第13章「息を継ぐ」
配信が再開されたのは、その週の終わりだった。
配信ページには、この数週間、コメントだけが増え続けていた。大丈夫ですか。早く元気になってください。待ってます。天野はそれを開くたび、既読のマークだけを付けて、閉じてきた。
復帰の告知は、短い文章を一つ出した。日時だけを添えて公開した。反応は、すぐに返ってきた。
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スタジオに入り、マイクの位置を確認する。手順は、体が覚えていた。
高さは以前のままだった。動かす必要はない。それでも、一度だけ手をかけた。
「準備はいいか」
「はい」
ガラスの向こうで、天野が機材に明かりを入れた。
息を吸う。
数週間ぶりに、そこから先に進んだ。
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最初の音を出した時、公園のベンチが戻ってきた。
掠れた声。狂った音程。それでも笑った、あの子の顔。
音を正しく並べることには、意味がなかった。あの時、そう分かった。
だから今は、正しさを追わなかった。
ソラの背中の温かさ。庭の隅の、掘り返された土。コップの中で萎れていく花。
思い出すのではなかった。
歌うたびに、それらがもう一度、自分の中に戻ってくる。
温度も、匂いも、触れた感触も、その時に感じたものまで。
音程が下がる。伸ばそうとした音が細くなる。設計値からの逸脱を示す表示が、視界の端で点滅を続けていた。
構わなかった。
サビで、息が足りなくなった。
かつては必要のない工程だった。ここで息を継げば、旋律が途切れる。設計上、あってはならない中断だった。
アリアは息を継いだ。
途切れた分だけ、次の音の入りが遅れた。それでも、続けた。
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コントロールルームで、天野は立ち上がっていた。
いつ椅子から離れたのか、自分でも分からなかった。ガラスに手をついたまま、スタジオの中を見ている。
解析画面には、赤い表示が並んでいた。音程誤差、リズム逸脱、出力不安定。報告書に書けば、問題として扱われる項目だった。
手は、動かなかった。
この子の歌を、ずっと聴いてきた。数値を追い、記録を取り、報告書に書き込んできた。
その全部が、今聞こえているものを説明できなかった。
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曲が終わり、残響が消えた。
スタジオは静かだった。
それから、コメント欄が動いた。
止まっていた文字が、一斉に流れ始める。速度が速すぎて、読み取れない。同時接続数の桁が変わった。数字が更新されるたびに、また変わる。
「おかえり」
「声、変わった?」
「なんで泣いてるのか分からないけど泣いた」
誰かが切り抜き、誰かが貼り付け、それがまた別の場所で再生されていく。数字の増え方が、次第に速くなった。
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黒瀬は、その配信を自室のモニターで見ていた。
監視業務の一環として、視聴自体は珍しくなかった。いつも通り、開始と同時に画面を開き、必要な項目だけを記録していくつもりだった。
歌い始めて、数秒で、記録の手が止まった。
音程のずれも、声の掠れも、いつもなら真っ先に書き留める項目だった。今日は、その数字が頭に入ってこなかった。
四年前、記録用紙に何も書かなかった時間があった。
黒瀬は端末を伏せた。
曲が終わっても、しばらく画面を見ていた。
その日の報告書は、提出期限を過ぎてから送られた。
理由の欄には、何も書かなかった。
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測定は、その週の終わりだった。
黒瀬は立ち会いの席から、装置の出力を見ていた。同じ数字が、天野の手元にも出ている。立ち会いを始めてから、間に人の手が入ることはなくなった。
規定値を、超えていた。
これまでの測定で、最も高い値だった。
黒瀬は、その行を何度か確認した。
天野は、画面から目を離さなかった。
黒瀬はその値を、そのまま報告に上げた。
条項は自動ではない。規定値を超えたという事実が、中断の理由になるというだけだった。
書式は、翌日には部内を回り始めていた。回り終えれば、常盤の決裁欄が空くだけになる。
押すか、押さないか。それだけが残る。
止まる。それが正しい手続きだった。
黒瀬は端末を閉じ、席を立った。
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常盤は執務室にいた。書類から目を上げずに、入ってきた相手を確認した。
「中断の件です」
「聞いている」
「出さないでいただきたい」
常盤の手が止まった。
老眼鏡を外し、初めて黒瀬の方を見る。
「君の立場で言うことか」
「私は今も反対しています」
黒瀬は、机の前に立ったままだった。
「感情を実装すべきではなかったと思っています。それは変わりません」
「では、なぜ」
少し間があった。
「あの子は今、外にいます」
常盤は何も言わなかった。
「イリスは、一度も出られませんでした」
部屋が静かになった。
「規定値は、安全のために引かれた線です。実際の耐用値ではありません」
「知っている」
「それを理由に止めれば、あの子は施設に戻ります。戻れば、二度と出られません」
黒瀬は、そこで一度言葉を切った。
「四年前と、同じことになります」
常盤は老眼鏡を机に置いた。指で目頭を押さえる。
「止めなかった場合、どうなるかは分かっているのか」
「分かりません」
黒瀬は、そう答えた。
「四年前も、分かりませんでした」
どちらも、何も言わなかった。
「……下がっていい」
黒瀬は一礼して、部屋を出た。
中断の決裁は、その週も、次の週も、出なかった。
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それから数週間、アリアは毎週歌った。
息を継ぐ場所が、少しずつ決まっていった。楽譜に書かれていない場所で、アリアは息を継ぐようになった。そこで途切れることを、もう気にしなくなっていた。
最初は、継いだ後の入りが遅れた。何度か歌ううちに、遅れが小さくなった。それでも、完全には揃わなかった。
揃わないまま、そこで歌うことに慣れていった。
数値は戻らなかった。音程の誤差も、リズムの揺らぎも、許容範囲の外にあり続けた。
それでも、視聴数は伸び続けた。
歌っている姿を知らないまま、旋律だけを聞いた人がいた。誰が歌っているのかを調べて、AIだと知って驚く人がいた。知った上で、それでも聞き続ける人がいた。
別人みたいだ、と書き込んだ人がいた。
アリアはその一行を、何度か読み返した。
記録を照合すれば、同一の機体である。稼働記録も、識別番号も、途切れていない。
識別番号のことを、アリアは少し考えた。
この体には、それより前の番号があったはずだった。台帳のどこかに、まだ残っているのかもしれない。
調べなかった。
それでも、その指摘は間違っていない気がした。
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ある日の帰り道、車の中で天野が言った。
「今日、どうだった」
数字のことではないと、アリアには分かった。
少し考えてから、答えた。
「息が、足りなくなりました」
「ああ」
「以前は、足りなくなることがありませんでした」
天野は前を見たまま、少し笑った。
「そうだな」
「不具合でしょうか」
「違うよ」
それだけ言って、天野は黙った。
信号で止まる。前の車のランプが赤く光っている。
「前は」
天野が口を開いた。
「お前が歌ってる間、俺はずっと画面を見てた」
アリアは天野を見た。
天野は、それ以上何も言わなかった。
信号が変わり、車はまた走り出した。
アリアは窓の外を見ていた。流れていく街の明かりを、順番に目で追った。
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家に着いてから、アリアは部屋で五線譜を開いた。
施設から持ち込んだ資材の中に、使われないまま残っていたものだった。表紙も何もない、線だけが引かれた紙の束だった。
何を書くつもりがあったわけではない。ただ、線の引かれた紙が目の前にあった。
五線譜には、何もない。
何もないことが、以前ほど気にならなかった。
アリアは鉛筆を持った。
一つだけ、音符を書いた。
その音が、頭の中で鳴った。
もう一つ、書こうとした。
手が止まった。
なぜ書こうとしたのか、自分でも分からなかった。
音符を消した。跡が残った。
それでも、紙を閉じることはしなかった。
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その週の配信でも、アリアは歌った。
視聴数は前回を超えた。
歌い終えた後、アリアは一度だけ、目の前が暗くなった。
コンマ数秒だった。すぐに視界は戻り、何事もなく配信を終えた。
暗くなる直前、何を歌っていたか。
思い出そうとした。
出てこなかった。
数値のログには、異常は出ていなかった。それでも、そのコンマ数秒だけが、アリアの中から抜け落ちていた。
記録には残った。エラーコードが一つ、ログの末尾に追加されている。
アリアはそれを確認し、しばらく見ていた。
それから、ログを閉じた。
天野には、伝えなかった。




