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百人目の囚人  作者: 朝山 みどり


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13 母親の証言

 13 母親の証言


 母は黒いドレスの裾を持ち上げ、証言台へ進んだ。

 薄いベールが顔にかかっている。片手には、白いハンカチを握りしめていた。


 役人が口を開いた。


「偽りを述べぬことを誓いますか」


「はい。誓います」


 母は静かに答え、ハンカチを目元へ当てた。


(落ち着いて。聞かれたことだけ答えればいいのよ)


 先ほどのナタリーの姿が、頭から離れなかった。だが、母には家庭教師とは違う立場がある。娘を育ててきた母親なのだ。


「エミリー嬢は、幼いころ、どのようなお子様でしたか」


 役人の問いに、母はゆっくりと首を振った。


「あの子は、子どものころから可愛げのない子でした」


 声は、闘技場の隅々まで届いた。

 母は伏せていた目を上げ、中央のエミリーを見た。


「転んでも泣きませんし、私に甘えることもありませんでした。母親として、どう接したらよいものか……」


 そこで一度、言葉を切るつもりだった。

 けれど、唇が動いた。


「泣いたときに、うるさいと叱ったのは私です」


 母の手が止まった。


「……え?」


 自分の声が、遅れて耳へ戻ってきた。

 観客席のざわめきが薄れていく。


「小さいころは泣いていました。転べば泣きましたし、抱いてほしがることもありました。でも、そのたびに私は、いつまで泣いているの、ひとりで立ちなさいと言いました」


 母はハンカチを口に当てた。


(違うわ。こんな話をするつもりでは……)


 役人が眉を寄せた。


「では、初めから泣かないお子様だったのではないのですね」


「ええ。私が、泣かなくなるまで叱ったのです」


 母は目を見開いた。

 ハンカチを握る指に力が入る。


「ですが、妹は素直で、私を頼ってくれました。エミリーは、何を考えているのかわからなくて……」


 それならば話せると思った。

 実際、ポーラは可愛かった。抱きついてくる娘に、母も自然と腕を広げられた。


「ポーラが転んだときは、抱き上げました。膝に少し傷ができただけでも、侍女を呼んで薬を持ってこさせました」


 母の声が細くなった。


「その横で、エミリーが立っていました」


 昔の庭が、目の前に浮かんだ。

 腕の中には泣いているポーラ。その向こうに、膝をすりむいたエミリーがいた。


「お姉様なのだから、我慢なさいと言いました。あの子も、まだ小さかったのに」


 客席で、女がひとり、隣の者へ顔を寄せた。


「それで、泣かなくなった子を可愛げがないって……」


 母は声のしたほうを見た。

 顔は見つけられなかった。大勢が、じっとこちらを見ている。


「私は、母親として、あの子のためを思って……」


 言いかけた声が詰まった。

 母は何度か息を吸ったが、続きは出なかった。


 代わりに、別の言葉が漏れた。


「私の手を煩わせないでほしかったのです」


 握りしめたハンカチの角が、指の間から垂れた。


「ポーラのほうが可愛かったのです。私を好きだと言ってくれるし、私が選んだものを喜んでくれるから」


 貴賓席で、ポーラが顔を伏せた。

 母はそちらへ目を向け、慌てて言い足そうとした。


「もちろん、エミリーにも同じように……エミリーは義母にそっくりなのです」


 また、言葉が止まった。


(言いなさい。同じように愛していたと。それだけでいいのよ)


 唇が震えた。


「同じようには、していませんでした」


 母は証言台の縁をつかんだ。


「ポーラには新しいドレスを作りました。エミリーには、まだ着られるものがあるでしょうと言って……ポーラが着なくなったものを渡しました」


 役人が、手元の書類から顔を上げた。


「エミリー嬢のほうが、お姉様なのでは?」


「はい」


「体に合ったものだったのですか」


「知りません。着せて確かめたことはありません」


 答えた瞬間、母はエミリーを見た。

 娘は椅子に座り、膝の上に両手を重ねていた。血の残ったドレスの裾が、足元に垂れている。


 母は目をそらした。


「あの子は、何も言わなかったのです」


 その声には、責めるような響きが混じった。


 だが、すぐに口が動いた。


「いいえ。言いました。袖がきついと。裾が短くて、このままでは外へ出られないと」


 母は下を向いた。


「私は、ポーラは喜んで着ていたのに、あなたは文句ばかりねと言いました。それからは、何も言わなくなりました」


 役人はしばらく黙っていた。

 やがて、問いを変えた。


「今回の事件について、御本人から話を聞きましたか」


「聞く必要はありませんでした。証拠があると伺いましたし、侍女も証言して……」


 母は急いで答えた。

 けれど、その声は途中で弱まった。


「聞きたくなかったのです」


 白いハンカチが、証言台の上に落ちた。


「身に覚えがないと言っていました。お母様、話を聞いてくださいと。何度も。でも侍女も証言致しましたし」


 母は落ちたハンカチを見つめたまま、続けた。


「私は、黙りなさいと言いました。これ以上、家に恥をかかせないでと」


 闘技場が静まり返っていた。

 母の呼吸だけが、仕掛けを通じて大きく聞こえた。


「地下牢へ移されたあと、会いにいきましたか」


 役人の問いに、母は首を横に振った。


「いいえ」


「差し入れは?」


「していません」


 母はベールの端をつかんだ。

 顔を隠そうと引き下げたが、薄い布では何も隠せなかった。


「私は、つらかったのです。母親として……」


 その先を言おうとして、喉が震えた。


「娘が牢で何を食べているかも、眠れているかも、考えていませんでした。裁判で着るドレスを選んでいました」


 客席のどこかで、短い息が漏れた。


「黒いドレスなら、娘に裏切られた母親に見えると思ったのです。鏡の前で、このハンカチを目に当てて……可哀そうな母親に見える演技を練習しました」


 母は口を押さえた。

 涙がベールの下を伝い、顎から落ちた。


 今度は、鏡の前で作った顔ではなかった。


「もう、下がってもよろしいでしょうか」


 母は役人に尋ねた。

 役人は書類を見下ろし、それからうなずいた。


「下がってください」


 母はハンカチを拾い、証言台を降りた。

 エミリーの前を通りかけたところで、足が止まる。


 娘は、母を見ていた。

 転んだあと、自分で立ち上がり、じっとこちらを見ていた幼い日の顔が重なった。


(何か、言わなければ)


 母は口を開いた。


「エミリー、私は……」


 続きが出なかった。

 謝る言葉を探すより先に、娘が何と答えるかが恐ろしかった。


 エミリーは何も言わなかった。


 母はハンカチを握り直し、うつむいたまま歩き出した。

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