第11章「来年も咲くから」
散歩の時刻を知らせる記録は、まだ働いていた。
止める方法は、いつの間にか分からなくなっていた。正確には、探すのをやめていた。
しばらくは、時刻が来ても動かずにいた。いつからか、玄関で靴を履き、リードのない手で外へ出るようになった。
天野は何も言わなかった。
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道は、何も変わっていない。
朝の空気が、息を吸うたびに冷たくなっていた。塀の角も、電柱の位置も、側溝の格子も同じだった。違うのは、隣に誰もいないことだけだった。
以前は、ここで足を止めることが多かった。匂いを確かめる時間を待って、また歩き出す。今は止まる理由がないので、そのまま進んでしまう。
歩道の端に、低い段差があった。
アリアは、足を止めた。
二秒ほど、そこに立っていた。
それから、越えた。
何の問題もなかった。以前も、なかった。
家までの距離が、以前より短くなった気がした。実際には同じ距離だった。所要時間だけが、十分ほど縮んでいた。
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花壇の前を通りかかった時、声をかけられた。
「あら」
女性が庭先に立っていた。軍手をはめた手に、剪定ばさみを持っている。
アリアは足を止めた。
女性は、アリアの足元を見た。それから、少し離れたところに視線を移した。誰もいない場所を、しばらく見ていた。
「そう」
それだけ言って、女性はまた花壇の方へ向き直った。
何も聞かれなかった。
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コスモスは、まだ咲いていた。
あれほど密になっていた花壇に、隙間ができている。枯れた茎が刈り取られ、残った株だけが、以前より間隔を空けて立っていた。
女性は、しゃがみ込んで根元の枯葉を取り除いている。その手つきは、いつもと変わらなかった。
「この花はね」
女性が、こちらを見ずに言った。
「主人が好きだったのよ」
アリアは、女性の背中を見ていた。
「病院にいた頃、窓から見えるところにこれが咲いてて。花になんて、それまで関心もなかった人だったのに、毎日見てたわ」
剪定ばさみが、枯れた茎を切った。
「季節が終わって、全部枯れちゃった時にね。来年も咲くから、って言ったの」
女性の手が、一度止まった。
「そしたら、そうか、って。それだけ」
また、はさみが動き始めた。切った茎を、女性は脇に置いた。
「亡くなってから、種を買ってきたの。庭に植えれば、いつでも見られるでしょう」
女性は立ち上がり、腰を伸ばした。
「もう、あの人は見られないけどね」
それから、少し笑った。
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アリアは、その言葉を処理しようとした。
見られない相手のために、花を植える。育て、水をやり、枯葉を取り除く。それを何年も続ける。
意味は、ない。
女性もそれを知っている。知った上で、続けている。
かつて、この人はここで言った。役に立つから、じゃないのよ、と。
あの時、花壇には何も咲いていなかった。緑の茎が並んでいるだけだった。それでも綺麗だと、この人は言った。
今も、分かったとは言えなかった。ただ、その言葉が指していたものが、以前より近くにある気がした。
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「持って行く?」
女性が、こちらを向いていた。
手には、切り取ったばかりのコスモスが数本あった。薄い桃色と、白。茎の切り口から、まだ水が滲んでいる。
「これは」
「余ってるのよ。切っちゃったから、置いといても仕方ないし」
差し出された花を、アリアは受け取った。
軽かった。茎は細く、少し力を入れれば折れそうだった。
この手が、最初にこの庭でしたことを、アリアは覚えている。抵抗は、ほとんどなかった。折れる場所も、力の加減も、記録に残っている。
同じ手で、今は受け取っていた。
「ありがとうございます」
「いいのよ」
女性は、また花壇の方へ向き直った。それ以上、何も言わなかった。
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帰り道、アリアは花を持って歩いた。
手の中で、花びらが揺れている。落とさないように、少しだけ力を緩めて握った。
なぜ渡されたのか、分からなかった。
女性は理由を言わなかったし、こちらも聞かなかった。何かを察していたのかもしれない。ただ余っただけかもしれない。どちらとも判断がつかなかった。
それでも、手の中には花があった。
もらう、という経験を、アリアは自分の記録から探した。
リードを渡された。紙幣を渡された。ブラシを差し出された。どれも、目的があって手渡されたものだった。使うために受け取り、使い終われば元の場所へ戻した。
この花には、使い道がない。
置いておけば枯れる。それだけのものを、理由も言われずに持たされている。
断ることもできた。断らなかった。
なぜ断らなかったのかも、分からなかった。
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家に着くと、天野が玄関にいた。
アリアの手元を見て、少し目を見開く。
「もらったのか」
「はい」
天野は花を見ていた。それから、台所へ行き、何かを探し始めた。
戻ってきた時、手にはガラスのコップがあった。水が半分ほど入っている。
「花瓶がないんだ」
天野はそう言って、テーブルの上にコップを置いた。
アリアは花をその中に挿した。長さが合わず、何本かは頭が垂れてしまった。それでも、水に浸かった茎が、コップの底で少しだけ揺れた。
天野は、それをしばらく見ていた。
「誰に」
「花壇の方です」
「……そうか」
それだけ言って、天野は台所へ戻った。水を出す音がして、すぐに止まった。
何か言おうとして、やめたのが分かった。あの夜からずっと、この人はそうしている。
アリアは尋ねなかった。
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明かりが落ちてからも、アリアはテーブルの前から動かなかった。
コップの中の花は、何も変わらない。ただそこにあるだけだった。明日には少し萎れて、数日後には枯れる。
それが分かっていた。
切られた時点で、この花はもう終わっている。水に挿しても、根はない。それでも女性は水の滲む切り口のまま渡したし、天野はコップに水を入れた。
どちらも、意味がないことを知っていた。
あの夜、天野は言った。歌わないと決めていい、と。ここにいていい、何もしなくていい、と。
アリアは尋ねた。作られた目的を果たさない場合、何が残るのか。
天野は答えなかった。
今も、分からない。
アリアは、右の肩に手を当てた。
これも、渡されたものだった。
誰かが使っていたものが、状態が良かったという理由で回ってきた。渡した側は、渡すかどうかを選べなかった。受け取った側も、断ることができなかった。
アリアは手を下ろした。
それから立ち上がり、台所で水を汲んで、コップに足した。
減っていたのは、わずかだった。




