19 裁判のあと
19 裁判のあと
宿の部屋は、小さかった。
窓際に机と椅子がひとつ。壁際に、洗いたてのシーツをかけた寝台がある。
エミリーはこの部屋が気に入っていた。
扉には内側から鍵がかかる。窓の外からは、遅くまで開いている食堂の笑い声が、かすかに聞こえてくる。鉄の匂いも、湿った石の冷たさもない。
エミリーは椅子に腰かけ、机に頬杖をついた。
裁判のあと、王宮の使いが何人も頭を下げにきた。
「どうか王宮にご滞在ください。最上の客室をご用意いたします」
「侯爵家のお屋敷にお戻りになるのも、もちろん自由でございます」
エミリーは、どちらも断った。
出国の手続きについては、担当の者が明日、宿まで説明に来るという。それまでは、誰の屋敷にも世話になりたくなかった。
使いの者は最後に金貨の入った袋と銀貨と銅貨の入った袋を置いていった。
宿の主人が運んできてくれた温かいスープも、パンも、もう食べ終えている。
机の上には、空になった皿と、さっき買ってきた小さな箱が置いてあった。
(レガシーに、お礼をしなくては)
袋の中には、銀紙に包まれたチョコレートが入っている。通りの菓子屋で、いちばん小さな箱を選んだ。自分の財布から払うのは初めてで、お釣りを受け取る手が少し震えた。
そのとき、部屋の隅の灯りが、ふっと揺れた。
「いい宿じゃないか」
壁際の暗がりから、黒い外套の男が歩み出てくる。
「レガシー」
エミリーは立ち上がった。
「いらっしゃい。来てくださると思っていました」
「当然だ。約束だからな」
レガシーは椅子を引き寄せ、どさりと腰を下ろした。足を組み、部屋の中をぐるりと見回す。
「狭いな。王宮の客室を蹴ったと聞いたが、こちらのほうが居心地がよいな」
レガシーは喉を鳴らして笑った。
エミリーは机の上の紙袋を取り、レガシーの前に置いた。
「これ、よかったら」
「ん?」
「今日のお礼です。レガシーが好きかどうか、わからなかったのですけれど」
レガシーは箱を開け、中をのぞいた。金色の瞳が、わずかに見開かれる。
「チョコレートか」
「はい。私が買いました」
「お前が」
レガシーは銀紙をひとつ取り出し、指先で転がした。
「……悪くない。人間から物をもらったのは、久しぶりだ」
口に放り込み、満足そうに目を細める。
「甘いな」
「お口に合いましたか?」
「ああ。お前が買ったと思うと、なおさらうまい」
さらりと言われて、エミリーは頬が熱くなるのを感じた。
レガシーは二粒目の銀紙をむきながら、ちらりとこちらを見た。
「さて。本題に入ろう」
悪魔は身を乗り出した。
「裁判は、どうだった?」
エミリーは、すぐには答えなかった。
椅子に座り直し、膝の上で両手を重ねる。
レガシーはせかさなかった。チョコレートをゆっくり味わいながら、彼女の言葉を待っている。
本当は、うまく答えようと思えば、いくらでも答えられた。
ありがとうございました。楽しかったです。すっきりしました。
どれも、嘘ではないかもしれない。けれど、どれも少しずつ違う気がした。
(悪魔の前では、本当のことしか言えないわ)
そう思った途端、胸の奥にたまっていたものが、ぽろりとこぼれた。
「……おもしろかったです」
エミリーは、自分の言葉に目を瞬かせた。
「ナタリー先生が、ご自分で話しながら青ざめていくところとか。お母様が、鏡の前で練習した黒いドレスのことまで話してしまったところとか。ガーベラが、私の縫い足したドレスを着ていて、袖の刺繍を見て手を止めたところとか」
言いながら、口元がゆるんでいく。
「ポーラが、取り消そうとして、取り消せなくなっていくところも」
「ほう」
レガシーの口角が上がった。
「ロザリーが、約束された侍女頭のお給金の話までしてしまうところも、おかしかったです」
そこまで言って、エミリーは、はっと口を押さえた。
「私、ひどいですね」
「何がだ?」
「人が困っているのを見て、おもしろいなんて」
レガシーは、首をかしげた。
「事実だろう。お前は、おもしろかった。そうだな?」
「はい」
「嘘をつけないのだから、そうなのだ。何を恥じる」
エミリーは、返す言葉を探した。
恥ずかしいわけではなかった。けれど、胸の奥に、ほかにも何かがある。
手が、無意識に動いた。右手の指が、左手の甲を、そっとさする。
気づいて止めようとして、やめた。
(今夜は、いいわ)
エミリーは、ゆっくりと息を吐いた。
「おもしろかったのは、本当です。でも、それだけじゃありませんでした」
「聞こう」
「お父様の証言を聞いたとき、書斎のことを思い出しました」
エミリーは、膝の上に視線を落とした。
「小さいころ、お父様に聞きたいことがあって、扉の前に立ったことがありました。あとにしなさい、と言われました。それから、行かなくなりました」
声は、思ったより静かに出た。
「お父様が、それを覚えていてくださったら、と思ってしまいました」
「ああ」
「私が、あの扉の前で何を聞きたかったのか、私ももう思い出せません」
エミリーは小さく笑った。
「大事なことだったのか、くだらないことだったのかも、わかりません。それが、ちょっと……悔しいです」
レガシーは、何も言わなかった。
銀紙の端を指でそろえながら、ただ、黙って聞いていた。
「お母様の証言のときは」
エミリーは続けた。
「泣いたら叱ったと聞いて、やっぱりそうだったのかと思いました。ずっと、私が悪い子だったから、可愛がってもらえないのだと考えていたので」
そこで言葉が止まった。
喉の奥が、きゅっと狭くなる。
それでも、口は勝手に動いた。
「……私のせいじゃなかったと、わかって、ほっとしました」
ぽたり、と膝の上に雫が落ちた。
「ほっとしたのに、涙が出ます。おかしいですね」
「おかしくない」
レガシーは、短く言った。
エミリーは袖で目元を押さえた。止めようとしても、止まらなかった。
悪魔は、慰めの言葉を並べなかった。肩に手を置くこともしなかった。ただ、チョコレートの袋をそっとエミリーの手元へ押しやった。
「食え」
「……はい」
エミリーは銀紙をむき、一粒を口に入れた。
甘さが、舌の上でほどける。
牢で初めて口に押し込まれたのが遠い昔のように感じる。
「あのときも、これでしたね」
「あのとき?」
「レガシーが、最初に来てくださった夜です。頭が働かないって言ったら、おかわりをくれました」
「ああ。あれか」
レガシーは、目を細めた。
「百人目の記念だったからな」
「ほかの九十九人にも、チョコレートをあげたのですか?」
「いや」
レガシーは、あっさり答えた。
「お前にだけだ。ほかの連中は、見ていただけだ」
エミリーは顔を上げた。
「どうして、私だけ……」
「さあな」
悪魔は肩をすくめた。
「嘘をつかない代わりに、答えたくないことは答えない主義でな」
「ずるいです」
「悪魔だからな」
にやりと笑う顔に、エミリーも泣き笑いのような顔になった。
涙を拭き終えるころには、胸の奥が、少し軽くなっていた。
窓の外では、食堂の笑い声がまだ続いている。
「ところで、エミリー」
レガシーが、声の調子を変えた。
「裁判の感想を、もうひとつ聞いておきたい」
「はい」
「あの連中を、恨んでいるか?」
エミリーは、すぐには答えなかった。
ナタリーの紅色のドレス。母のベール。父の震えた手。ガーベラの水色の袖。ポーラの、取り消せなくなった言葉。
ひとつずつ、思い浮かべる。
そして、自分の胸の中を、静かにのぞき込んだ。
「……恨んでいます」
はっきりと、言えた。
「誰も許しません」
「そうか」
「でも」
エミリーは、言葉を探した。
「裁判を聞いているうちに、恨みの形が変わりました。ずっと、どうして、と思っていました。どうして私だけ、と。今日、その答えを、全部聞きました」
彼女は、指先で銀紙をつまんだ。
「理由は、思っていたよりずっと、くだらなかったです。くだらない理由で、私は牢に入れられたんだと思うと……裁判がなかったら殺されていたでしょうし」
エミリーは、少し笑った。
「恨みが、軽くなったわけではありません。ただ、あの人たちを、前みたいに大きく感じなくなりました」
レガシーは、しばらく黙っていた。
やがて、低く喉を鳴らした。
「それは、いい変化だ」
「そうでしょうか」
「ああ。恨みは、相手を大きくしたままだと重いからな。小さく見えるようになれば、持ち歩くのも楽になる」
悪魔は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「俺は百人の恨みを見てきたが、そこまで辿り着いた人間は、あまりいなかった」
「そうなのですか」
「ほとんどは、恨みを抱えたまま、牢で終わった」
その言葉に、エミリーは息をのんだ。
九十九人。
彼らの恨みは、誰にも聞かれないまま、あの暗い牢の壁に染み込んでいったのだろうか。
「……私は、運がよかったのですね」
レガシーが、黙って笑った。
「そんな理由で十分だ。気に入ったのだから」
笑いながら、胸の奥が、じんわりと温かくなる。
(気に入った、と言ってもらえた)
悪魔は嘘をつかない。
その言葉が、今夜はこれまでよりもずっと、深く沁みた。
笑いがおさまったあと、エミリーは、ふと窓の外へ目をやった。
「レガシー」
「なんだ」
「明日、出国の手続きの説明を受けたら、私はこの国を出ます」
「ああ」
「行き先は、まだ決めていません。でも、どこへ行っても、ひとりで生きていけるか、少し怖いです」
エミリーは、正直に言った。
嘘がつけないのは、不便だと思う。けれど、今夜は、それでよかった。
レガシーは、じっと彼女を見た。
「怖いなら、怖いと言えばいい。お前は、それができる人間だ」
「はい」
「それに」
悪魔は、にやりと笑った。
「俺は、まだ願いを聞いてもらっていない」
エミリーは、はっとした。
「そうでした。ひとつだけ、願いを聞く約束でしたね」
「忘れていたな?」
「いえ、あの……はい、少し」
「正直でよろしい」
レガシーは、くつくつと笑った。
「安心しろ。今すぐ言うつもりはない。お前が新しい国に着いて、落ち着いたころに、取り立てに行く」
「取り立て……」
「だから、俺が来る日まで、勝手にくたばるなよ」
軽い口調だった。
けれど、その金色の瞳の奥に、ほんの少しだけ、真剣な色が混じっているのを、エミリーは見逃さなかった。
胸の奥で、小さな灯りがともる。
(この人は、私が生きていくことを、望んでくれている)
牢で最初に出会った夜には、考えもしなかったことだった。
「はい」
エミリーは、まっすぐに答えた。
「待っています。ちゃんと、生きて」
「それでいい」
レガシーは立ち上がり、外套の裾を払った。
チョコレートの箱を、大事そうに懐へしまう。
「では、今夜はこのへんにしておこう。明日は役人の説明があるのだろう? よく眠れ」
「はい。……レガシー」
「ん?」
「ありがとうございました。裁判を開いてくださって」
悪魔は、肩越しに振り返った。
「礼は、よく眠ってからにしろと言ったはずだ」
「でも、今言いたいんです」
エミリーが言い張ると、レガシーは、ふっと表情をゆるめた。
「……どういたしまして」
その声は、これまで聞いたどの声よりも、やわらかかった。
「おやすみ、エミリー。恨むのは、起きてからでいい」
「はい。おやすみなさい、レガシー」
闇が、悪魔の姿をほどいていく。
あとには、チョコレートの甘い匂いだけが、かすかに残った。
エミリーは窓を少し開けた。
夜風が、頬をなでていく。遠くで、食堂の笑い声が弾けた。
見上げた空には、星が散らばっていた。牢の天井よりも、ずっと遠くまで見通せる空だった。
(明日から、私の人生が始まるのね)
胸の中に、不安と、期待と、ほんの少しのわくわくが、同じ大きさで並んでいた。
エミリーは、小さく笑った。
それから、洗いたてのシーツの寝台に潜り込み、目を閉じた。
その夜も、ぐっすりと眠れた。




