第14章「そのままにしてある」
配信を終えて施設に残った夜、天野は執務室の引き出しの前に立っていた。
一番下の段。四年前から、ほとんど開けていない。前に手をかけた時は、開けられなかった。
あの時と、状況は変わっていない。中身も変わっていない。
変わったのは、今日この子が歌ったということだけだった。
誰にも言われずに歌った。役割ではないと知った上で、歌った。
その理由が、自分には分からない。
天野は取っ手を握った。
今度は、開いた。
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奥に、古いノートが入っていた。表紙は色褪せ、角が擦り切れている。妻が使っていたものだった。
二年間、開かなかった。
天野はそれを机の上に置き、しばらく見ていた。それから、ページをめくった。
Ariaプロジェクトの初期設計案が並んでいた。技術仕様、構造図、実装スケジュール。妻の字で、細かく書き込みがされている。
几帳面な字ではなかった。走り書きの上から線を引いて消し、余白に書き直し、また消している。数字の並んだ頁ほど、修正が多い。
日付が入っている頁もあった。連続していない。書いた日と書かなかった日が、そのまま残っている。
筐体に関する記述は、受け入れた部材の一覧から始まっていた。どこから来たものかは、書かれていない。
その頁の余白に、書きかけて消した跡があった。
鉛筆で書かれ、消しゴムで消されている。紙が薄くなった部分に、線の凹みだけが残っていた。角度を変えると、二文字だけ読めた。
ごめ、と読めた。
その先は、消え方が強くて分からなかった。
天野はその余白を見ていた。
宛先は書かれていない。
自分ではない。謝られる覚えがなかった。この子でもない気がした。この頁を書いていた頃、まだ組み上がってもいなかった。
残っているのは、一人だけだった。
名前を、紬は知らないはずだった。事件のことも、何があったのかも、聞かされていない。
知らないまま、消していた。
天野は頁を先へ送った。手が、少し遅くなっていた。
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感覚系の仕様書が挟まっていた。
視覚と聴覚の項目は、歌唱に必要な水準として数値が並んでいる。ここまでは、天野も覚えている。二人で決めた。
その下に、追加された項目があった。
嗅覚。触覚。いずれも人間と同等。
当時、天野は反対した。感情モデルの検証に要らない機能だと言った。素子の数も、調整の手間も、桁が変わる。
理由の欄に、紬が書いていた。
「触って分かることは、見て分かることより多いから」
それだけだった。仕様書に書く文章ではない。
結局、実装した。工期は延びた。
天野はその行を読み返した。
あの子は、犬の毛の硬さが場所によって違うことに気づいた。コートの裏地が肌を滑る感触を、初めてだと言った。花を受け取って、軽い、と言った。
天野は頁を先へ送った。
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その中に、一ページだけ、仕様とは無関係な記述があった。
「歌が上手いだけの機械なら、作る必要がない」
天野はその行を読んだ。
「心を持つなら、好きになれるものが要る。この子には、それを歌にする」
その下に、さらに続きがあった。
「心を持たせるということは、苦しみも与えるということ。喜ぶことも、失うことも、全部背負わせることになる。それでも作るなら、私たちは責任を持たなければならない」
最後の行に、こう書かれていた。
「この子が歌わないと決めたなら、その選択も認めること」
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天野はノートを閉じた。
息が浅くなっているのが、自分でも分かった。
妻が死んだ後、機構はこのノートを見ていない。設計思想は仕様書に変換され、残ったのは歌唱スペックの数値だけだった。心を持たせるという記述は、技術的な実装項目として処理された。
誰も、続きを読まなかった。
読まなくても分かっていると思っていた。
天野はノートを鞄に入れた。引き出しは、空のままにした。
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アリアは、リビングでコップの中の花を見ていた。
もらった花は、とうに枯れていた。捨てるべきだと分かっていたが、そのままにしてある。茶色くなった花びらが、テーブルの上に落ちていた。
水は、まだ入っている。減った分だけ、時々足していた。
枯れたものに水をやる意味はない。それでも、続けていた。
あの人が、何年も続けていることと、同じ形をしている気がした。
天野が帰ってきた気配がした。
リビングに入ってきた天野は、いつもと様子が違った。何かを言おうとして、立ち止まる。
「アリア」
「はい」
「……また歌うようになったのは、いつからだ」
アリアは少し考えた。
「公園で、子どもに会った日です」
「その時、何があった」
「歌ってほしいと言われました。歌えないと答えましたが、その子が残念そうな声を出したので」
アリアは言葉を探した。
「気づいたら、息を吸っていました」
天野は何も言わなかった。
「音程は狂っていました。記録上、あれは歌として成立していません。それでも、その子は笑いました」
アリアは天野を見た。
「なぜ笑ったのか、まだ分かりません」
天野は、しばらく黙っていた。
「歌わなくていいって言ったのに、なんで歌った」
アリアは、すぐには答えなかった。
「役割ではなくなったからです」
天野が顔を上げた。
「役割であるうちは、歌うかどうかを考える必要がありませんでした」
アリアは、コップの方を見ていた。
「なくなってから、初めて考えました」
少し間があった。
「考えて、歌いました」
「……それは」
天野は言葉を探した。
「それは、歌いたかったってことか」
「分かりません」
アリアは、すぐにそう答えた。
「そう呼べるものなのかどうかを、判断できません。ただ、歌わないという選択肢もありました」
枯れた花びらが、テーブルの上に一枚落ちている。アリアはそれを指で寄せた。
「選ばなかった、というだけです」
天野は、その言葉を受け取るのに時間がかかったようだった。
それから、椅子に座り込んだ。片手で顔を覆う。
アリアは、その姿を見ていた。
声はかけなかった。何を言えばいいのかが、分からなかった。
しばらくして、天野が顔を上げずに言った。
「悪かった」
何に対してなのかは、言わなかった。
「今日の配信は、どうでしたか」
アリアが尋ねた。
天野は顔を上げた。
「……よかった」
それだけだった。数値の話ではないことは、アリアにも分かった。
天野はもう一度、顔を覆った。
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自室に戻ってから、天野はノートをもう一度開いた。
最後の一行を、また読んだ。
この子が歌わないと決めたなら、その選択も認めること。
紬は、その先を書いていない。
歌うと決めた場合にどうするかは、どこにも書かれていなかった。
書く必要がなかったのだと、天野は思った。
役割を果たす限り、誰も何も言わない。手放す時にだけ、認める者が要る。
選んで歌うところまでは、想定していなかった。
天野はノートを閉じた。
引き出しにはしまわなかった。机の上に置いたまま、部屋を出た。




