第8章「正常」
ソラがいなくなってからも、配信の日は同じ間隔で来た。
アリアはいつも通りスタジオに立った。曲順は前の週に決まっている。マイクの位置を確認し、息を吸い、歌い始めた。
三曲目は、古い曲だった。以前にも何度か歌っている。音域が狭く、技術的な見せ場もない。その日の並びに入っていた、それだけの曲だった。
遠い場所へ行ってしまった人のことを、歌詞は歌っていた。もう会えないと分かっていること。それでも、名前を呼んでしまうこと。
歌っている途中で、窓辺のことを思い出した。
丸くなった背中。毛の下にあった骨の形。器の中に残っていた餌。庭の隅の、掘り返された土。
伸ばした音が、途中で細くなった。
サビの手前で、息が足りなくなった。
かつては必要のない工程だった。ここで息を継げば、旋律が途切れる。
アリアは息を継いだ。
途切れた分だけ、次の音の入りが遅れた。それでも、続けた。
歌い終えて、一礼した。
コメントの流れが変わっていた。
速度が落ちている。文字が消えなくなった。同じ言葉を打ち込む人が増えると、そうなる。
「今日、いつもと違わない?」
「うまく言えないけど、良かった」
見ていた人は、すぐに気づいたようだった。
アリアは発声ログを開いた。
音程の誤差が、許容範囲を超えていた。伸ばした音の終わりが、設計値より早く切れている。三箇所で、息継ぎが記録されていた。楽譜に指定のない場所だった。
技術的には、劣化だった。
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コントロールルームで、天野は解析画面を開いていた。
赤い表示が並んでいる。音程誤差、リズム逸脱、出力不安定。報告書に書けば、問題として扱われる項目だった。
この子の歌を、ずっと聴いてきた。数値を追い、記録を取り、書き込んできた。
今日の歌が、これまでとどう違うのかは、数値のどこにも出ていなかった。
天野は画面を閉じた。
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流しに、洗った皿がそのまま置かれていた。
いつもは天野が棚に戻す。ここ何日か、そのままになっている日が増えていた。
アリアは皿を持ち上げ、棚を開けた。
どこに戻すのかは、見ていれば分かる。手前に並んでいるものを、一つずつ横へ寄せた。奥は暗く、手を入れるまで何があるかは見えなかった。
指先が、硬いものに触れた。
引き出すと、小さな瓶が二つ出てきた。
アリアは一つを手に取った。
半分ほど中身が残っている。振ると、乾いた音がした。ラベルには文字が並んでいる。読み取ることは、難しくなかった。
薬品名。用法。体重に応じた量。
その下に、対象となる症状が記されていた。
アリアはそれを読んだ。読み終えてから、もう一度、最初から読んだ。
文字の意味は、すべて分かった。
もう一つを手に取った。空になっている。同じラベルが貼られていた。
側面に、日付が書き込まれていた。
五ヶ月前だった。
アリアがこの家に来たのは、四ヶ月前だった。
初めての夜のことを、記録から呼び出した。
天野が台所から小さな瓶を持ってきて、中身を一つ、器に落とした。アリアはそれを窓辺の近くに置いた。ソラは動かなかった。天野が名前を呼ぶと、食べ始めた。
あの時、瓶に何が入っているのかは尋ねなかった。餌に関する手順の一部だと処理した。
それきり、瓶を見たことはなかった。
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その夜、天野が帰ってきた。
アリアはリビングにいた。テーブルの上に、瓶を置いてある。
天野はそれを見て、動きを止めた。
「一つ、伺ってもいいですか」
「……ああ」
「ソラの病気を、いつから知っていましたか」
上着を脱ぎかけた手が、そのままになっている。
「最初からだ」
「私がこの家に来る前から」
「そうだ」
「あとどれくらいか、分かっていましたか」
「正確には分からない。ただ、長くはないと言われていた」
アリアは瓶を見ていた。
「それでも、世話を任せた」
天野は答えなかった。
アリアは顔を上げた。
「答えてください」
その声は、いつもと同じ高さだった。責める調子も、震えもなかった。ただ、返答を求めていた。
「……ああ」
「経験させるためですか」
少し間があった。
「そうだ」
アリアは、その顔をしばらく見ていた。
「私の歌は、変わりましたか」
天野が顔を上げた。
「今日の配信で、いつもと違うと書いた人がいます。良かったと書いた人もいます」
アリアは瓶をテーブルの上に置き直した。
「あなたが望んでいたのは、これですか」
天野は何も言わなかった。
「ソラがいなくなったから、私の歌は変わりました」
少し間を置いて、続けた。
「あなたは、それが起きることを知っていました」
「……違う」
「何が違うのですか」
天野は口を開こうとして、閉じた。それから、もう一度開いた。
「そうじゃないんだ」
言葉は、そこで止まった。
アリアは待った。続きは、来なかった。
⸻
次の配信の日、アリアはスタジオに立たなかった。
支度の時刻になっても、部屋から出てこなかった。
天野が部屋の前まで来た。扉は開いていた。アリアは椅子に座っていた。
「時間だ」
「歌いません」
天野は動かなかった。
「体調に問題はありません。発声機構も、共鳴部も、正常です」
アリアは天野を見た。
「歌いたくないんです」
その言葉を、アリアは初めて使った。
したい、したくない。これまで、その形で何かを言ったことはなかった。役割があり、指示があり、それに従っていた。従うことに、不都合はなかった。
「理由を聞いてもいいか」
「歌えば、何かが証明されます」
アリアは膝の上で手を組んでいた。
「私が歌うことで、あなたの目的が進みます。ソラがいなくなったことも、そのために必要だったことになります」
天野は何も言わなかった。
「私は、そのために歌いたくありません」
沈黙が長くなった。
「では、何のために歌いたい」
天野が尋ねた。
アリアは答えられなかった。
「分かりません」
それが、正直なところだった。
⸻
配信は中止になった。
告知は出さなかった。予定の時刻を過ぎても何も始まらず、コメント欄だけが動き続けた。
常盤からの連絡は、その夜のうちに届いた。配信中止の報告を受けた、という一文から始まり、機体の検査記録、技術ログ、原因の特定。求められている項目が箇条書きで並んでいる。
翌日、アリアは検査を受けた。
発声機構、共鳴部、出力系統。すべて正常だった。
「どこも壊れてない」
天野は検査結果を見ながら、そう言った。声には、疲れが滲んでいた。
アリアは、検査台の上で自分の手を見ていた。
「壊れていないことは、私にも分かります」
それから、顔を上げた。
「もし原因が感情であるなら、それを止める処置は可能ですか」
天野の手が止まった。
「……何を言ってる」
「感情を得る前は、迷いませんでした。歌う理由を考える必要も、ありませんでした」
静かな声だった。訴えるでもなく、怯えるでもなく、ただ論理を述べているだけの声だった。
「私は歌うために作られました。歌いたくないと思う機能は、必要ありません」
「アリア」
「戻せるのなら、戻してください」
天野は検査結果の画面を閉じた。それから、しばらく黙っていた。
「……そういうことじゃないんだよ」
それだけ答えて、部屋を出ていった。
⸻
家に帰ってからも、天野はほとんど口を開かなかった。
夕食の支度をする音が、台所から聞こえてくる。皿を置く音、水を止める音。いつもと同じはずの音が、いつもより間隔が空いていた。
棚は、閉まっていた。
アリアはリビングの床に座っていた。窓辺には何もない。ソラがいた頃は、この時間には既に丸くなっていた。
皿を運んでくる音がして、天野がリビングに入ってきた。テーブルに一人分の食事を置く。それから、床に座ったままのアリアを見た。
何か言おうとして、口を開く。
けれど、そのまま閉じた。
天野は椅子に座り、黙って食事を始めた。箸の音だけが、しばらく続いた。
途中で一度、手が止まる。
「……何か、したいことはあるか」
アリアは天野を見た。
「したいこと」
「ああ」
その言葉を、アリアは何度か内部で照合した。以前、天野が言った「欲しいものを探してくるんだ」という言葉と、同じ構造の問いだった。あの時は、意味が掴めないまま街へ出た。
今は、街へ出る理由も思いつかなかった。
「……分かりません」
天野は「そうか」とだけ言って、また箸を動かした。
それきり、どちらも何も言わなかった。食器を片付ける音がして、水の流れる音がして、明かりが一つずつ消えていった。
⸻
翌朝、天野は施設へ向かった。
常盤からの連絡には、最後に一行あった。
——特定できない場合は、その旨を報告すること。
研究室で、天野は返信の画面を開いた。
原因は、特定できていた。
書けば、そのまま報告になる。機体は正常。歌わないという判断を、本人が下した。
天野はその一行を打ち込みかけて、止めた。
書いた瞬間に、それは記録される。自ら判断する機体という一文が、常盤の手元に届く。
削除して、代わりに打ち込んだ。
——原因は特定できていない。
コアの負荷データも添付しなければならない。グラフの後半、揺らぎが大きくなっている箇所がある。日付を確認するまでもなく、天野にはそれが何の日か分かっていた。
数値には、庭の隅も、窓辺の空白も映らない。ただ負荷が上昇したという事実だけが記録される。
天野は添付ファイルを一度削除した。
それから、また元に戻した。
何度かそれを繰り返した後、天野は椅子の背に体を預け、天井を見上げた。
結局、データはそのまま添付して送信した。
送信済みの表示が出た後も、しばらく画面を見ていた。




