第4章「忘れないために」
黒瀬が出ていったあと、天野は席を立たなかった。
なぜ、白なのか。
考えたことがなかった。
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「歌わせる必要が、本当にあるのか」
研究室の窓から、夕方の光が斜めに差し込んでいた。作業台の上には、工具と部品が几帳面に並んでいる。
天野は資料を机に置いた。二人分の書類が、同じ机の上に並んでいる。このプロジェクトに呼ばれてから、机はずっとこの並びのままだった。
「感情モデルの実証実験だ。経過を追うだけなら、他にもやり方はあるだろう」
紬は答えなかった。
「歌なんて、既存の技術で十分だ。何もこの子に、新しく歌わせる意味は――」
「役割の話じゃないの」
紬が顔を上げた。
「何か一つでいい。この子に、好きになれるものを持たせてあげたい」
紬は、作業台に固定された機体のフレームを指先でそっとなぞった。声も出せない、組み立て途中の姿だった。
「歌なら、きっと楽しいと思うから」
天野は黙っていた。
「……歌でなくても、いいだろう」
「歌がいいの」
紬は笑った。それだけ言うと、資料をまとめ始めた。
それ以上、理由は聞けなかった。
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「今日は、少し付き合ってほしいところがある」
珍しく改まった声だった。天野は車の鍵を手にしたまま、玄関先に立っている。
行き先は告げられなかった。ソラはいつもより時間をかけて後部座席に乗り込んだ。アリアはそのリードを持ったまま、隣に座った。
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車は、いつもの配信の日とは違う方向へ走った。
施設へ向かう道は、途中の交差点を右に折れる。今日はそこを直進した。
建物の数が減っていく。畑と、資材置き場と、時々家。信号の間隔も長くなった。
天野は何も言わなかった。ラジオもつけない。エンジンの音と、路面の継ぎ目を踏む音だけが続いた。
アリアは行き先を尋ねなかった。玄関を出る時から、天野は一度もこちらを見ていない。
ソラは座席の上で丸くなっている。窓の外を見ようとはしなかった。
三十分ほど走ったところで、天野が速度を落とした。
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車が停まったのは、市街地から少し離れた霊園だった。
天野は後部座席の足元から、空の桶と柄杓を取り出した。出発する時から、そこに置かれていたものだった。桶の縁は色が褪せ、内側には薄く水垢の跡が残っている。何に使うのか、アリアには分からないままだった。
座席の上には、白い菊の束もあった。天野はその半分を、アリアに差し出した。
「持っていてくれ」
アリアは受け取った。天野は残りの半分を持ち、車の扉を閉めた。
霊園の入口に、水場があった。蛇口をひねり、桶に水を張る。それから桶を提げて歩き出した。
敷地の奥では、無人の清掃車が芝生の間をゆっくりと巡回していた。石畳に落ちる影が、夏の頃より長く伸びている。
石畳の小径を、天野は迷いのない足取りで進んでいく。ソラも同じように、案内されるまでもなく先へ先へと歩いていった。並んだ墓石の間を抜け、いくつ目かの角を曲がった先に、小さな墓石があった。
彫られた文字を、アリアはそのまま読み取った。
天野紬。
周りには、伸びた雑草がそのまま残っている区画もあった。この墓石の周りだけ、雑草が一本もなかった。
ソラは墓石の前まで来ると、匂いを確かめるように鼻先を石の根元へ近づけた。それから、いつもの位置に座り込み、そのまま動かなくなった。
天野は桶を置き、まず墓石の周りに落ちた枯葉を手で払った。それから柄杓で水を掬い、石の上から流す。水が石肌を伝い、刻まれた文字の溝に溜まって、ゆっくりと下へ落ちていった。
二度、三度と繰り返す。水を流す位置も、手の動かし方も、迷いがなかった。
アリアは、その手つきを見ていた。
石は、ただの石だった。何度水をかけても、きれいになるだけで、応えは返ってこない。それでも天野は、同じ動きを繰り返していた。
天野は乾いた布で石の表面を拭った。文字の溝に沿って、指先で丁寧になぞっていく。
最後に、墓石の脇にある花立てに、自分の分の菊を挿した。
天野が、アリアの持つ花に視線を落とした。
アリアは、その花をそっと、もう一方の花立てに挿した。茎の切り口が、水面でしばらく揺れていた。
アリアは墓石に刻まれた文字へ手を伸ばしかけた。けれど、触れる寸前で止め、そのまま下ろした。
「ここに、誰かがいるのですか」
天野は首を横に振った。
「いないよ」
少し間を置いて、続けた。
「でも、忘れたくないから、会いに来るんだ」
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墓参りを終えて車に戻ろうとしたところで、天野がぽつりと言った。
「もう一箇所、寄りたい場所がある」
車が着いたのは、住宅街の外れにある古い公園だった。
敷地をぐるりと囲む遊歩道、錆びたブランコ、色あせたベンチ、伸び放題の草に覆われた広場。人の姿はどこにもなく、賑わっていた頃の気配だけが薄く残っている。
「随分、古い場所ですね」
天野は周囲を見渡しながら、奥にある欅の木の下のベンチに腰を下ろした。
「妻と、この子の散歩でよく来ていたんだ」
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ソラは、リードを外すとすぐに歩き出した。
どこへ行くかは決まっているようだった。広場の縁を回り、伸びた草の中に鼻先を入れ、また出てくる。同じ順番で、同じ場所を辿っている。
それから顔を上げ、ベンチの方へ戻ってきた。天野の足元まで来て、丸くなった。
「同じところを回ってる」
天野はそう言って、ソラの背を一度だけ撫でた。
アリアは、その様子を見ていた。
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天野は夕暮れの空を見上げたまま、口を開かなかった。
「あの頃は、毎週ここへ来ていた」
それだけ言うと、また黙る。しばらくして、続けた。
「研究が一段落すると、二人でよく息抜きに来ていたんだ」
「くだらない話をしたり、帰りにアイスを食べたり」
「それは、特別な思い出なのですか」
天野は少し考え、寂しそうに笑った。
「特別だったわけじゃない」
視線は、まだ空に向いたままだった。
「でも、今思えば、あの何でもない時間が、一番大切だったのかもしれない」
アリアは、自分の記録を呼び出した。
この家に来てからの日数。散歩に出た回数。歩いた距離。ソラの隣に座っていた時間。すべてが、秒単位で保存されている。欠落も、曖昧さもない。
天野が語っているのは、それとは違うものだった。何を話したかも覚えていない。何月の出来事かも定かではない。それでも彼は、その時間を「一番大切だった」と呼ぶ。
何一つ忘れていないのに、天野が持っているものを、自分は持っていなかった。
誰もいない公園を見渡す。声も、足音も、笑い声もない。それなのに、天野には、そこに何かが見えているようだった。
天野の指先が、ベンチの背もたれに刻まれた古い傷をそっとなぞる。深く考えるでもなく、癖のような仕草だった。
「妻がよくこうしてたんだ。座るといつも、ここを触ってた」
なぜそうしていたのか、天野自身にも分からないようだった。それでも、同じ場所を、同じ指の動きでなぞっている。
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日が沈み始め、天野は立ち上がった。ソラだけが、何度も振り返りながら、名残惜しそうに公園を見つめていた。
車へ向かう途中、天野は一度だけ振り返った。暮れかけた公園を見つめていた。それだけだった。
帰りの車の窓から、遠ざかっていく公園の輪郭が、闇に溶けて見えなくなっていく。
アリアはその暗がりを、見えなくなるまで見つめ続けていた。
今日の記録も、すべて保存されている。霊園の位置も、公園の座標も、天野が発した言葉の一つひとつも。
それでも、何かが足りない気がした。




