↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Project Aria|心を持たない歌姫  作者: SAKURA.


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/17

第5章「帰る場所」

 霊園へ行った日の記録を、天野はその夜に書いた。


 外出、と一行だけ入れた。目的地の欄は、任意になっている。


 空欄のまま保存した。


⸻


 ある朝、黒瀬から電話が入った。


 天野は数分ほど短いやり取りを交わしただけで、顔つきが変わった。


「悪い、少し出てくる。報告書の確認で、どうしても今日中にって話でね」


 玄関で靴を履きながら、天野はそう言い残した。


「いつ戻りますか」


「夕方には」


 それだけ答えると、天野は玄関で一度だけ振り返り、足早に出ていった。


 誰もいない玄関を、アリアは見つめていた。


 残されたアリアは、いつも通りリードを手に、ソラの前に立った。


 けれどソラは、玄関先で足を止めたまま動こうとしなかった。急かしても、リードを見せても、その場に伏せたままだった。


 数分待っても変わらなかったので、散歩は諦めることにした。


 理由は分からなかった。それでも、無理に引っ張る気にはなれなかった。


⸻


 静かな家の中で、アリアは何をするでもなく過ごしていた。


 本棚から抜き取った一冊は、ページを繰る指先に、紙の擦れる音だけを残した。天野が置いていった音楽を流してみても、リビングの静けさを埋めきれないまま、その音は宙に溶けていく。


 窓辺で丸くなったソラの、規則正しい寝息だけが、部屋の中で変わらず続いていた。


 時計の針が正午を回った頃、アリアは玄関へ向かった。


⸻


 休日の午後、通りは賑わっていた。


 すれ違う人々の合間を縫うように、アリアは当てもなく歩き続けた。信号待ちのたびに、行き先の決まっている人々の後ろ姿を、何をするでもなく目で追った。


 犬を連れた老人が、こちらへ歩いてくる。すれ違う時、その犬が足を止めて、アリアの方を見上げた。老人が声をかけると、犬はまた歩き出した。


 アリアは振り返らなかった。


 日は少しずつ傾き、通り過ぎる店の看板には、いつの間にか明かりが灯っていた。


 部活帰りらしい一団が、声を上げて笑い合っていた。何がそんなに面白かったのか、アリアには聞き取れないままだった。


 その笑い声だけが、いつまでも耳に残った。


 アリアは商店街の入り口、車道沿いにあるベンチに腰を下ろした。彼らが角を曲がって見えなくなった後も、そこから動かなかった。


⸻


 機構本部の入口には、銘板が二つ並んでいる。一つは機構の名。もう一つには、所管する省庁の名が刻まれていた。


 会議室には、書類の匂いが染み付いていた。


 天野が席に着くなり、倫理審査部門トップの常盤徹(ときわとおる)が、老眼鏡越しに書類を睨みつけたまま口を開いた。傍らには、黒瀬が控えていた。


「これまでの報告だが」


 常盤は書類を机に置いた。付箋が何枚もはみ出している。日付だけが違っていた。


「開始からの分を、全部並べてみた」


 天野は姿勢を変えなかった。


「コアの負荷が、ほとんど動いていないな」


「安定しています」


「そうか」


 常盤は書類の一枚を手に取り、目の高さまで持ち上げた。


「きれいなものだな」


「規定の書式で出しています」


「書式の話はしていない」


 常盤は紙を机に戻した。


「稼働記録というのは、もう少し汚いものだ」


 部屋が静かになった。


 常盤は付箋の一枚を指で押さえた。


「この線には、それがない」


 天野は口を開こうとした。


 言葉が出てこなかった。


「まあ、いい」


 常盤は書類を閉じた。


「黒瀬くんからは、順調だと聞いている」


 黒瀬は何も言わず、視線を伏せていた。


「だが『順調』というのは、まだ何も起きていないというだけの言葉だ」


 天野は何も答えなかった。


「一つだけ言っておく。私は、感情を実装した機体がどうなるか、身をもって知っている人間だ。順調に見える時期ほど、危うい」


 天野が顔を上げた。


「……知っている、というのは」


 常盤は書類を揃え直した。角を机の上で二度、軽く打ちつける。


「その話はしていない」


 それだけだった。常盤は老眼鏡を外し、目頭を指で押さえた。


 この部屋に座っているのは、三人だけだった。


 常盤は老眼鏡をかけ直した。


「この検証を止める判断は、私が出す」


 常盤は書類の束を差し出した。


 天野は受け取った。付箋は、一枚も外されていなかった。


「続ける判断は、君のものだ」


 天野は顔を上げた。


「申請者の欄に名前があるのは、君だからな」


「次から、測定には黒瀬くんが立ち会う」


 天野の手が止まった。


「以上だ」


⸻


 廊下へ出ると、黒瀬が後ろから追ってきた。


「天野さん」


 天野は足を止めた。


「毎週の報告は、私が受け取っています」


「……ああ」


 黒瀬は少し間を置いた。


「先週の配信で、白いコートを着ていましたね」


「それがどうした」


「報告書には、記載がありませんでした。書く必要のない項目です」


 黒瀬は端末を脇に下ろした。


「一つ、伺ってもいいですか」


「何だ」


「あの子は、変わってきていますか」


 天野は黒瀬を見た。


 黒瀬は表情を変えずに、こちらを見返している。責めている顔ではなかった。答えを知っている顔でもなかった。


「……数値に変動はない」


「そうではなくて」


 黒瀬は言葉を選ぶように、少し間を置いた。


「あなたには、どう見えていますか」


 天野は答えなかった。


 黒瀬はしばらく待ってから会釈をして、来た方向へ戻っていった。


⸻


 研究施設へ戻った天野は、自分のデスクで二つのファイルを開いた。


 一つは、測定装置から直接吐き出された記録。もう一つは、提出用に整えたものだった。


 最初の数週は、そのまま出していた。動いていない数字を、動いていないと書けばよかった。


 今は、違う。


 実測の線は、緩やかではあるが上がっていた。


 提出した線は、その下を走っている。


 上がり方が変わったのは、この一ヶ月ほどだった。


 歌えば上がる。溜まったものを呼び起こして、そのまま音に変えているからだ。


 歌う回数は、変わっていない。


 規定値までの距離を、天野は計算しなかった。計算しなくても、まだ遠いことは分かる。


 あの線は、念のために引かれたものだった。実際の耐用値は、もっと先にある。数値上の話にすぎない。


 この子は今、犬の散歩をして、服を選んで、家に帰ってきている。壊れる兆候など、どこにもない。


 止められるとすれば、それは数字によってだけだった。


 次から、この差は作れない。


 天野は、二つの線を並べたまま見ていた。


 窓から差し込む光が、いつの間にか傾きを変えている。気づけば外は、すっかり夕暮れの色に染まっていた。


 どちらのファイルも閉じて、天野は席を立った。


⸻


 車を走らせ、いつもの帰り道に差しかかった頃、天野はふと減速した。


 商店街の入り口。ベンチに座る見覚えのある人影がある。


 車を路肩に停め、窓を下ろした。


「こんなところにいたのか」


 アリアが顔を上げた。


 助手席に乗り込んだアリアに、天野が尋ねた。


「何かあったのか」


 アリアは言った。


「少し前、学生たちの笑い声が聞こえました。理由は分かりませんが、いつまでも耳から離れません」


 天野は、思ったより長く黙り込んでいた。


 それから、車を出した。


 信号で止まるたび、外を歩く人の姿が窓を流れていった。


⸻


 家に着き、二人で玄関を開けると、ソラが玄関のすぐ内側に座っていた。


 いつもは天野が声をかけるまで、窓辺から動こうとしない。その日は、扉が開くより前から、そこにいたようだった。


 ソラは立ち上がり、アリアの足元まで来て止まった。尻尾が、控えめに揺れている。


 アリアはその姿を見つめていた。気づけば、指先がソラの頭を撫でていた。


 ソラが、気持ちよさそうに目を細める。


「この行動には、どのような意味がありますか」


 天野は笑った。


「意味じゃないんだよ」


 前にも聞いた言葉だった。それでも今度は、その響きが少しだけ違って聞こえた気がした。


⸻


 その夜、眠っているソラの隣に、アリアはそっと腰を下ろした。


 ソラの温かい体に手を添えたまま、アリアはしばらくそこを動かなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。