02 恨みは休養から
02 恨みは休養から
悪魔は、板の上に座るエミリーをしばらく眺めていた。腫れた頬、血のにじんだ唇。それから、膝の上で握りしめられた手へと視線を移す。
「まずは、その傷だな」
伸びてきた手に、エミリーは思わず身を縮めた。
悪魔の手が、彼女の頬に触れる寸前で止まった。
「殴りはしない。もう十分殴られただろう」
その言い方があまりに当然だったので、エミリーは何も答えられなかった。
「じっとしていろ」
指先が、そっと頬に触れた。
温かいものが皮膚の下へ染み込んでくる。ずきずきと脈打っていた痛みが薄れ、腫れのせいで重かったまぶたが、楽に開くようになった。
エミリーは息をのんだ。
頬だけではない。背中や脇腹の痛みも消えていく。手首に残った擦り傷がふさがり、身じろぎするたびに引きつっていた肌が、元に戻っていた。
「どうして……」
「その体調では、ろくな恨み方ができない」
悪魔は真面目な顔で言った。
「痛い、寒い、腹が減った。そればかり考えていては、誰に何をされたのかも、まともに思い返せんだろう」
「恨むために、治してくださったの?」
「ほかに何がある」
そう言いながら、悪魔は片手を軽く振った。
石の床に小さなテーブルが現れた。その上には、湯気の立つスープとパン、オムレツが並んでいた。
温かい食べ物の匂いが、湿った牢の空気に広がった。
エミリーのお腹が、小さく鳴った。
彼女がうつむくと、悪魔は椅子を引いた。
「食べろ。毒は入っていない」
その言葉に、エミリーの肩がこわばる。
悪魔は彼女の顔を見て、少し間を置いた。
「……今のは余計だったな。忘れてくれ」
エミリーはおそるおそる椅子に座った。スプーンを持つ手が震えて、器の縁にかすかな音を立てる。
スープを一口飲むと、温かさが喉を通って、お腹へ落ちていった。
もう一口、飲んだ。
野菜は煮込まれてやわらかかった。パンも暖かくて美味しい。
涙を拭こうとスプーンを置いた。
悪魔は急かさなかった。泣くなとも言わず、彼女が食べ終えるまで、卓の向こうで待っていた。
最後の一口を飲み込んだころには、張りつめていた肩の力が抜けていた。
悪魔が再び手を振る。
背後で、布の擦れる音がした。
振り返ったエミリーは、目を見張った。さっきまで横たわっていた粗末な板が消え、そこには厚い敷布と、ふっくらした枕を備えたベッドが置かれていた。掛け布団の端が、彼女を待つように折り返されている。
「今度は眠れ」
「でも……」
「恨むのは起きてからでいい。逃げもしないし、なくなりもしない」
エミリーは立ち上がり、ベッドの端にそっと手を置いた。掌がやわらかく沈む。
腰を下ろすと、それだけで横になりたくなった。
「ゆっくり眠れ。途中で起きて、無理に考え事などするな」
悪魔は、彼女が布団に入るのを見届けた。
「待って」
その姿が薄れ始め、エミリーは慌てて声をかけた。
「……ありがとう」
悪魔はわずかに眉を上げた。
「礼なら、よく眠ってから言え」
そう言うと、今度こそ姿を消した。
牢は静かになった。
エミリーは枕に頬を預け、布団を肩まで引き上げた。さっきまで痛くて触れられなかった頬に、やわらかな布が心地よかった。
疑いたいことも、考えなければならないことも、たくさんあった。
けれど、まぶたが落ちてくる。
彼女はそれに逆らわず、温かな布団の中で、ゆっくりと眠りに沈んでいった。




