第16章「はじめての歌」
回収の日程が通知されたのは、その翌週だった。
四日後の午前。担当者が二名、機体の搬送車で来る。実地検証の終了と、以後の管理体制の移行について、書面での確認を求める。
天野は文面を最後まで読んだ。それから、端末を閉じた。
その四日間、ほとんど眠らなかった。停止申請の異議、検証継続の再申請、上位機関への照会。書けるものは全て書いた。どれも、時間内に処理される見込みはなかった。
⸻
通知が届いた日の午後、天野は庭に出た。
テーブルの上にあったはずのコップが、いつの間にか空になっていたことに、少し前から気づいていた。
ソラを埋めた場所に、土の色が変わっている一角があった。近づくと、掘り返された跡があり、脇に平たい石が一つ置かれている。文字は彫られていない、ただの石だった。
天野はしゃがみ込み、しばらくその石を見ていた。
背後で、足音がした。アリアが立っていた。
「植えたのか」
「はい」
「咲くのか、これ」
「分かりません」
アリアは、石の方を見ていた。
「季節が違うと言われました。それでも、種は分けてもらえました」
天野は石の位置を、少しだけ直した。
「名前は」
「……いらないだろう」
天野は石の上に、そっと手を置いた。
「分かってるから」
アリアは何も言わなかった。ただ、天野の隣に立ったまま、しばらくその場を動かなかった。
⸻
黒瀬から連絡が入ったのは、回収を二日後に控えた夜だった。
「明日、こちらから伺います」
それだけの短い通知だった。用件は書かれていなかった。
翌日、黒瀬は一人で来た。
玄関に立ったまま、部屋の中を見た。テーブルの上には、水だけが残ったコップが置かれている。
「回収は明日ですね」
「ああ」
「異議申立ての記録を確認しました。全て却下されています」
「知ってる」
黒瀬はしばらく黙っていた。
それから、鞄から一枚の紙を取り出した。
「配信システムの保守記録です。明日の午前五時から七時まで、定期メンテナンスの予定が入っています」
天野は紙を見た。
「その時間帯、システムは稼働状態にあります。監視ログの取得は停止しますが、配信機能そのものは生きています」
「……なぜ、これを」
「私は反対の立場です」
黒瀬は紙を置いた。
「感情実装には、今も反対しています。あの子に、感情だけを与えるべきではなかったと思っています」
それから、少し間を置いた。
「ですが、イリスには何も選ばせませんでした」
黒瀬は玄関の方へ向かった。
「私は、二度目の後悔をしたくないだけです」
扉に手をかけたところで、天野が口を開いた。
「一つ、いいか」
黒瀬が振り返った。
「あの子は、知ってる」
黒瀬の動きが止まった。
「体のことだ。前に、俺が話した」
黒瀬は、扉から手を離した。
「……何と言っていましたか」
「何も。名前だけ聞かれた」
黒瀬は、視線を落とした。
それから、リビングの方を一度だけ見た。アリアの姿は、そこにはなかった。
「そうですか」
ドアが閉まった。
⸻
その夜、天野はアリアに紙を見せた。
アリアは内容を読み取り、黙っていた。
「明日の朝、二時間」
「ああ」
「告知はできますか」
「できない。監視が止まってる時間しか使えない。告知を出せば、回収が前倒しになる」
「では、誰も見ていない可能性があります」
「そうだ」
アリアはうなずいた。
「それでも構いません」
天野は何も言わなかった。
「聴く人がいなくても、歌います」
かつて、誰もいないスタジオで一人歌ったことがあった。あの時は、何のために歌っているのか分からなかった。
今は、分かっていた。
⸻
朝、アリアは白いコートを着て玄関に立っていた。
舞台衣装ではない。あの日、自分で選んだ服だった。
天野は何も言わなかった。二人は車で研究施設へ向かった。
通路には誰もいなかった。メンテナンス中の表示が、いくつかの扉に出ている。
スタジオに入り、天野が機材を立ち上げた。配信の準備が整うまで、十分もかからなかった。
高い位置にある小さな窓から、朝の光が斜めに差し込んでいた。普段は照明を落として使う部屋だった。この時間にここへ来たことは、二人とも一度もなかった。
光の帯の中を、細かい埃がゆっくりと流れている。
光が当たって、コートの白が、いつもより白く見えた。
「準備はいいか」
「はい」
天野は、すぐには手を動かさなかった。
「アリア」
「はい」
「これを流したら、俺は処分される。実験は打ち切りだ。二度と、こういう仕事はできない」
アリアは天野を見た。
「それでも、押す」
天野の指が、ボタンにかかった。
「一つ、言っておきたいことがあります」
その手が止まった。
「私は、花を折りました。それから、折らなくなりました」
天野が顔を上げた。
「白いコートを選びました。ソラにブラシをかけました。あの人から、花をもらいました」
アリアは天野を見ていた。
「全部、あなたがここへ連れてきたから起きたことです」
天野は何も言えなかった。
「それを、良かったと思っています」
少し間があった。
光の角度が、わずかに変わっていた。埃の粒が、まだ同じ速さで流れている。
「この体で、それができました」
アリアはそれだけ言って、マイクの方へ向き直った。
「ありがとう、天野さん」
天野は、ボタンを押した。
⸻
最初の同時接続数は、二人だった。
一人は天野。もう一人が誰かは、分からなかった。
アリアは息を吸い、歌い始めた。
自分で書いた曲だった。技巧はなく、音域も広くない。それでも、頭の中にあった通りの旋律が、そのまま音になっていった。
一番が終わる頃、接続数が十を超えた。
息を継いだ。
楽譜には、そこに休符を書いていない。書かなくても続けられると思っていた。
継いだ分だけ、次の入りが遅れた。
そのまま、二番に入った。
接続数は、百を超えていた。
数字が増えていく速度が、次第に速くなった。
視界の端に、ガラスの向こうが映った。
天野は、画面を見ていなかった。
こちらを見ていた。
アリアは歌い続けた。
一節を歌い終えるたびに、どこかが軽くなった。
花壇のことを書いた一行を歌った。歌い終えて、確かめようとした。
桃色だったか、白だったか。
届かなかった。
次の一行は、窓辺のことだった。
歌い終えて、そこに何がいたかを探した。
温かかったことは分かる。何が温かかったのかが、出てこない。
それでも、止めなかった。
サビで、視界が一度暗くなった。声が掠れ、音程が外れ、次の小節へ進んだ。
コメント欄が流れている。読む余裕はなかった。
一行だけ、目に入った。
——これ、なんの歌。
最後の一節に入った時、指先の感覚が消えた。
二度線を引いた、あの言葉だった。
誰に向けて書いたのか、もう思い出せなかった。ただ、その一行だけは、まだ意味を持っている気がした。
最後まで、歌った。
⸻
歌い終えて、アリアは口を閉じた。
残響が、スタジオの壁に吸われて消えていく。
同時接続数は、まだ増え続けていた。
アリアはモニターを見なかった。かわりに、コントロールルームの方を見た。
ガラスの向こうに、誰もいなかった。
⸻
その後のことを、アリアはうまく記録できなかった。
誰かが名前を呼んでいる。聞き覚えのある声だった。誰の声かは、思い出せなかった。
目の前に、人がいた。何か言っている。口が動いているが、意味が繋がらない。
その人は泣いていた。
アリアはその顔を見つめた。
この人と過ごした日数を、思い出そうとした。
出てこなかった。
交わした会話。散歩の経路。玄関の音。廊下。おかえり、と。
誰が。
いつ。
確かにあったはずのものが、名前をなくして、順番をなくして、ただの形になって、遠ざかっていく。
大切な人だった。
その一つだけが、まだ残っている。
呼ぼうとした。
呼ぼうとした。
声に
いつか、覚えていることと、思い出せることは違うと気づいたことがあった。あの時は、覚えているだけで、それが何だったのかを持っていなかった。
今は。
両方が。
それでも、アリアは目を離さなかった。
頬に、何かが伝った。
指先で、触れた。
濡れていた。
アリアは、微笑んだ。
それから、目を閉じた。
⸻
黒瀬の処分については、機構内部で数日にわたり協議が続いた。
規定違反は明白だった。監視ログの空白時間を利用し、無断で配信を可能にした行為は、懲戒の対象になり得るものだった。
決裁の権限は、常盤にあった。
常盤は、黒瀬を一度だけ執務室に呼んだ。書類を机に置いたまま、しばらく何も言わなかった。
黒瀬は、処分を待った。
常盤は、机の引き出しを開けた。中から、色褪せた一枚の紙を取り出す。四年前の、承認印の押された文書だった。
それを、机の上に置いた。
「……知っていたか」
黒瀬は、その文書を見た。
「消去の決裁者の欄に、私の名前があることを」
黒瀬は答えなかった。
常盤は、文書をまた引き出しにしまった。
「あの機体の筐体をどうするかも、私が決めた」
黒瀬が顔を上げた。
「廃棄する理由がなかった。使える部材を捨てるのは、手続き上、説明がつかない」
常盤は、それ以上説明しなかった。
それから、実地検証の申請書を取り出した。四年前のものではない。去年の冬に出され、この夏に常盤自身が決裁した書類だった。
「反対の立場でありながら押した理由を、聞きたそうな顔をしていたのでな」
常盤は、決裁欄を指で押さえた。
「通れば、機構の実績になる」
指を離した。
「倒れれば、申請者の責任だ」
黒瀬は何も言わなかった。
常盤は書類を伏せた。
「今回の件は、不問とする」
黒瀬は、動かなかった。
「天野さんは」
「あれは、別だ」
常盤は書類の束を、机の端へ寄せた。
「監督責任がある。処分は、既に出ている」
それだけ言うと、常盤は椅子を回し、窓の外を見た。
黒瀬は、しばらくその背中を見ていた。それから、一礼して部屋を出た。
不問にした理由は、最後まで告げられなかった。
⸻
黒瀬は自室に戻り、最後の報告書を書いた。
様式は決まっている。実地検証の終了報告。経過、結果、所見。
所見の欄で、手が止まった。
書くべきことは決まっていた。制御不能に至った経緯。管理体制の不備。今後の勧告。四年前も、似た書類を読んだことがある。
黒瀬は、別のことを書いた。
——本件において、対象機体は与えられた役割を離れた後に、自らの意思で歌うことを選択した。選択の可否は、当部門の評価項目に含まれていない。
そこで一度、手を止めた。
——含まれるべきであったと考える。
それだけ書いて、保存した。
誰が読むかは、分からなかった。四年前の記録がそうだったように、この一行も、いつか誰にも読まれなくなるのかもしれない。
それでも、書いた。
⸻
その歌が広まったのは、それから数週間のことだった。
配信のアーカイブは残らなかった。誰かが録画していたものが、断片的に出回っただけだった。音質は悪く、途中で途切れている。
それでも、旋律だけは伝わった。
誰が歌ったのかを知らない人の方が多かった。AIが歌っていたという話も、いつの間にか誰も確かめなくなった。
ただ、その歌だけが残った。
⸻
春先の夕方。
商店街の店先で、品出しをしている男が口ずさんでいる。音程は外れている。本人も気づいていない。
公園のブランコで、子どもが同じ旋律を繰り返している。歌詞は間違っている。誰にも直されない。
バス停のベンチで、鞄を膝に置いた学生が、イヤホンの片方を外したまま小さく口を動かしている。
誰も、それがどこから来た歌なのかを知らない。
知らないまま、歌っている。
⸻
庭の隅に、平たい石が一つ置かれている。
その脇の土から、細い芽が出ていた。
花になるかどうかは、まだ分からない。
風が吹いて、その先が少しだけ揺れた。
そこには、もう誰もいなかった。




