第15章「歩く速さで」
規定値を超えてから、ひと月以上が経っていた。
中断の決裁は、まだ来ていない。理由は書かれていない。止めないという通知も来ていない。
天野は直近の値を呼び出した。線は、上がり続けている。
止まるはずのものが、止まらないまま続いていた。
天野はファイルを閉じた。
しばらく、暗くなった画面を見ていた。
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その日の配信は、いつも通り始まった。
一曲目は問題なく終わった。コメント欄はいつもの速度で流れ、同時接続数は前回を上回っている。
二曲目に入って、最初の違和感は、伸ばした音の終わり際に来た。
切ろうとした場所より、わずかに手前で音が消えた。誰も気づかない程度の差だった。
次の一節で、同じことが起きた。今度は、少し早かった。
サビに入る。息を吸い、最初の音を出した。
その音が、途中で潰れた。
出力が止まったのではない。声を作る過程のどこかが繋がらず、そこだけが空白になった。空白の縁に、細かいノイズが残った。
アリアは息を継ぎ直した。
二音は出た。三音目で、また潰れた。今度は、戻らなかった。
音を出そうとするたび、喉のあたりで何かが引っかかる。声にならないまま、息だけが抜けていく音が、マイクに拾われていた。
コントロールルームで、天野が立ち上がった。
解析画面には、赤い表示が並んでいる。前の週にも同じ色が出ていた。その時は止めなかった。
手が、停止ボタンの上で止まった。
視界に、白い線が走った。
モニターの光が、いくつにも分裂して見える。足元の感覚が遠のいた。手を伸ばして支えを探したが、何もなかった。
マイクスタンドが倒れる音がした。
そこから先の記録は、途切れている。
配信は、映像が乱れた状態で二十秒ほど続いた。崩れ落ちるアリアの姿が、視聴者に見えた。その後、画面が暗転した。
コメント欄には、大量の文字が流れ続けていた。
演出だと書いた人がいた。誰かが違うと返した。それから、同じ言葉が繰り返し流れ始めた。
大丈夫ですか。
画面は暗いままだった。
⸻
スタジオの床に、アリアは倒れていた。
天野が駆けつけた時、目は開いていた。天井の照明を見ている。呼びかけると、視線がゆっくりと動いた。
「聞こえるか」
「はい」
声は出た。手も動いた。起き上がろうとして、一度失敗した。膝に力が入らないようだった。
天野が肩を支えた。
右の肩だった。手のひらに、わずかな窪みが当たった。
天野は、そこから手を離さなかった。
座り直したアリアは、自分の手のひらを見ていた。指を一本ずつ動かしている。すべて動いた。
「途中から、記録がありません」
手のひらを見たまま、そう言った。
「何曲目でしたか」
「二曲目だ」
「曲名を、教えてください」
天野が答えた。
アリアは、その曲名を照合した。歌った回数、初出の日付、過去の解析値。すべて残っている。
今日歌ったという記録だけが、ない。
「歌っていた記憶がありません」
アリアは顔を上げなかった。
「歌い始めたところまでは、あります。その先が、切れています」
倒れたマイクスタンドが、床に転がったままになっていた。天野はそれを起こさなかった。
「以前にも、一度ありました」
天野の動きが止まった。
「コンマ数秒でした。記録には残りましたが、伝えませんでした」
「……いつだ」
「先週の配信です」
天野は何も言わなかった。
「なぜ言わなかった」
「配信が、中止になると思いました」
アリアは、そこで初めて天野を見た。
「今も、そう思っています」
⸻
検査は、翌日まで続いた。
発声機構、共鳴部、出力系統。いずれも異常なし。以前、歌わなくなった時と同じ結果が、同じ形式で並んでいた。
違ったのは、コアの項目だけだった。
天野は結果の出た画面を、長い間見ていた。
コアの累積負荷が、設計上の耐用値を超えている。
天野はその値を、何度か見直した。
測定に誤りはなかった。入力値をたどっても、どこにも間違いはなかった。
グラフの傾きは、一定ではなかった。急に立ち上がっている箇所が、いくつもある。そこに並ぶ日付は、配信の日だった。
配信のない日にも、小さな段があった。
交換はできない。体を替えても、今のコアに刻まれた人格は移せない。施設を出る前に取った複製が残っている。感情を経験する前の、何も入っていない状態のものだった。花を折ったことも、コートを選んだことも、ソラを撫でたことも、何一つない。
別人だった。
申請の様式に、注記があった。四年前から変わっていない、小さな活字だった。
人格の同一性は保証されない。
去年の冬に、一度読んだ二行だった。読んで、頁番号を書き写して、申請を出した。
前に、同じことをこの子に説明した。感じるたびにコアが変わっていく、と。変わった分は、崩れる、と。
説明できるということは、理解しているということだった。
その時、この線がいつ来るかを計算していなかった。
計算する必要がないと思っていた。規定値までは距離があり、規定値の先にはさらに距離がある。二段構えになっている。そう読める書き方だった。
実際、そう書いてあった。
誰も嘘は書いていない。
⸻
検査台のアリアは、天野の顔を見ていた。
「あとどれくらいですか」
天野は答えなかった。
「以前、限界があるとだけ聞きました。どれくらいかは、聞いていません」
静かな声だった。
「今は、聞いてもいいですか」
天野は画面を見た。それから、閉じた。
「配信は中止だ」
それだけ言って、部屋を出た。
廊下で、一度立ち止まった。
言うべきことは、まだあった。この先どうするのか。
戻らなかった。
⸻
機構からの通知は、その二日後に届いた。
配信中の異常挙動について、技術ログの提出を求める。あわせて、実地検証の一時停止と、機体の回収について協議を行う。
末尾に、一行あった。
——今後の測定について、立ち会い担当を変更する。
理由の記載はなかった。
文面は事務的だった。日付と、担当部署名と、常盤徹の署名。
天野は端末を閉じた。
崩落の映像は、既に拡散していた。切り抜かれた二十秒が、あちこちで再生されている。心があるからだ、という声と、故障だという声が入り混じっていた。
正しく答えられる者は、この部屋にいた。
コメント欄には、心配する言葉が並んでいた。返信欄は開かなかった。
配信ページの更新予定を消す。次回の日付が入っていた欄が、空白になった。
天野は、その空白を見ていた。
⸻
それからの数日は、同じように過ぎた。
配信の予定はない。散歩の記録は、いつからか動かなくなっていた。テーブルの上のコップには、枯れた花がまだ入っている。
天野は、ほとんど口を開かなかった。
端末を開けば、検査結果が残っている。
大きく動くのは、歌う時だった。だから、歌わせなければ遅くなる。
止まりはしない。この子が何かを感じている限り、数字は動く。
それは分かっていた。分かった上で、他の方法を探した。
感情モデルの一部を凍結する。試算の途中で手が止まった。凍結した部分は、二度と戻らない。どこを残すかを、天野が決めることになる。
記録だけを外部へ移す。移せるのは数値と経路だけだった。それに結びついた感情は、移せない。移した先に残るのは、意味を失った日付の羅列だった。
どちらも、途中で行き詰まった。
心を残したまま、負荷だけを減らすことはできない。負荷そのものが、心だった。
⸻
アリアは、一日中リビングにいた。
ほとんど何もしていなかった。本を開くこともなく、音楽を流すこともなく、ただ座っていた。窓辺の方も、テーブルの上の花も見ていない。視線は、どこにも向いていなかった。
一度だけ、ソラと歩いた日を呼び出した。
日付は出てきた。時刻も、歩いた距離も出てきた。
何があった日か、思い出そうとした。
出てこなかった。
別の日を選んだ。
同じだった。
三つ目を選ぶ前に、アリアは手を止めた。
選べば、また出てこないことが分かる。分かった数が増えるだけだった。
アリアは、そこで止めた。
右の肩に、手を当てた。
あの子の中にも、こういうものが並んでいたのだろうか。日付と、時刻と、部屋にいた時間だけが。
この体は、二度目だった。
一度目の中身がどこへ行ったのかを、誰も知らない。消したという書類だけが残っている。
自分の時も、同じ形になるのだろうと思った。
天野が通りかかっても、顔を上げなかった。
声をかけようとして、天野は立ち止まった。何を言えばいいのか分からなかった。歌うなと言った以上、それ以外の言葉に意味があるとは思えなかった。
結局、何も言わずに通り過ぎた。
夜、リビングの明かりを消しに行くと、まだ同じ場所に座っていた。
「部屋に戻れ」
「はい」
返事だけをして、動かなかった。
天野は明かりを点けたまま、自室へ戻った。
⸻
自室で、天野は端末を開いた。
停止申請の書式が開いたままになっている。実地検証の中断を、こちらから申し出る書類だった。これを出せば、アリアは研究施設に戻される。人間社会からは切り離されるが、上がり方は緩やかになる。
消えることはない。
ただし、外へ出ることも、誰かに会うことも、二度とない。
天野はカーソルを送信ボタンの上に置いた。
これを押せば、時間は延びる。
施設の管理下で、何も起きない場所で、必要な検査を受けながら。誰にも会わず、どこへも行かず、何も選ばずに。
そこまで考えて、天野は手を止めた。
イリスは、外を見たことがなかった。ファイルにそう書いてあった。選ぶ機会を一度も与えられないまま、感じることだけを与えられた。
同じ体を、同じ場所に戻すことになる。
四年前、この体を使うことに、自分は反対しなかった。
黒瀬の言葉が戻ってきた。
——あなたは、アリアに何を選ばせましたか。
今度も、自分が選ぼうとしている。
天野は端末を閉じた。
書類は、送信しなかった。
ノックの音がしたのは、その直後だった。
⸻
アリアが立っていた。
手に、数枚の紙を持っている。
「これを、見てもらえますか」
天野は受け取った。
手書きの五線譜だった。音符が並んでいる。線は歪み、書き直した跡がいくつも残っていた。消しゴムで擦れた箇所が、紙を薄くしている。
音符の下に、細かい文字が書き込まれていた。
「これは」
「私が、書きました」
天野は顔を上げた。
アリアは、いつもと変わらない声で続けた。
「既存の楽曲を組み合わせたわけではありません。参照した旋律もありません。頭の中にあったものを、そのまま書き出しました」
天野は楽譜に目を落とした。
構造は単純だった。技巧的な要素もなく、音域も広くない。歌唱用AIが書いたにしては、あまりに素朴な曲だった。
歌詞を、目で追った。
大きな言葉は一つもなかった。愛も、永遠も、別れも書かれていない。書かれているのは、この家にあったものばかりだった。天野が知っているものと、知らないものが混ざっていた。
同じ言葉が、二度出てくる箇所があった。
あとの一つに、線が引かれている。重ねて二度引いた跡だった。
天野はその行を、しばらく見ていた。
テンポの指定欄に、数字ではなく短い書き込みがあった。
——歩く速さで。
「なぜ、これを」
「届けたい歌があります」
アリアは天野を見た。
「歌えば早くなることは、理解しています」
天野の手が、震え始めた。
「それでも、この歌を届けたいんです」
⸻
天野は楽譜を机の上に置いた。
それから、何も言わなかった。
「……駄目だ」
声が掠れていた。
「駄目だ、アリア」
「なぜですか」
「お前が消える」
「はい」
その返事が、あまりに平静だった。
「歌わなくていいと、言ってくださいました」
アリアは続けた。
「あの時、選んでいいと聞こえました」
天野は何も言えなかった。
「選びました」
天野は立ち上がった。椅子が倒れる音がしたが、直さなかった。
「妻の信念を証明したかった」
言葉が、そこで一度止まった。
「歌は人を変えられるって、あいつが言ってたことを、証明したかった」
「それは」
天野は顔を歪めた。
「あいつは、そんなこと言ってない」
自分の口から出た言葉に、天野自身が止まった。
外へ出して、人と関わらせてあげたい。誰かといて、心地いいと思えたら、それでいい。
紬が言ったのは、そこまでだった。
その先を足したのは、自分だった。二年かけて、少しずつ足していった。足したものを、妻の言葉として覚え直していた。
別の筐体を起こしてはどうか、と彼女は言った。理由は言わなかった。
あの時も、自分は自分の言葉で押し切っている。
「証明するものなんて、最初からなかった」
天野はアリアを見た。
「お前が消えてまで証明したかったものなんて、なかった」
アリアは、その顔を見ていた。
天野が泣いているのを見るのは、初めてだった。




