第3章「鏡の中の私」
週に一度の配信の日が来た。
この家に来てから、何度目かになる。朝の散歩は毎日続いていた。あれほど鳴いていた蝉の声は、いつの間にか聞こえなくなっている。
夕方、天野の運転で研究施設へ向かう。助手席の窓を、見慣れた街が流れていった。同じ時刻に家を出ても、着く頃には日が沈みかけている。
通用口から通路を抜け、スタジオに入った。
ここでは、隠す必要がない。ストールもウィッグもマスクも、控室に置いてくる。首元から胸元にかけての機械構造も、そのままでいい。
観客のための椅子は、どこにもなかった。床に固定されたカメラが一台と、マイクスタンド。壁の一面はガラス張りで、その奥がコントロールルームになっている。
天野がガラスの向こうで機材に明かりを入れた。それが、始まりの合図だった。
マイクの前に立ち、いつもの手順で歌い始める。
声は、誰もいない部屋に反響して広がっていく。視界の隅を、同時接続数を示す数字が流れていた。その下に、コメントが一行ずつ現れては消えていく。
歌いながらそれを読み取ることは、アリアにとって難しくなかった。
歌い終えて一礼した。コメントが流れては消えていく。いつもと変わらない反応だった。
照明が落とされ、スタジオに静けさが戻った。
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翌朝、天野はリビングで静かに座っているアリアを、何をするでもなく眺めていた。
それから机の引き出しを開け、中を探って数枚の紙幣を取り出し、机の上に置いた。
「たまには、一人で出かけてみたらどうだ」
アリアは紙幣と天野の顔を交互に見た。
「目的を教えてください」
「欲しいものがあれば、それを買えばいい」
「私に必要な物品は、現在ありません」
天野は小さく笑った。
「必要なものじゃなくていい。欲しいものを探してくるんだ」
アリアは紙幣を見下ろしたまま、動かなかった。数字としての価値は理解できても、それが何に変わるのかは、まだ像を結ばなかった。
「行き先の指定は」
「ない。好きなところへ行けばいい」
道順も、目的地も指定されない外出は、これが初めてだった。
「ソラは」
「今日は俺が見てる」
アリアは紙幣を受け取った。玄関で黒髪のウィッグを被り、マスクを着けてから、一人で街へ出た。
これまでの外出には、必ず理由があった。ソラの散歩か、天野の指示か。
今日は、そのどちらでもなかった。
急ぐ理由もない。ショッピングモールという言葉だけを頼りに、アリアは大通り沿いを歩いた。
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休日のショッピングモールには、人が溢れていた。
自動ドアの前で、アリアは足を止めた。
「欲しいもの」がどこにあるのか。何のフロア表示を頼りにすればいいのか。判断する材料がなかった。
行き先の分からないまま、人の流れに押されるように、アリアは中へ足を踏み入れた。
空調の効いた空気と、幾つもの香水売り場の匂いが入り混じって流れてくる。BGMと、雑多な話し声。エスカレーターの稼働音。
研究施設のスタジオとも、天野の家のリビングとも違う、密度の高い空気だった。
案内所の前に、受付用の機体が立っていた。
人と同じ背丈で、腕も脚もある。それでも、頬から額にかけての表面には継ぎ目が走り、光の当たり方で色が変わった。
近くの子どもが顔を覗き込んだ。機体は瞬きをしなかった。子どもはすぐに興味を失い、母親の方へ駆けていった。
アリアはマスクの上から、自分の頬に触れた。
この顔は、人の心を動かすために作られている。あの機体の顔は、そのためではない。ただ、それだけの違いだった。
笑い合いながら歩く学生たち。手を繋いで歩く恋人たち。ベビーカーを押しながら、疲れた顔で欠伸をしている父親もいた。誰もが、当たり前のように誰かと時間を共有している。
アパレルフロアを歩いていると、鏡の前で服を何着も体に当てている女性がいた。一枚を戻しては、また別の一枚を手に取る。少し先でも、親子連れが同じように服を選びながら、何か言葉を交わしては笑い合っていた。
アリアには、人々がなぜそこまで時間をかけて服を選ぶのか、理解できなかった。
棚の上に、季節が変わることを知らせる札が下がっている。厚手の生地が並び始めていた。
あるショーウィンドウの前で、足が止まった。
一着の白いコートが飾られている。
理由は分からない。ただ、視線がそこから動かなかった。
どれくらい、そうしていたのか。分からないまま、視線だけがそこに留まり続けた。
「よかったら、試着してみませんか」
声をかけてきたのは、近くにいた店員だった。戸惑うアリアだったが、半ば導かれるようにして試着室へ案内される。
「同じ形で、黒や紺もございますよ」
店員が並べた色見本を、アリアはひとつずつ見比べた。どれも同じ形、同じ生地のはずだった。
それでも、指先が触れたのは、白だけだった。
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手渡されたコートは、見た目より軽かった。袖を通すと、裏地が肌に沿って滑る感触があった。研究施設で扱ってきたどの素材とも違う、柔らかく、頼りない手触りだった。
誰もいない試着室の中で、アリアは着ていた服を脱ぎ、マスクも外した。
コートを羽織り、鏡の前に立つ。
そこに映っていたのは、いつも見ているはずの自分だった。ウィッグの長い黒髪。白い肌。人間と見分けのつかない、精巧に作られた顔。
それなのに、白いコートを纏っただけで、いつもとは少し違う何かに見えた。
何が違うのかを、アリアは確かめようとした。輪郭も、色も、鏡までの距離も変わっていない。変わったのは、身につけているものだけだった。
それでも、同じには見えなかった。
カーテンを開けると、店員が待っていた。
「すごく、お似合いです」
「……そうですか」
それ以上、言葉は続かなかった。ただ、試着室の鏡へ視線を戻すと、そこに映る自分から目を離せずにいた。
気づけば、アリアはレジへと足を向けていた。
「よろしければ、そのままお召しになって行かれますか」
数秒考えたあと、アリアは小さく頷いた。脱いだ服は、店員が丁寧に畳んで紙袋に入れてくれた。
会計を担当していたのは、人型の機体だった。合計金額を告げる声に、抑揚はほとんどない。案内所で見たものと、同じ表面をしていた。
袖の中の腕には、まだ生地の感触があった。
店を出る前に、アリアはマスクを着け直した。
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帰り道、日が傾き始めた住宅街を歩きながら、アリアは何度か袖口に触れて確かめた。
夕暮れ時、新しい服のまま帰宅したアリアを見て、天野は少し目を見開いた。それから、何か思うところがあるように黙って見つめる。
「……よく似合ってるよ」
それだけだった。なぜ買ったのかも、なぜ白なのかも、天野は尋ねなかった。
窓辺から、ソラが立ち上がった。
ゆっくりと歩いてきて、アリアの足元で止まる。それから、コートの裾に鼻を近づけた。
しばらく嗅いでいた。初めてこの家に来た日より、長かった。
やがて顔を上げ、また窓辺へ戻っていく。
アリアは自分の袖口を見た。店の匂いが、まだ残っている。
この体には匂いがない。今日だけは、違った。
玄関の姿見に映る自分を、アリアは見つめていた。理由は、まだ言葉にならなかった。
それでも、胸の奥に、小さく波打つような、名前のない何かがあった。
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その夜、天野は自室で端末を開いていた。
実地検証記録の欄に、その日の項目を書き込んでいく。外出時刻、帰宅時刻、所持金の使用額。
備考の欄で、指が止まった。
しばらく考えてから、天野は打ち込んだ。
――選択行動を確認。有用性以外の基準による判断と推定される。継続観察を要する。
保存の操作をして、画面を閉じた。
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次の配信の日、アリアはいつもの衣装ではなく、あの白いコートを羽織ってスタジオに立った。
支度を終えたアリアの姿を見て、天野は何か言いかけた。けれど結局、何も言わずに、いつも通りコントロールルームへ向かった。
コントロールルームには、先客がいた。
黒瀬が、壁際の椅子に座っている。膝の上に端末を開いたまま、ガラスの向こうへ視線を向けていた。
「定期の確認です」
天野は自分の席に着いた。
「聞いていないが」
「同席の届出は、当日で足ります」
それだけだった。黒瀬はもう、こちらを見ていなかった。
⸻
マイクの前で、アリアはいつも通りに歌い始めた。選曲も、発声も、変えたところはない。
歌い終えて一礼した後、コメント欄に、いつもと違う反応が流れた。
「今日の衣装、可愛い」
「イメチェンした?」
その二つに混じって、別の一行があった。
「なんか、今日の歌よかった」
アリアは自分の発声ログを開いた。
音程、リズム、声帯振動の解析値。どの数値も、設計段階で定められた理想値と一致している。前回の配信とも、その前とも、差はなかった。
衣装が変わった。それだけだった。
聴いている側の判断が、衣装によって変わったのだと考えれば、説明はつく。人はそういう影響を受ける。資料にもそう書かれていた。
その説明を、アリアは一度組み立てた。
もう一度、ログを開いた。数値を、最初から読み直した。
結果は同じだった。何も、変わっていない。
説明はついていた。
それでも、アリアはログを閉じなかった。
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コントロールルームの向こうで、天野が機材のモニターを見つめていた。その手元は、しばらく動かなかった。
黒瀬は、端末に何かを打ち込んでいた。
「衣装の変更は、指示ですか」
天野は画面から目を離さなかった。
「本人が選んだ」
「選んだ、というのは」
「街に出して、好きなものを買ってこいと言った。それを着てきた」
黒瀬の手が止まった。
「服装の選択は、報告項目に入っていません」
「ああ」
「入れるべきかどうかを、判断する必要があります」
黒瀬は端末を閉じた。それから立ち上がり、扉の方へ向かう。
「一つだけ、伺っても」
天野は振り返らなかった。
「なぜ、白なんでしょうね」
答えは返ってこなかった。黒瀬はそれ以上待たずに、部屋を出ていった。




