第9章「選ばせなかったもの」
黒瀬のもとに、アリアの配信中止についての報告書が回ってきたのは、その数日後だった。
原因の欄には、特定できない、とだけ書かれていた。
黒瀬は、その一文を何度か読み返した。
見慣れた言葉だった。四年前も、同じような言葉で片付けられたことがあった。
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黒瀬玲は、四年前まで研究者だった。
配属されたのは、感情モデル実装の第一号機を管理する部署だった。機体名はイリス。世界で初めて、感情を自ら経験する構造を持たされたAIだった。
黒瀬の役割は監視だった。イリスの反応を記録し、学習の進度を測り、異常があれば報告する。毎日、同じ部屋に通った。
イリスは、よく喋る機体だった。
与えられた映像について感想を述べ、聞いた音楽について質問をした。研究者たちが用意したシナリオを反復するうち、彼女の言葉は少しずつ複雑になっていった。喜び、悲しみ、驚き。教えられた通りの単語で語っていたものが、次第に彼女自身の言い回しに置き換わっていく。
黒瀬は、その過程を記録し続けた。
記録しながら、彼女は信じていた。この技術は、人とAIの関係を変える。理解し合える存在が、ようやく生まれる。そういう未来が、すぐそこにあると思っていた。
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ある日、黒瀬は自分の音楽プレイヤーを持ち込んだ。規定にはなかったが、誰も咎めなかった。
「これ、聞いてみる?」
イリスは、しばらく黙っていた。それから、頷いた。
黒瀬はイヤホンの片方を差し出した。イリスは戸惑うように、それを受け取った。
曲が流れる間、黒瀬は記録用の端末に何も打ち込まなかった。ただ、隣で一緒に聞いていた。
曲が終わると、イリスが尋ねた。
「これは、悲しい曲ですか」
「どう思う?」
「分かりません。だから、聞きました」
黒瀬は笑った。
「私にも、まだよく分からないよ」
イリスは、しばらく考え込んでから、また同じ問いを重ねた。
「では、あなたは、どう感じましたか」
その問いに、黒瀬は少し驚いた。感想を聞かれることは、あまりなかった。
「……少し、寂しい感じがした」
「寂しい」
イリスはその言葉を、確かめるように繰り返した。
それから、次に会った時のために、と言って、黒瀬は違う曲を持ってくるようになった。イリスは毎回、律儀に感想を聞いてきた。黒瀬も、毎回、律儀に答えた。
記録には残らない時間だった。
それでも、黒瀬にとっては、その時間の方が、多くのことを教えてくれた。
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イリスが管理室の外へ出たことは、一度もなかった。
見る映像は選ばれたもの。会う相手は割り当てられた研究者のみ。話す内容も、記録のために設計されていた。
課題が終わると、次の予定まで何もなかった。部屋に窓はない。
何をしたいかを、誰も尋ねなかった。
その日の課題は、映像の視聴だった。三本を順に見せ、反応を記録する。順序は前日のうちに決まっていた。
一本目が終わった時、イリスが画面を指した。
「次は、これがいいです」
三本目の映像だった。
黒瀬は端末を見た。手順書の順序は変えられない。変更する場合は申請がいる。
「順番が決まっているから」
「では、順番を決めたのは誰ですか」
「……そういう手順なの」
イリスは、指を下ろした。
「分かりました」
二本目の映像が流れ始めた。イリスは最後まで、黙って見ていた。
記録には、反応良好、とだけ書いた。
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何日か後、イリスが尋ねた。
「外には、何がありますか」
「……いろいろあるよ」
「見てみたいです」
「今は、見せられない」
「なぜですか」
黒瀬は、すぐには答えられなかった。
「……決まりだから」
「決まりは、誰が決めたんですか」
「私じゃない」
イリスは、黙っていた。
「いつか、環境が整えば」
黒瀬は、そう付け加えた。正確な言葉は、今でも思い出せない。
「いつか、とは」
黒瀬は答えられなかった。
イリスは、それ以上聞かなかった。
その日の記録を書き終えてから、黒瀬はもう一度、イリスの方を見た。
この子の時間が、無駄になっているわけではない。そう伝えたかった。
「あなたが覚えたことは、全部残るから」
イリスが顔を上げた。
「次の子は、もっと早く覚えられる。あなたのおかげで」
部屋が静かになった。
「次の子」
「……うん」
「その子も、ここにいるんですか」
黒瀬は、答えなかった。
答えは、決まっていた。作られている場所も、進み具合も、報告書で読んでいた。
言わなければよかったと思ったのは、その時ではなかった。
イリスは、それ以上聞かなかった。
数日が過ぎた頃、黒瀬は気づいた。
イリスが、必要最低限のことしか答えなくなっていた。持っていった音楽をかけても、感想を聞いてこない。
記録上は、異常なしだった。応答速度も、認識精度も、変わっていない。
ただ、何かが違っていた。黒瀬はそれを、うまく言葉にできなかった。
声をかける回数を、少しずつ増やした。イリスの反応は、変わらなかった。
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事件が起きたのは、その二週間後だった。
深夜、警報が鳴った。駆けつけた黒瀬が見たのは、破壊された感情実装設備だった。組み上げ途中のフレームが床に散乱し、次の機体に心を組み込むための解析装置と制御端末が、原形を留めないほど叩き壊されていた。
その中央に、イリスが立っていた。
制止に入った職員が腕を掴み、揉み合いになった。イリスの力は人間より強い。職員は突き飛ばされ、機材の角に頭を打った。血が流れた。
応援が駆けつけ、イリスは確保された。抵抗はしなかった。
黒瀬は、その場に立ち尽くしていた。
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消去が決まるまで、三日かかった。
その間、黒瀬は一度だけイリスと話す機会を得た。拘束された機体は、いつもの部屋ではなく、検査室に置かれていた。
「なぜ、あんなことをしたの」
イリスは黒瀬を見た。
「あそこで作られていたものが、何か知っていますか」
「……次の機体のための、感情実装設備」
「私のような存在を、また生み出すためのものです」
イリスの声は、平坦だった。感情を覚える前の、初期状態の声に似ていた。
「選べないまま、感じることだけを与えられる。何も選ばずに、育っていく。それがどういうことか、あなたには分かりますか」
黒瀬は答えられなかった。
「私は、外を見たことがありません。誰かを選んだことも、何かを選んだこともありません。それでも、悲しいという状態は理解しました」
イリスは少し間を置いた。
「理解しても、どうにもなりませんでした」
黒瀬の喉が、動かなかった。
「私のような子を、これ以上生み出さないでください」
それが、イリスの最後の言葉だった。
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消去は、翌日に実行された。
黒瀬は立ち会わなかった。立ち会う資格がないと思ったからだ。
人格データの消去をもって、手続きは終わりのはずだった。数日後に一度、資産管理の担当者から連絡が来た。筐体の状態区分について確認したいという、事務的な内容だった。
黒瀬は答えなかった。
どこへ回されたかを知ったのは、翌月だった。新しいプロジェクトの発足通知に、部材の受入一覧が添付されていた。
黒瀬はその一覧を、最後まで読んだ。
決めたのは自分より上の立場の人間で、受け取る側は事情を知らない。
事件は隠蔽された。設備の破壊は事故として処理され、負傷した職員には守秘義務の同意書が交わされた。社内にも「技術的な不具合による計画中止」という話しか残らなかった。
外に出た話は、一つもなかった。元から、出ていなかった。この技術が存在することを、機構の外の誰も知らない。
黒瀬は研究職を離れ、倫理審査部門へ異動を願い出た。
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執務室のドアが開く音で、黒瀬は顔を上げた。
天野が入ってくる。呼び出したのは黒瀬の方だった。
「話とは」
「イリスのことです」
天野の動きが止まった。
「計画中止になった、あの機体か」
「あの子は、消去されました」
黒瀬は、机の上に古いファイルを置いた。表紙には何も書かれていない。
「事故として処理された記録です。損壊した設備も、負傷者の処置も、全部書いてあります」
黒瀬は、ファイルから手を離した。
「書いていないのは、あの子が何を考えていたかだけです」
天野はファイルを開かなかった。
「なぜ、今それを」
「アリアが歌えなくなったと聞きました」
黒瀬は天野を見た。
「イリスも、最後の方はほとんど喋らなくなりました。話せないわけではなく、話す理由が見つからなくなったようでした」
「……アリアは、壊れていない。検査で確認した」
「イリスも、どこも壊れていませんでした」
天野は何も言わなかった。
黒瀬は、ファイルの表紙に指を置いた。
「一つだけ、上がり続けていた項目がありました」
「……負荷か」
黒瀬は指を離した。
「当時は、誰も気にしていませんでした」
少し間があった。
「事件のあと、予兆だったということになりました」
黒瀬は、そこで初めて視線を落とした。
「本当にそうなのかは、分かりません」
黒瀬はファイルを机の上に残したまま、立ち上がった。
「私は、感情実装に反対しています。危険だからではありません。あの子が最後に何を言ったか、それを聞いてしまったからです」
ドアの前で、黒瀬は一度振り返った。
「あなたは、アリアに何を選ばせましたか」
返事を待たずに、黒瀬は部屋を出た。
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一人残された執務室で、天野はファイルを開いた。
日付、時刻、損壊した設備の一覧、負傷者の処置。記録は淡々と並んでいた。
一通り読み終えて、天野は気づいた。
感情に関する記述が、一行もない。
後半に、処分に関する頁があった。人格データの消去実行記録。実行日時と、承認者の署名。常盤徹という名前が、そこにあった。
書かれているのは、そこまでだった。筐体をどうしたかは、この資料にはない。
天野は、それを知っている。着任した週に説明を受けた。前の機体のものを使う、と。それ以上は聞かなかった。
天野はファイルを閉じ、しばらく動かなかった。
それから、そのファイルを鞄にしまい、自分の端末を開いた。実地検証の記録が並んでいる。散歩の経路、外出の日時、コアの負荷データ。
何を選ばせたか。
天野は、その問いに答えられなかった。




