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Project Aria|心を持たない歌姫  作者: SAKURA.


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第10章「知らなかったこと」

 黒瀬が置いていったファイルは、自室の机の上に伏せたままになっていた。


 持ち帰ってから、一度読んだきり、開いていない。捨てることも、片付けることもしていなかった。書類の山に紛れると分からなくなるので、何度か位置を直した。それだけだった。


 天野は、日課をこなした。


 毎朝同じ時刻に画面を開き、同じ項目を埋めていく。手は動いた。頭も回った。仕事としては、何一つ滞っていなかった。


 一度、一番下の引き出しに手をかけた。


 四年前から、ほとんど開けていない段だった。紬の書いたものが入っている。


 取っ手を握ったまま、動かなかった。


 手を離した。開けなかった。


 配信は、当面見合わせることになっていた。原因が特定できない以上、再開の目処も立てられない。そう報告してある。週に一度のはずの予定が、何も書き込まれないまま過ぎていく。


 アリアの顔を見る回数が減った。


 用がなければ自室にいる。食事の支度をして、皿を置いて、また戻る。話しかけられれば答えるが、こちらから何かを言うことがなくなった。


 アリアは何も聞かなかった。しばらく家から出ない日が続いていたが、いつからか、また決まった時刻に外へ出るようになっていた。リードは持っていない。窓辺の前で立ち止まる時間も、日によって長さが違った。


 天野はその様子を、廊下の途中から見ていた。声はかけなかった。


⸻


 何を選ばせたか。


 その問いは、ふとした拍子に浮かんできた。


 散歩の道順も、金を渡したことも、ソラの世話を任せたことも。彼女が選んだように見えるものの手前に、必ず自分の選択がある。行き先を指定しなかった時でさえ、その自由を与えたのは自分だった。


 外へ出さなければ、イリスと同じになる。あの機体がどうなったかは、机の上のファイルに書いてある。


 どちらでもない道が、あったはずだった。


⸻


 実地検証を言い出したのは、紬だった。


 夜の研究室だった。帰るきっかけを二人とも逃していて、天野は明日でいい書類を眺めていた。紬は自分の椅子に座ったまま、作業台の方を見ていた。


「この子、ここにいるだけじゃ育たないと思う」


 天野は顔を上げた。


「外に出すってことか」


「うん」


「無理だろう。前例がない」


「そうね」


 否定はしなかった。それでも、視線は作業台から動かなかった。


「出したとして、何をさせるんだ」


 紬は少し考えた。


「別に、何も」


 それから、笑った。


「誰かといて、それが心地いいって思えたら、それでいいよ」


 天野は、その時何と答えたかを覚えていない。承認が下りないとか、監視をどうするんだとか、そういう話をした気がする。紬はそれに一つずつ相槌を打ちながら、最後まで作業台の方を見ていた。


 あの言葉を、天野は何度も思い出してきた。


 紬は、それを見ていない。


⸻


 その日も、決まった時刻にアリアは散歩に出た。


 天野は自室で、資料に目を通していた。文字は追えているはずなのに、内容が頭に入ってこなかった。同じ行を、何度も読み返した。


 時計を見る回数が増えていることに、途中で気づいた。


 しばらくして、玄関で靴を脱いでいる音がする。天野は自室を出て、廊下に立った。


 アリアがこちらを見た。


「おかえり」


 それだけ言った。


「はい」


 アリアはリビングへ入り、窓辺の前を通り過ぎた。今日は立ち止まらなかった。


 天野はその背中を見送った。


 記録は取っている。経路も、所要時間も、全部残っている。


 それでも、今日この子がどこで足を止めて、何を見ていたのかは、そこには書かれていなかった。


⸻


 夕食を終えても、天野は自室に戻らなかった。


 アリアはテーブルの向かいに座っている。特に何をするでもなく、ただそこにいた。


「今日は、どこを歩いた」


 アリアが顔を上げた。


「いつもの道です」


「花壇のところは」


「通りました」


「花は、まだ咲いてたか」


 アリアは少し考えるような間を置いた。


「数は減っていました。枯れた茎が、刈り取られていました」


「そうか」


 それきり、会話は途切れた。


 時計の音がして、外を車が通り過ぎる音がした。


 天野は、立ち上がらなかった。


 それから、口を開いた。


「伝えてないことがある」


 アリアが顔を上げた。


「二つある。どっちも、先に言っておくべきだった」


 天野は自分の手元を見ていた。


「四年前、この施設に別の機体がいた。感情を実装された、最初の一体だ」


「聞いたことがありません」


「技術的な不具合で計画中止になった、ということになってる。何があったのかは、俺も先週まで知らなかった」


 少し間があった。


「事件を起こして、消された。人格データを消して、それで終わりだ。そう記録されてる」


 天野は顔を上げなかった。


「その子の監視役が、黒瀬さんだった」


 アリアの視線が、少し動いた。


「筐体は残った。状態が良かったから、部材として次のプロジェクトに回された」


 言葉が、そこで一度止まった。


「次のプロジェクトが、お前だ」


 部屋が静かになった。


 アリアは、自分の手を見た。手袋はしていない。この家の中では、必要がない。


 それから、もう一方の手で、右の肩に触れた。


 窪みがあることは、前から知っていた。いつできたものかは、知らない。


 自分の体について、確かめる必要が生じたことがなかった。


「それは、いつ知りましたか」


 アリアの声は、変わらなかった。


「……最初からだ」


「最初」


「着任した週に、記録を読んだ。前の機体の筐体を使うと、説明も受けた」


 天野は、そこで一度息を吸った。


「ずっと、言わなかった」


 アリアは、まだ肩に手を当てていた。


 手を下ろすまでに、少しかかった。


「私が、その機体だということですか」


「違う」


 天野は、そこだけは即答した。


「体だ。中身は別だ。お前は、お前でしかない」


 言ってから、天野は口を閉じた。


「その方は、どんな声でしたか」


 天野の動きが止まった。


「……知らない」


「歌いましたか」


「歌う機体じゃなかった」


 アリアは、それを何度か照合した。


 この喉も、この共鳴部も、後から付けられたものだった。歌うために作られた部分と、そうでない部分が、同じ体の中にある。どこまでが元からあって、どこからが足されたのか。仕様書を開けば分かる。


 開こうとして、やめた。


 分かったところで、何かが変わるようには思えなかった。


「もう一つは」


「ああ」


 天野は息を吸った。


「コアには、限りがある」


「感じるたびに、コアが変わっていく。変わった分だけ、空きが減る」


 アリアは、天野の手元を見ていた。


「なくなったら、どうなりますか」


 天野はすぐには答えなかった。


「……変わった分が、崩れる」


 少し間があった。


「そうなった機体を、誰も見たことがない」


「今どのあたりか、教えてください」


 天野は端末に手を伸ばしかけて、やめた。


「規定値までは、まだ距離がある。ただ、遠くはない」


 天野は、そこで言葉を切った。どれだけの速さで近づいているかは、言わなかった。


「歌わなくていい」


 アリアが顔を上げた。


「歌えと言ったのは俺だ。それが役割だと言ったのも、俺だ」


 天野は、初めてアリアの方を見た。


「取り消す。歌わないと決めていい。ここにいていい。何もしなくていい」


 アリアは、しばらく何も言わなかった。


「私は、歌うために作られました」


「そうだ」


「作られた目的を果たさない場合、何が残りますか」


 天野は答えられなかった。


 アリアは、それ以上待たなかった。


「一つ、伺ってもいいですか」


「……ああ」


「あなたは、なぜ今それを話したんですか」


 天野が顔を上げた。


「先週まで知らなかったのは、事件のことだけです。体のことは、最初からご存じでした」


 アリアの声は、責める調子ではなかった。ただ、順序を確かめているだけだった。


「四年、言わずにいられたのなら、今も言わずにいられたはずです」


 天野は答えなかった。


 言えることが、なかった。黒瀬に問われたからだと言えば、彼女ではなく黒瀬に向けた行為になる。今しかないと思ったからだと言えば、残りの時間の話をすることになる。


 どちらも、この子に渡すものではなかった。


「……分からない」


 それが、出てきた答えだった。


 アリアは、その顔をしばらく見ていた。


「分かりました」


 立ち上がり、テーブルの脇まで歩いて、そこで止まる。


「もう一つだけ、伺ってもいいですか」


「ああ」


「その機体の名前を、教えてください」


 天野は、答えなかった。


「……イリス」


 アリアは、それ以上何も聞かなかった。


⸻


 二階へ上がる音が、途中で止まった。


 三段目か、四段目のあたりだった。それきり、しばらく動かなかった。


 天野はテーブルの前に座ったまま、その音を待っていた。


 やがて、また上がっていく音がした。


 扉が閉まる。


 天野は、食器を片付けなかった。


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