20 噂
20 噂
裁判が終わった日の夜、王都の食堂も酒場も、いつもより遅くまで灯りがついていた。
料理の皿が空になっても、帰ろうとする者は少ない。誰かが昼間の証言を口にすると、隣の卓からも声が飛んできた。
皆、話したいことが山ほどあった。人の話を最後まで聞くより、自分の覚えている言葉を披露するほうが忙しかった。
「貴族の考えることは、よくわからんねえ」
食堂の窓際で、仕立て屋の女が首をかしげた。
「姉さんに妹のお古を着せるんだってさ。侯爵家ってのは、思ったよりけちなんだね」
向かいに座った八百屋の女房が、すぐに口を挟んだ。
「けちなんじゃないよ。妹には新しいのを作ってやってたんだから。可愛い娘と、そうでない娘の違いさ」
「だったら、なお悪いじゃないか」
仕立て屋の女は、卓の上に置いた手を広げた。
「うちだって、お古は着せるよ。でも、体に合うように直してから渡す。あのお嬢さん、自分で裾を直したっていうじゃないか。侯爵様のお屋敷には、針仕事をする人間もいないのかね」
「いるだろうさ。妹のドレスを作る人間が」
八百屋の女房が言うと、隣の卓にいた男が吹き出した。
仕立て屋の女は笑わなかった。指先で、自分の袖口の縫い目をなぞった。
「人手も金もあるのに、姉娘の服を直す手間だけ惜しんだんだね」
その声は、先ほどより低くなっていた。
けれど、少し離れた卓では、別の話で盛り上がっていた。
「俺は、あの言葉に驚いたよ」
荷運びの男が、酒の入った杯を持ち上げた。
「貴族のお嬢さんでも、寝取るって言うんだな」
「ほかに何て言うんだい。やったことは同じだろう」
八百屋の女房が振り返ると、男は肩をすくめた。
「いや、もっと上品な言い方をするのかと思ってさ。それも、自分の部屋でだろう。ずいぶん大胆なことで」
「親も侍女も知っていたってね」
仕立て屋の女が言った。
隣の卓の男が、身を乗り出した。
「寝取るを上品に言うと、何て言うんだ?」
「お寝取りになられるのでございます、かな?」
荷運びの男が気取った口調で答えると、あちこちから笑い声が上がった。
「むずかしいね。丁寧に言ったところで、やったことは変わらないよ」
八百屋の女房も、口元を緩めた。
「恥知らずに平民も貴族もないんだな。そっちにも驚いたよ」
荷運びの男が言うと、仕立て屋の女がうなずいた。
「まったくだよ。姉さんには可愛げがないだの何だの言って、妹にはそれかい。あの家じゃ、行儀がいいってのは何を指すんだろうね」
「ご先祖様が墓で起き上がったんじゃないか?」
隣の卓の男が言った。
「ああ、情けないだろうな。おちおち死んでもいられない」
荷運びの男が応じ、二人で笑った。
そこへ、奥の卓から太い声が上がった。
「それより、騎士だよ」
仕事着の袖をまくった大工が、空の杯を卓に置いた。
「あのお嬢さんが言ってたじゃないか。ろくに調べもしないで、人を殴って、それで給料をもらってるって」
近くの卓で笑っていた男たちが、そちらを向いた。
「俺たちは、寸法ひとつ間違えたって、やり直しだ。仕事が悪けりゃ金は払ってもらえん。次の注文だってなくなる」
大工は、木の粉が残った爪の先を見た。
「騎士様は、無実の人間を牢に放り込んでも、給料が出るのか」
「私らなんか、朝から働いて、ほんのわずかな儲けだよ」
八百屋の女房が、腰につけた小さな財布をたたいた。
「売れ残りが出りゃ、それだけで損になる。そこから税を納めてるっていうのにね」
「うちも同じだ」
食堂の主人が、皿を下げる手を止めた。
「粉も薪も、買わなきゃ商売にならん。客が少ない日だって税は待ってくれない。あのお嬢さんを殴った連中の給料にも、うちの金が入ってるのかと思うとな」
主人は皿を重ね直した。陶器の触れ合う音が、妙にはっきり響いた。
「人を殴って、贅沢三昧かい」
仕立て屋の女が顔をしかめた。
「立派な制服を着て、いいものを食べて。こっちは、その制服を縫うために目を痛めてるっていうのに」
「俺なんか、王宮へ荷を運ぶたびに待たされるんだぞ」
荷運びの男も、杯を置いた。
「遅いと文句を言われるから早く行けば、担当がいない。荷を下ろそうとすれば、許可がない。待ってる間の金なんか、誰も払ってくれん」
ほかの客も、次々に話し始めた。門で横柄に追い払われたこと。頼まれた修理の代金が、いつまでも支払われなかったこと。
裁判の話をしていたはずが、いつの間にか、それぞれが胸にためていた不満を持ち出していた。
「ただ、あのお嬢さんが殴られたのは、今日まで知らなかったね」
八百屋の女房が言った。
「あの血のついた服を見ても、最初は恐ろしい娘だと思ってたよ。王女様に毒を盛ったんだから、仕方ないって」
仕立て屋の女は、卓に目を落とした。
「私もさ。周りがそう言うから、そうなんだろうと思った」
短い沈黙が落ちた。
大工が、空の杯を指で回した。
「それを確かめるのが、あいつらの仕事だろう」
「そうだよ。聞いた話をそのまま信じて捕まえるだけなら、騎士なんか要らないじゃないか」
八百屋の女房の言葉に、何人もがうなずいた。
食堂の主人は、戸口へ目をやった。それから扉を閉める代わりに、外に出していた最後の椅子を中へ運び入れた。
「お偉方は、どう始末をつけるかね」
主人が言うと、大工が顔を上げた。
「あのお嬢さんも、それを見たいって言ってたな」
「私も見たいよ」
仕立て屋の女が答えた。
「謝って終わりにするのか。殴った騎士は、また明日も同じ仕事をするのか。ちゃんと聞きたいね」
今度は、誰も笑わなかった。
それでも、話は尽きなかった。冷めた煮込みを食べながら、杯の底に残った酒を飲みながら、人々は同じ証言を何度も取り上げた。
帰り支度をした客さえ、戸口で別の客に呼び止められ、また話し始める。
昼間、闘技場で聞いた言葉は、家へ持ち帰られ、隣人に伝えられ、夜更けまで王都のあちこちで繰り返されていた。




