすなら、お土産はいりませんよ?」
「エミリーに渡したいのだ」
レガシーは彼女の手を握り直した。
「花を受け取るとき、お前はいつも、うれしそうにするからな」
エミリーの頬が熱くなった。
窓辺には、今日もらった花が飾られている。明日からは、その花を二人で眺められる。
「……楽しみにしています」




