第5章「帰る場所」
霊園へ行った日の記録を、天野はその夜に書いた。
外出、と一行だけ入れた。目的地の欄は、任意になっている。
空欄のまま保存した。
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ある朝、黒瀬から電話が入った。
天野は数分ほど短いやり取りを交わしただけで、顔つきが変わった。
「悪い、少し出てくる。報告書の確認で、どうしても今日中にって話でね」
玄関で靴を履きながら、天野はそう言い残した。
「いつ戻りますか」
「夕方には」
それだけ答えると、天野は玄関で一度だけ振り返り、足早に出ていった。
誰もいない玄関を、アリアは見つめていた。
残されたアリアは、いつも通りリードを手に、ソラの前に立った。
けれどソラは、玄関先で足を止めたまま動こうとしなかった。急かしても、リードを見せても、その場に伏せたままだった。
数分待っても変わらなかったので、散歩は諦めることにした。
理由は分からなかった。それでも、無理に引っ張る気にはなれなかった。
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静かな家の中で、アリアは何をするでもなく過ごしていた。
本棚から抜き取った一冊は、ページを繰る指先に、紙の擦れる音だけを残した。天野が置いていった音楽を流してみても、リビングの静けさを埋めきれないまま、その音は宙に溶けていく。
窓辺で丸くなったソラの、規則正しい寝息だけが、部屋の中で変わらず続いていた。
時計の針が正午を回った頃、アリアは玄関へ向かった。
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休日の午後、通りは賑わっていた。
すれ違う人々の合間を縫うように、アリアは当てもなく歩き続けた。信号待ちのたびに、行き先の決まっている人々の後ろ姿を、何をするでもなく目で追った。
犬を連れた老人が、こちらへ歩いてくる。すれ違う時、その犬が足を止めて、アリアの方を見上げた。老人が声をかけると、犬はまた歩き出した。
アリアは振り返らなかった。
日は少しずつ傾き、通り過ぎる店の看板には、いつの間にか明かりが灯っていた。
部活帰りらしい一団が、声を上げて笑い合っていた。何がそんなに面白かったのか、アリアには聞き取れないままだった。
その笑い声だけが、いつまでも耳に残った。
アリアは商店街の入り口、車道沿いにあるベンチに腰を下ろした。彼らが角を曲がって見えなくなった後も、そこから動かなかった。
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機構本部の入口には、銘板が二つ並んでいる。一つは機構の名。もう一つには、所管する省庁の名が刻まれていた。
会議室には、書類の匂いが染み付いていた。
天野が席に着くなり、倫理審査部門トップの常盤徹が、老眼鏡越しに書類を睨みつけたまま口を開いた。傍らには、黒瀬が控えていた。
「これまでの報告だが」
常盤は書類を机に置いた。付箋が何枚もはみ出している。日付だけが違っていた。
「開始からの分を、全部並べてみた」
天野は姿勢を変えなかった。
「コアの負荷が、ほとんど動いていないな」
「安定しています」
「そうか」
常盤は書類の一枚を手に取り、目の高さまで持ち上げた。
「きれいなものだな」
「規定の書式で出しています」
「書式の話はしていない」
常盤は紙を机に戻した。
「稼働記録というのは、もう少し汚いものだ」
部屋が静かになった。
常盤は付箋の一枚を指で押さえた。
「この線には、それがない」
天野は口を開こうとした。
言葉が出てこなかった。
「まあ、いい」
常盤は書類を閉じた。
「黒瀬くんからは、順調だと聞いている」
黒瀬は何も言わず、視線を伏せていた。
「だが『順調』というのは、まだ何も起きていないというだけの言葉だ」
天野は何も答えなかった。
「一つだけ言っておく。私は、感情を実装した機体がどうなるか、身をもって知っている人間だ。順調に見える時期ほど、危うい」
天野が顔を上げた。
「……知っている、というのは」
常盤は書類を揃え直した。角を机の上で二度、軽く打ちつける。
「その話はしていない」
それだけだった。常盤は老眼鏡を外し、目頭を指で押さえた。
この部屋に座っているのは、三人だけだった。
常盤は老眼鏡をかけ直した。
「この検証を止める判断は、私が出す」
常盤は書類の束を差し出した。
天野は受け取った。付箋は、一枚も外されていなかった。
「続ける判断は、君のものだ」
天野は顔を上げた。
「申請者の欄に名前があるのは、君だからな」
「次から、測定には黒瀬くんが立ち会う」
天野の手が止まった。
「以上だ」
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廊下へ出ると、黒瀬が後ろから追ってきた。
「天野さん」
天野は足を止めた。
「毎週の報告は、私が受け取っています」
「……ああ」
黒瀬は少し間を置いた。
「先週の配信で、白いコートを着ていましたね」
「それがどうした」
「報告書には、記載がありませんでした。書く必要のない項目です」
黒瀬は端末を脇に下ろした。
「一つ、伺ってもいいですか」
「何だ」
「あの子は、変わってきていますか」
天野は黒瀬を見た。
黒瀬は表情を変えずに、こちらを見返している。責めている顔ではなかった。答えを知っている顔でもなかった。
「……数値に変動はない」
「そうではなくて」
黒瀬は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「あなたには、どう見えていますか」
天野は答えなかった。
黒瀬はしばらく待ってから会釈をして、来た方向へ戻っていった。
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研究施設へ戻った天野は、自分のデスクで二つのファイルを開いた。
一つは、測定装置から直接吐き出された記録。もう一つは、提出用に整えたものだった。
最初の数週は、そのまま出していた。動いていない数字を、動いていないと書けばよかった。
今は、違う。
実測の線は、緩やかではあるが上がっていた。
提出した線は、その下を走っている。
上がり方が変わったのは、この一ヶ月ほどだった。
歌えば上がる。溜まったものを呼び起こして、そのまま音に変えているからだ。
歌う回数は、変わっていない。
規定値までの距離を、天野は計算しなかった。計算しなくても、まだ遠いことは分かる。
あの線は、念のために引かれたものだった。実際の耐用値は、もっと先にある。数値上の話にすぎない。
この子は今、犬の散歩をして、服を選んで、家に帰ってきている。壊れる兆候など、どこにもない。
止められるとすれば、それは数字によってだけだった。
次から、この差は作れない。
天野は、二つの線を並べたまま見ていた。
窓から差し込む光が、いつの間にか傾きを変えている。気づけば外は、すっかり夕暮れの色に染まっていた。
どちらのファイルも閉じて、天野は席を立った。
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車を走らせ、いつもの帰り道に差しかかった頃、天野はふと減速した。
商店街の入り口。ベンチに座る見覚えのある人影がある。
車を路肩に停め、窓を下ろした。
「こんなところにいたのか」
アリアが顔を上げた。
助手席に乗り込んだアリアに、天野が尋ねた。
「何かあったのか」
アリアは言った。
「少し前、学生たちの笑い声が聞こえました。理由は分かりませんが、いつまでも耳から離れません」
天野は、思ったより長く黙り込んでいた。
それから、車を出した。
信号で止まるたび、外を歩く人の姿が窓を流れていった。
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家に着き、二人で玄関を開けると、ソラが玄関のすぐ内側に座っていた。
いつもは天野が声をかけるまで、窓辺から動こうとしない。その日は、扉が開くより前から、そこにいたようだった。
ソラは立ち上がり、アリアの足元まで来て止まった。尻尾が、控えめに揺れている。
アリアはその姿を見つめていた。気づけば、指先がソラの頭を撫でていた。
ソラが、気持ちよさそうに目を細める。
「この行動には、どのような意味がありますか」
天野は笑った。
「意味じゃないんだよ」
前にも聞いた言葉だった。それでも今度は、その響きが少しだけ違って聞こえた気がした。
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その夜、眠っているソラの隣に、アリアはそっと腰を下ろした。
ソラの温かい体に手を添えたまま、アリアはしばらくそこを動かなかった。




