第6章「変わらないままで」
朝、リードを手に取ると、ソラはしばらく動かなかった。
何度か床を軽く叩くと、ようやく立ち上がった。玄関までの数歩に、以前より時間がかかっている。
外の空気は、初めて散歩に出た日より冷たくなっていた。息を吸っても、あの日のような土の匂いはしない。
外に出れば、鼻先はいつも通り地面を辿っていく。アリアはその歩調に合わせて、足を進めた。
塀の角。二本目の電柱。集積所の手前。
止まる場所は、変わっていない。ただ、そこから歩き出すまでの時間が、少しずつ長くなっていた。
途中、ソラが立ち止まった。
側溝でも、電柱でもない。ただの道の途中だった。鼻先は地面に向いていたが、匂いを追っている様子はない。リードを軽く引いても、耳が一度動いただけだった。
アリアは待った。急かすべきなのかどうかは、以前と同じように分からなかった。
しばらくして、ソラはまた歩き出した。何事もなかったように、いつもの方向へ進んでいく。
歩道の端に、低い段差があった。以前は、足を止めずに越えていた場所だった。
ソラは段差の手前で、一度動きを止めた。前脚を上げかけて、下ろす。身体を少し傾けてから、もう一度上げた。
越えた。
アリアは、その一連の動作を見ていた。時間にすれば、二秒ほどだった。
記録には、通過、とだけ残る。
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角を二つ曲がった先で、アリアは足を止めた。
花壇が、埋まっていた。
淡い桃色と、白と、薄紫。細い茎の先で、それぞれが少しずつ違う高さに開いている。株と株の間は見えなくなり、色の塊が、庭先から歩道の際まで続いていた。鉢植えのものも、地植えのものも、区別がつかなかった。
風が通ると、全体が一度に傾いた。それから、順番に戻っていく。
初めてここへ来た日、この場所には緑の茎だけが並んでいた。花は一つもなかった。棒を挿し、紐で留め、先端を摘み、しおれた葉を一枚ずつ取っていた手を、アリアは何度も見ている。
あの時、自分が折った一本がどれだったかは、分からなかった。切り口の跡を探そうとして、すぐにやめた。株の数が、多すぎた。
女性が庭先で水をやっていた。目が合うと、軍手をはめたままの手が上がる。アリアも、頭を下げた。
「今年は、よく咲いたのよ」
それだけ言って、また手元へ戻った。
アリアは、もう一度花壇を見た。
役に立たない。利益も生まない。それは、初めて来た日と変わっていない。
変わったのは、そこに何があるかということだけだった。
側溝の縁の花は、もう咲いていなかった。それでも、アリアは半歩ずれて歩いた。もう、考えるより先に足が動いていた。
いつもの折り返し地点まで来て、アリアは振り返った。
ソラは、少し後ろにいた。距離が開いている。以前は、リードが前に張ることの方が多かった。
アリアは、その場で待った。
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帰宅すると、ソラは窓辺の定位置で丸くなった。
所要時間は、いつもより七分長かった。距離は同じだった。
アリアは器に餌を入れた。内側の線より、少し上まで。この家に来た日から、量は変えていない。
窓辺の近くに置く。
ソラは顔を上げなかった。
「ソラ」
声に出したのは、初めてだった。
ソラの耳が動いた。それから、ゆっくりと顔を上げる。
立ち上がり、器のところまで歩いてきて、匂いを嗅いでから、食べ始めた。
器の中身は、半分ほど残った。
アリアは残った分を見ていた。それから、器を下げずにそのままにした。
時折、天野がソラを見て、それから窓の外へ視線を向ける。
気づけば、正午を過ぎていた。ソラは、まだ眠っていた。
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「そろそろブラシをかけないとな」
昼過ぎ、天野が押し入れから古いブラシを取り出してきた。柄の部分が、握られ続けたせいか、わずかに黒ずんでいる。
床に新聞紙を広げ、その上でソラを横向きに寝かせる。ソラは抵抗もせず、されるがままに身を委ねた。
天野が背中に当てると、驚くほど毛が抜けた。ブラシの目に絡んだ薄茶色の毛を、天野は指で摘んで、新聞紙の上に落としていく。何度か往復させるうちに、紙の上には小さな山ができていた。
天野の手が、一度だけ止まった。それから、また動き出す。
アリアは、その様子を見ていた。
「私が、やってみてもいいですか」
天野の手が、また止まった。
「……ああ」
差し出されたブラシは、思っていたよりも軽かった。
見様見真似で背中に当ててみる。力の加減が分からず、最初は毛の上を滑るだけだった。少し強く当てると、ソラが小さく身じろぎする。慌てて力を緩めた。
何度か繰り返すうちに、ようやく感触が掴めてきた。毛の流れに沿って動かすと、ブラシは引っかかることなく背中を滑っていく。目に絡んだ毛を指で摘み、新聞紙の上に落とす。天野がしていたのと、同じ手順だった。
摘んだ毛を落とす位置も、同じにした。紙の上の、同じ場所。
天野が、それを見ていた。何も言わなかった。
ソラは、目を細めたまま動かなかった。時々、気持ちよさそうに前脚を伸ばす。
首の後ろ、耳の付け根、背骨に沿って腰まで。場所によって毛の硬さが違うことに、アリアはその時初めて気づいた。
背中の中ほどで、指先が骨に触れた。
毛の下に、骨の形がある。以前は分からなかった。
アリアは手を止めた。
「どうした」
「いえ」
また、動かし始めた。
力の加減は、さっきより弱くなっていた。
新聞紙を丸めようとして、アリアは手を止めた。
薄茶色の毛が、山になっている。今日抜けた分だった。
しばらく、そのままにしていた。
結局、天野が来て、新聞紙ごと丸めて持っていった。アリアはそれを見ていた。
⸻
午後、天野は自室にこもっていた。書類を整理する音が、時々聞こえてくる。
リビングには、アリアとソラだけが残った。
窓辺の日は、少しずつ位置を変えていく。丸くなったソラの背中から、光が離れていった。
アリアは、その動きを見ていた。
やがて、ソラのいる場所は影になった。
アリアは立ち上がり、ソラの体の下に手を入れた。持ち上げるのではなく、押すのでもなく、少しずつ位置をずらしていく。
ソラは目を開けなかった。されるままになっている。
日の当たる場所まで移動させて、アリアは手を離した。
背中に、また光が戻った。
しばらくして、ソラが小さく息を吐いた。
アリアは、その隣に腰を下ろした。
何もしなかった。
時計の音がして、外を車が通り過ぎる音がした。天野の部屋から、紙をめくる音が続いている。
窓の外では、隣家の屋根に日が当たっていた。その光も、少しずつ動いている。
次に影になったら、また動かそうと思った。
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日が落ちる頃、天野が車のキーを手に取った。週に一度の配信の日だった。
助手席から見る景色は、いつもと同じ順番で流れていく。研究施設に着くと、いつもの通路を抜けて、スタジオへ入った。
マイクの前に立ち、いつもの手順で歌い始める。選曲も、発声も、変えたところはない。
歌い終えて一礼した後、コメント欄に、これまで見たことのない言葉が混じっていた。
「作業しながら聞くつもりだったのに、手が止まってる」
「今日、ずっと聴いてられる」
アリアは自分の発声ログを開いた。前回の配信とも、その前とも、差はなかった。
数値の上では、何も変わっていない。
コントロールルームの向こうで、天野が機材のモニターを見つめていた。その手元は、しばらく動かなかった。
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帰りの車の中で、天野がぽつりと言った。
「最近、数字が伸びてるみたいだな」
それだけだった。信号が変わり、車はまた走り出した。
家に着いたのは、日付が変わる少し前だった。
玄関の物音にも、ソラは起きてこなかった。窓辺の定位置で、朝と同じ格好のまま眠っている。
「最近、眠っている時間が長くなっています」
それは質問というより、ただの報告に近かった。天野は上着を脱ぎながら、こちらを見ずに答えた。
「歳だからな」
それだけだった。天野はそのまま洗面所へ向かい、話は途切れた。
アリアは、眠ったままのソラの背に触れた。
昼間ブラシをかけた場所は、まだ少しだけ、他の場所とは違う手触りをしていた。




