第12章「へんなうた」
いつもの道の途中に、小さな公園がある。
遊具は二つだけで、あとはベンチと砂場しかない。通り過ぎるだけの場所だった。以前は、リードの先がいつも前へ進んでいたので、立ち止まる理由もなかった。
その日、アリアは足を止めた。
理由はなかった。
急ぐ必要は、もうどこにもない。歌わなくていいと言われてから、時刻を守るべき予定が一つもない。
誰もいない、と思った。
いや、一人いた。
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ベンチの端に、子どもが座っていた。
五歳か六歳くらいの女の子だった。膝を抱えて、顔を伏せている。時々、肩が小さく震えた。
アリアは立ち止まった。
泣いている。それは判別できた。呼吸のリズム、肩の動き、時折漏れる音。どれも記録上の特徴と一致していた。
通り過ぎるべきなのか、判断がつかなかった。
何をすればいいのかも分からない。慰めるという行為の手順を、アリアは持っていなかった。
それでも、足はベンチの方へ向いていた。
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少し離れた場所に立つと、女の子が顔を上げた。
目が赤い。鼻の頭も赤くなっている。アリアを見て、少し警戒するように身を引いた。
マスクをした知らない人間が近くに立っている。当然の反応だと、アリアは思った。
何か言うべきだったが、言葉が出なかった。
沈黙が続いた。
やがて、女の子の方が先に口を開いた。
「……おねえさん、だれ」
「アリアといいます」
女の子は、しばらくこちらを見ていた。それから、また膝に顔を埋めた。
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アリアはベンチの反対側の端に座った。
隣ではなく、離れた場所。かつて、ソラの隣に座った時と同じ距離だった。
何も話さなかった。
女の子も何も言わなかった。時々、鼻をすする音がする。
どれくらいそうしていたか、記録では四分だった。
女の子が、また顔を上げた。
「おかあさんに、おこられた」
「そうですか」
「わたし、わるくないのに」
アリアは何も答えなかった。答えるべき言葉を持っていなかった。
女の子は、それきりまた黙った。
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しばらくして、女の子が尋ねた。
「おねえさん、なにしてるひと?」
その問いに、アリアは詰まった。
歌い手です、と答えるべきだった。それが与えられた役割だった。
その役割は、取り消された。
「……歌を、歌っていました」
「うたうひとなの?」
「以前は」
女の子は身を乗り出した。
「うたって」
アリアは女の子を見た。
「歌えません」
「なんで?」
「歌う理由が、ありません」
「りゆう?」
「はい」
女の子は不思議そうな顔をした。それから、また膝を抱えた。
「……そっか」
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目の前の子どもは、期待して、それが叶わなかった。ごく小さな出来事だった。誰も困らない。何も損なわれない。
アリアは、女の子を見た。
なぜこの子が、歌ってほしいと思ったのか。
分からなかった。
分からないまま、しばらく見ていた。
それから、息を吸っていた。
なぜそうしたのか、判断の過程を追えなかった。口が、開いていた。
最初の音は、掠れていた。
音程は狂っていた。リズムも乱れていた。設計値のどれとも一致しない、不安定な音だった。
それでも、歌っていた。
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アリアは歌い続けた。
曲名は分からなかった。配信で歌ったものではない。どこかで聞いた旋律の断片が、勝手に繋がっていくような歌だった。
歌っている間、窓辺の温かさが指先に戻ってきた。
途中で息が続かなくなり、一度止まった。
女の子は、じっとこちらを見ていた。
アリアはもう一度息を吸い、続きを歌った。
掠れたまま、揺れたまま、最後まで歌った。
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歌い終わった後、公園は静かだった。
風の音と、遠くの車の音がした。
女の子は、しばらく黙っていた。それから、小さく言った。
「へんなうた」
アリアは女の子を見た。
「でも、すき」
女の子は笑っていた。
目はまだ赤かったし、頬にも涙の跡が残っていた。それでも、笑っていた。
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母親らしい人が公園の入口に現れたのは、その少し後だった。
名前を呼ばれ、女の子は立ち上がった。走り出す前に、一度だけ振り返る。
「またうたって」
それだけ言って、走っていった。
アリアはベンチに座ったまま、その姿が見えなくなるまで見ていた。
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帰り道、アリアは何度か、あの子の言葉を再生した。
歌えと言われたことなら、何度もある。天野に言われ、機構に決められ、予定表に書かれていた。日時も曲順も、いつも先に決まっていた。
頼まれたのは、初めてだった。
アリアは足を止めた。
もう一度、息を吸ってみる。
口が、開いた。
さっきの旋律だった。掠れていたし、震えていた。それでも、音になった。
途中で止めて、また最初から出してみる。
音は、さっきより安定していた。
それでも、同じものにはならなかった。
どこが違うのかは、分からなかった。
それでも、アリアはしばらく、その音を出し続けていた。
誰も通らなかった。
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黒瀬が定期の訪問に来たのは、その数日後だった。
リビングに通され、いつも通り事務的な質問をいくつか重ねる。散歩の頻度、外出の様子、体調に変わりはないか。アリアはいつも通り答えた。
帰り際、玄関で靴を履きながら、黒瀬がふと足を止めた。
「……何か、変わりましたか」
アリアは黒瀬を見た。
「特には」
黒瀬はしばらく、アリアの顔を見ていた。それから、小さく首を振った。
「気のせいかもしれません」
それだけ言って、いつも通り会釈をし、去っていった。
アリアは、閉まったドアをしばらく見ていた。
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夜、アリアは部屋で一曲を通した。
途中で二度、音が続かなくなった。それでも最後まで歌った。
歌い終えた後、しばらく座っていた。
誰も聞いていない。それは分かっていた。かつて、同じ状況で歌ったことがある。
あの時とは、何かが違っていた。何が違うのかは、分からなかった。
公園とも、違っていた。
あの時、目の前に一人いた。
アリアは部屋を見回した。
机と、椅子と、使われていない棚。窓の外は暗い。
この部屋には、誰も入ってこない。
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翌朝、アリアは天野の部屋へ行った。
「配信の予定を、確認したいのですが」
天野が顔を上げた。
しばらく、何も言わなかった。
「……歌わなくていいと、言ったはずだ」
「はい」
アリアは、それだけ答えた。
理由を説明する言葉を、まだ持っていなかった。
天野はしばらくこちらを見ていた。それから、端末に手を伸ばした。




