22 新しい生活
22 新しい生活
裁判の翌日、エミリーのもとへ使いの者がやってきた。
男は机に小箱を置き、その隣に書類を並べた。蓋が開くと、整然と詰められた金貨が朝の光を受けて輝いた。
「こちらを、お受け取りください」
使いの男は、エミリーの顔をうかがいながら言った。
エミリーは小箱より先に、書類へ手を伸ばした。
「除籍の手続きは済んでいますか?」
「はい。侯爵家の籍からは、すでに外されております。こちらが証明書です。また、出国に必要な書類もそろえてございます」
エミリーは一枚ずつ目を通した。家の許可を求めなくても旅立てることを確かめ、最後に自分の名前を見た。
(これからは、この名前だけを持って生きていく)
書類をそろえて置き、金貨の箱を引き寄せた。
「では、こちらもいただきます」
男が少し目を見開いたので、エミリーは首をかしげた。
「何か?」
「いえ。その……」
「遠慮はしませんよ。旅にも、住むところにも、お金は必要ですから」
エミリーは金貨を数え、書類に記された額と照らし合わせた。男は黙って、その手元を見ていた。
「確かに受け取りました」
受領の署名を済ませると、エミリーはその書類を男へ返した。
許すとも、忘れるとも言わなかった。
数日後、彼女は国を出た。
国境で確認を終えた書類を返されたとき、ようやく肩の力が抜けた。カバンの内側へ大切にしまい、隣国へ続く道を歩き出した。
振り返りたいとは思わなかった。
祖国を去ってから、半年が過ぎた。
エミリーが暮らすようになったのは、隣国の穏やかな港町だった。
朝には荷を積んだ船が入り、魚売りの声が坂道を上ってくる。港から少し離れると、古い大図書館を囲むように書店や工房が並んでいた。学生が本を抱えて歩き、店先では白髪の老人と若者が、一冊の本を開いて話し込んでいる。
エミリーは、その通りにある書籍の修復工房で働いていた。
最初に工房を訪ねた日、親方は彼女の服の裾に目を留めた。
「その繕いは、自分でしたのか?」
「はい。馬車の釘に引っかけて破ってしまって……自己流ですけれど」
エミリーが答えると、親方は身をかがめ、布の継ぎ目を確かめた。
「細かい針目だな。裏も見せてもらえるか」
言われた通りに裾を少し返すと、親方はうなずいた。
「本を綴じる仕事に興味はあるか?」
「教えていただけるのでしたら、ぜひ」
そうして、エミリーは工房に職を得た。
古い紙の扱いは、布とは違った。力を入れすぎれば裂け、慎重になりすぎると仕事が進まない。糊の扱いも、薄い紙で傷んだ箇所を補う作業も、先輩の職人には到底かなわなかった。
それでも、エミリーは教わったことを帳面に書き、失敗した箇所を確かめながら覚えていった。
「そこは、もう少し手を添えてごらん」
先輩の職人に言われ、エミリーは指の位置を変えた。
「こうですか?」
「そう。それなら紙がずれない」
「なぜ、こちら側から押さえるのですか?」
問いかけてから、エミリーは一瞬、口を閉じた。
だが、職人は作業台へ顔を寄せ、紙の裂け目を指した。
「こっちはまだ丈夫だろう。弱ったほうを引っ張らずに済むんだ」
「なるほど。ありがとうございます」
エミリーは帳面に、その理由も書き加えた。
ある日、王立図書館から一冊の古書が運び込まれた。
表紙は外れ、綴じ糸は切れていた。中身はばらばらになり、ページの端には水濡れの染みが広がっている。
親方たちは数日かけて傷んだ紙を整えたが、綴じ直す段階で手を止めた。
「これでは、順番がわからんな」
親方は作業台に広げたページを見渡した。
端が欠けてページ番号の失われたものが多く、番号のない羊皮紙も混じっていた。
「前のページから文章が続いていれば、つなげられるんだが」
先輩の職人が、一枚を持ち上げた。
「途中が抜けているところもある。紙は直せても、中身まではなあ」
そばで道具を片づけていたエミリーは、文字の見える位置へ少し近づいた。
「読んでもよろしいですか?」
「もちろん。ただ、持つときは気をつけてくれ」
親方に許され、エミリーは両手で一枚を支えた。
しばらく読んでから、別のページへ目を移した。
「この二枚は、こちらが先だと思います」
エミリーが二枚を並べると、親方は顔を寄せた。
「どうしてわかる?」
「こちらには、港の税を廃止したことが書かれています。もう一枚は、そのために街道沿いの領主が抗議した記録です」
「だが、王の名前が違うぞ」
「同じ王です。即位したときに名を改めています。前に、この時代の歴史を読みました」
親方は二枚を見比べた。
「……そういうことまで知っているのか」
「気になったので、調べたんです」
エミリーは次の一枚を読み始めた。
戦争の記録には、別のページに記された同盟への言及があった。領地の名が変わった時期も、出来事の前後を確かめる手掛かりになった。
ただし、すべてがすぐにわかったわけではない。
「この三枚については、図書館で確かめたいです。同じ名前の人物が二人いますから」
エミリーが言うと、親方はすぐにうなずいた。
「行っておいで。司書に見せるための控えを取ろう」
エミリーは顔を上げた。
「仕事の時間に、よろしいのですか?」
「この本を直すために調べるんだろう。それも仕事だ」
親方は当たり前のように答え、控えを書くための紙を差し出した。
数日後、作業台には順番を確かめたページが並んだ。
失われた箇所には目印を置き、判断の根拠となった記録も別紙にまとめてあった。
親方は最初から順に読み、最後の一枚を置くと、長く息を吐いた。
「これで綴じられる」
先輩の職人も、並んだページを眺めて笑った。
「俺たちだけでは、いつまでたってもばらばらのままだったな」
「紙を直してくださったから、読めたんですよ」
エミリーが答えると、職人は糊のついた指を見せた。
「じゃあ、この先はまた俺たちの出番だ。お前も手伝ってくれ」
「はい」
エミリーは椅子を引き寄せた。
整えられたページを重ね、親方に教わりながら綴じていく。針を通す場所を確かめる彼女の指先を、誰も急かさなかった。
その日もエミリーはのんびり歩いて部屋に戻った。
借りている部屋は小さかったが、窓辺には机があり、読みかけの本が何冊か積んであった。
途中でパンとスープを買い、明かりをともした部屋で食べた。
食後には帳面を開き、その日に教わった綴じ方を書き留めた。
金貨はまだ十分に残っていた。それでも、自分の働きで得た賃金を受け取る日は、うれしかった。
来月には、小さな本棚を買うつもりだった。
窓の外から、港の鐘が聞こえた。
エミリーは帳面を閉じ、読みかけの本へ手を伸ばした。
(わからないことがあれば、明日また調べればいい。尋ねたいことがあれば、聞いていい)
ページをめくる彼女の口元に、自然と笑みが浮かんだ。




