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Project Aria|心を持たない歌姫  作者: SAKURA.


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第7章「その場所だけ」

 天野は研究施設で測定の準備を整えた。


 手順書の通りに機材を並べ、接続を確認する。


 経路も所要時間も、日々そのまま端末へ上がってくる。コアの中だけは、こうして測らなければ分からない。


 黒瀬は、壁際の椅子に座っていた。膝の上に端末を開いている。着いてから、必要なこと以外は話していない。


 アリアは検査台に座っていた。何も聞かなかった。


 数値が出るまでに、十分ほどかかった。


 画面に線が出る。天野の位置からも、黒瀬の位置からも見える角度だった。


 線は、上がっていた。


 規定値までは、まだ距離がある。今日の値も、その内側に収まっていた。


 ただ、傾きが変わっていた。前回までの上がり方と、今回とでは、角度が違う。


 黒瀬が端末に何かを打ち込む音がした。


「今日の値は、そのまま報告に上げます」


「ああ」


「先週までの分と、並べておきます」


 天野は画面を見たまま、頷いた。


 並べれば、線の形が変わっているのが分かる。どこから変わったのかも。


「終わりですか」


 アリアの声だった。


「ああ」


 アリアは検査台から降りた。


「今日は、何かありますか」


「いや」


 アリアが控室へ戻っていくのを見送る。黒瀬は端末を閉じ、会釈をして出ていった。


 一人になってから、天野は研究室へ入った。


 机の右側は、空いたままになっている。二人分の書類を並べていた頃から、位置は変えていない。


 実地検証を最初に言い出したのは、紬だった。


 人と関われば、あの子は変わる。変われば、歌も変わる。歌が誰かに届いた時、この技術が何だったのかが分かる。設計思想が正しかったことも、その時に証明される。


 紬は、それを見ていない。


 だから、自分が見届ける。


⸻


 その朝も、いつも通りリードを手に取った。


 床を軽く叩く。ソラは窓辺で丸くなったまま、動かなかった。


「ソラ」


 耳は動かなかった。


 アリアはリードを持ったまま、その場に立っていた。何度か促せば起き上がる。昨日もそうだったし、その前もそうだった。だから、待った。


 陽が少しずつ動いて、窓枠の影が床の上を移動していく。


 台所で、水を出す音がした。しばらくして止まり、それから食器の触れ合う音が続いた。


 ソラは動かなかった。


 いつもなら、この時間には玄関の方を見ている。散歩の時刻が近づくと、耳の向きが変わる。


 今日は、耳が同じ方向を向いたままだった。


 アリアはリードを床に置き、窓辺へ歩いた。しゃがんで、背中に手を伸ばす。


 冷たかった。


 背中も、その隣も、どこもかしこも冷たかった。呼吸に合わせて上下していたはずの体は、動きを止めていた。


 アリアは手を離さなかった。しばらく、そのままでいた。


 体温という数値が、周囲の室温と一致している。呼吸数、心拍数、いずれも検出されない。処理としては、それだけのことだった。


 それだけのことのはずだった。


 あの日、ブラシをかけた場所に、指が触れた。


 手触りは、変わっていなかった。


「天野さん」


 声が出た。自分でも意図しないうちに、そう呼んでいた。


 廊下の向こうで足音が止まる。それから、早足でこちらへ近づいてくる音がした。


 天野は部屋に入ってきて、窓辺を見て、動きを止めた。


 それから、ゆっくりとしゃがみ込んだ。アリアと同じように、ソラの背に手を置く。しばらくの間、二人とも何も言わなかった。


「そうか」


 天野の声は、いつもと変わらなかった。


 驚いていなかった。


 その声を、アリアは記録した。何を意味するのかは、分からなかった。


 天野は手を離し、立ち上がる。それから押し入れを開け、古い毛布を取り出してきた。


 迷わなかった。どこにあるかを知っている手つきだった。


 ソラの体をそっと包み、抱き上げる。腕の中で、頭が力なく傾いた。


 アリアはその一連の動きを見ていた。何をすべきなのか、分からなかった。


⸻


 庭の隅に、天野はスコップを突き立てた。


 土は思ったより硬く、一度で深くは掘れなかった。天野は黙って何度も同じ場所を掘り返した。額に汗が滲んでいたが、拭う様子もなかった。


「私も、やります」


 天野は手を止めなかった。


「いや」


 それだけ答えて、また土に刃を入れた。


 アリアは毛布に包まれたソラの隣に立ち、その作業を見ていた。掘られた土が、脇に積み上がっていく。


 刃が土を打つ間隔が、少しずつ短くなっていた。息が上がっているのが、離れた場所からでも分かる。それでも天野は手を緩めなかった。


 穴は、もう十分な深さになっていた。アリアの目にはそう見えた。それでも天野はスコップを入れ続けた。膝の高さを超え、腰の近くまで掘り進んだところで、ようやく動きが止まった。


 天野は穴の底を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。それから額を腕で拭い、スコップを地面に置いた。


 毛布ごとソラを抱き上げ、穴の底へゆっくりと下ろす。それから、脇に積んだ土を、手で少しずつ戻していった。


 最初にかかった土は、後ろ脚の先を覆った。次に、丸くなった背の稜線が、少しずつ土の下に沈んでいった。天野の手は止まらなかった。


 頭の形が見えなくなるまで、それほど時間はかからなかった。最後まで残っていたのは、垂れた耳の先だった。それも、一握りの土に埋もれて見えなくなった。


 スコップは、使わなかった。


 最後の一握りが落ちて、そこはただの地面になった。


 天野はしゃがんだまま、その地面を見ていた。


 手についた土を、払わなかった。


⸻


 その日、天野は何度も庭を見た。


 夕食の支度をする手が止まり、窓の外へ視線が向く。それからまた手が動き出す。その繰り返しが、日が暮れるまで続いた。


 テーブルに、一人分の食事が置かれた。


 器は、出されなかった。


 アリアは、窓辺の定位置を見ていた。


 何もない。丸くなった体も、薄茶色の毛並みも、そこにはない。ただ、床の上に、うっすらと毛が落ちているだけだった。


 アリアはその毛を、指先で摘み上げた。いつ落ちたものかは、分からなかった。


 あの日、新聞紙の上に山になっていた毛は、天野が持っていった。今、指先にあるのは、それとは別のものだった。


 アリアはそれを、手のひらの上に置いた。


 軽すぎて、置いた感触がなかった。


 どうすればいいのかは、分からなかった。捨てる場所も、しまう場所も、決まっていない。


 しばらくしてから、アリアは手を握った。強く握れば潰れるものではないことは、分かっていた。それでも、加減した。


⸻


 夜、アリアは自室にいた。


 窓からは庭の隅が見える。暗くて、何も見えなかった。


 それでも、しばらくそこを見ていた。


 下の階から、物音は聞こえてこなかった。爪が板に当たる音も、体の位置を変える音もしない。


 この家に来た最初の夜、その音を聞いて階段を下りた。


 今夜は、下りる理由がなかった。


⸻


 翌朝、気づけばその場所の前に立っていた。


 窓辺には何もない。陽の当たり方も、床板の色も、何一つ変わっていない。変わったのは、そこに何もいないということだけだった。


 リードを取りに行こうとして、その必要がないことに気づく。散歩の時刻を知らせる内部の記録が、今日も同じ時間に働いていた。アリアはそれを止める方法を探し、しばらく見つけられなかった。


 立ち去ろうとするたび、足が止まる。何度か試して、諦めた。


 日が差してきた。窓枠の影が、床の上を少しずつ移動していく。


 ソラの寝ていた場所に、光が届いた。


 影になったら動かそうと思っていた。


 今日は、動かすものがなかった。


「どうした」


 背後から、天野の声がした。


 アリアはしばらく答えなかった。喉のあたりで、出力の指示が滞っている。声を出そうとするたび、どの言葉を選ぶべきかの判定が返ってこなかった。


 それから、窓の方を見たまま口を開いた。


「……待っています」


「戻ってこないことは、理解しています」


 少し間を置いて、続けた。


「それでも」


 天野は、何も答えなかった。


 背後で、床板が軋む音がした。近づいてくることも、離れていくこともないまま、その音は止まった。


 二人はしばらく、同じ場所に立っていた。


 窓の外では、庭の隅に土の色が変わっている場所があった。


 その上を、光が横切っていった。


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