第2章「花を愛する理由」
リードを受け取った翌朝、アリアは初めてソラの散歩に出ることになった。
部屋の鏡の前で、長袖と長いズボンを身につけ、手袋を嵌める。首元をストールで覆い、最後に黒髪のウィッグを被ってマスクを着けた。
前の晩、天野から告げられた通りの手順だった。
「外に出るときは、必ずこれを身につけてくれ」
機械の継ぎ目を人の目に触れさせないため。そして、素顔を誰にも気づかれないため。
アリアは鏡に映る自分の姿を確認した。指示された通りに整っていることを確かめてから、階段を下りた。
玄関には、ソラが先に立っていた。
昨夜、天野がリードを取り出した時から、ソラはそれを見ていた。今も、リードを持つアリアの手のあたりを見上げている。
金具を首輪に留め終わる前に、ソラはもう扉の方へ体を向けていた。
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決まった時刻に外へ出て、天野に教えられた通りの道を歩く。歩くという行為そのものに、目的以上の意味を見出す必要はなかった。
朝の空気には、土の湿り気と、通りの先にあるパン屋の匂いが混じっていた。塀の影が道の半分近くまで伸びている。どこかで蝉が一匹、鳴き始めていた。
日傘を差した人が、向かいの歩道を歩いていた。すれ違う時、一度だけこちらを見る。それから、また前を向いて歩いていった。
アリアは自分の袖口を見た。手袋との境に、隙間はない。指示された通りだった。
配達ロボットが一台、車輪で滑るように反対方向から進んできた。顔はなく、荷物を抱えるための腕が二本ついているだけの機体だった。塗装は褪せている。道行く人々も、誰も気に留めなかった。
側溝の縁に、青い小さな花が咲いていた。アスファルトと縁石の隙間。土の溜まった細い帯に沿って、いくつも群れている。
アリアはそこを歩いた。
足の裏で、茎が潰れる感触があった。柔らかく、抵抗はほとんどない。一歩ごとに、いくつかが倒れていった。
途中、ソラが急に立ち止まった。塀の角に鼻先を寄せたまま動かない。何かの匂いを追っているようだった。
リードを軽く引いても、耳を一度動かしただけで、鼻先はそこから離れなかった。
引っ張るべきなのか、待つべきなのか。アリアには判断がつかなかった。
結局、ソラが自分から顔を上げるまで、二分ほどその場に立っていた。
少し歩いた先で、ソラはまた足を止めた。二本目の電柱の下だった。
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そうして角を二つほど曲がった先に、その家はあった。
小さな一戸建ての、道路に面した庭先に、丈の低い花壇がある。
膝の高さほどまで伸びた緑の茎が、細かく分かれた葉をつけている。地植えのものも鉢植えのものも入り交じって並んでいた。
花は、一つもなかった。茎の先の方に、小さく閉じた蕾がいくつか見えるだけだった。
その花壇の前で、女性がしゃがみ込んでいた。
麦わら帽子の下から覗く髪には、白いものが多く交じっている。土で汚れた軍手をした手が、株の根元で動いていた。
細い棒を土に挿し、紐で茎を留めていく。留め終わると、次の株へ移る。
アリアは足を止めた。
一本ずつだった。茎を握らず、支えるように添えている。壊さないための動作だと、アリアには分かった。
何を壊さないようにしているのか。
まだ、何も咲いていない。
アリアは手を伸ばした。
花壇の縁にある一本に、指先が触れる。手袋越しでも、ほとんど重さを感じなかった。
先端に、閉じたままの蕾がついている。指の腹で押すと、硬く小さな塊がわずかに沈んだ。指を下ろすと、水を含んだ細い茎があった。
どの程度で壊れるのか。
アリアは、力を入れた。
折れた。
抵抗はほとんどなかった。蕾のついた先が、茎の途中から垂れ下がる。折れた断面から、透明な液体がわずかに滲んだ。
分かったのは、それだけだった。
足元で、ソラが座り込んだ。
アリアは視線を落とした。ソラは進もうとしていない。地面に鼻を寄せるでもなく、ただそこに座って、庭の方を見ていた。
「あら」
女性が顔を上げていた。それから、視線が花壇の縁へ移る。
しゃがんだ姿勢から立ち上がる仕草にも、じっくりと時間をかけていた。軍手を外した手には、長年花を触ってきた者特有の、節くれだった指があった。
女性は折れた茎の前で立ち止まり、それを見ていた。その表情には、微かな悲しみのようなものが浮かんでいた。
この庭には、同じ株が数十本ある。一本が失われても、残りに影響はない。
アリアはその表情を数秒ほど観察してから、尋ねた。
「なぜ植物を大切にするのですか」
女性は驚いた様子もなく答えた。
「綺麗だからかな」
アリアは、花壇を見た。
「まだ、咲いていません」
女性は、少し笑った。
「そのうち咲くのよ」
「食料にもなりません。利益も生みません。なぜ時間を使って世話をするのですか」
女性は顔を上げ、少し困ったように微笑んだ。それから、土のついた指先で、垂れ下がった蕾をそっと支えた。
「役に立つから、じゃないのよ」
そう言ったきり、女性は黙り込んだ。
「……うまく言えないけどね」
それから、折れた茎を根元の近くで切り取り、脇に置いた。切り口の跡が、株の途中に残った。
「昔から、育ててるのよ」
それだけだった。それ以上の説明はなく、女性はもうこちらを見ていなかった。
アリアは切り取られた茎を見つめたまま、動かなかった。
ソラが立ち上がり、リードが張った。
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帰り道、同じ場所を通った。
陽が高くなっていた。塀の影は短くなり、アスファルトが熱を持ち始めている。ソラは日の当たらない側を選んで歩いた。
側溝の縁を見ると、踏んだ場所だけ、茎が地面に倒れていた。
花は、まだ開いたままだった。
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その夜、リビングの明かりの下で、アリアは天野に尋ねた。
昼間の女性の言葉が、まだ残っていた。綺麗だから、と彼女は言った。まだ咲いてもいないものについて、そう言った。
「綺麗とは何ですか」
天野は読んでいた本から顔を上げた。
「人によって違うだろうな」
何か言い足そうとして、口を開く。その一瞬、視線が宙の一点で止まった。
けれど言葉にはならず、口は閉じられた。少し考えたあと、窓の外へ目をやる。
「……難しいな」
結局、それ以上のことは言わなかった。本のページに視線を戻したが、それきりめくる音は聞こえてこなかった。
窓辺では、ソラが外を見ていた。日が落ちてから、もう何も見えないはずだった。
アリアはその背中を、黙って見つめていた。
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翌朝も、アリアは同じ道を歩いた。
建物の影は、昨日とは違う場所に落ちていた。集積所に出されたゴミ袋の脇で、カラスが二羽、何かをつついている。
ソラが一度だけそちらへ短く吠えた。けれど興味を失ったようにすぐ視線を戻し、そのまま歩き続けた。
側溝の縁には、また青い花が咲いていた。
昨日踏んだ茎は、倒れたまま乾いている。その脇に、別のものが開いていた。
踏まれなかった花も、しぼんで小さな塊になっていた。色の抜けたものが、茎の先に残っている。
一日で終わる花だと、アリアは判別した。
アリアはそこを歩いた。茎が潰れる感触が、足の裏に返ってきた。
花壇のある家が見えてくる頃、女性は庭先で、しおれた葉を一枚ずつ丁寧に摘み取っていた。アリアに気づくと、軍手をはめたままの手を小さく振る。アリアも、小さく頭を下げた。
「今日は、風が気持ちいいわね」
女性はそれだけ言うと、また作業に戻った。返事を期待しているふうでもなかった。
昨日折れた蕾は、なくなっていた。切り口の跡だけが、茎の途中に残っている。
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同じ道を、毎朝歩いた。
蝉の数は日ごとに増えていった。四日目には、一匹だったものが、通り全体で鳴くようになっていた。
ソラの止まる場所は、だいたい決まっていた。塀の角、二本目の電柱、集積所の手前。順番も変わらない。
理由は分からなかったので、アリアは待った。待てば、ソラはまた歩き出した。
一週間が過ぎる頃には、ソラが立ち止まるより先に、アリアの足が止まるようになっていた。
女性は、いつも庭先にいた。棒はすべて立ち終わり、茎はまっすぐ上を向いている。それでも、花は咲かなかった。
ある朝、女性は茎の先を摘んでいた。
指先で先端をつまみ、少し力を入れる。小さな音がして、先が離れる。摘んだものを脇に置く。それからまた、次の一本に手を伸ばす。
置かれたものが、少しずつ増えていった。捨てるでもなく、まとめるでもなく、ただ横に並べてある。
アリアはその手つきを見ていた。
同じ動作だった。自分がしたのと、力の入れ方も、離れ方も変わらない。
女性が顔を上げる前に、歩き出した。
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花壇の前を通り過ぎ、少し歩いた先の電柱のそばに、人が立っていた。
女性だった。年齢は三十代半ばだろうか。書類の入った鞄を提げ、機構の身分証を首から下げている。感情の起伏を表に出さない、事務的な佇まいをしていた。
視線は、すでにアリアの方へ向けられていた。こちらが気づくより前から、そこに立っていたことになる。
「アリアさんですね」
アリアは足を止めた。
マスクとウィッグで顔は隠れている。それでも、相手は名前を呼んだ。
「黒瀬といいます。倫理審査部門の調査官です」
黒瀬は身分証をこちらに向けた。所属も、発行元も、機構のものだった。
「実地検証の期間中、定期的に確認に伺うことになっています」
それから、ソラへ軽く視線を落とした。
「散歩ですか」
「はい。指示を受けています」
黒瀬は小さく頷いた。
「同じ道を、同じ時間に歩いているんですね」
それは質問ではなかった。確かめるでもなく、責めるでもない。ただ事実を口にしただけの声だった。
黒瀬の視線が、一度だけアリアの首元へ動いた。ストールの結び目のあたりで止まり、すぐに離れた。
「……何か、気づいたことはありますか」
アリアは答えられなかった。
黒瀬はそれ以上待つこともなく、軽く会釈をして、脇を通り過ぎていった。振り返ることはなかった。
アリアはその後ろ姿を見送ってから、再びソラのリードを引いて歩き出した。
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帰り道、側溝の縁に差しかかったところで、足が止まった。
止めようとしたわけではなかった。それでも、次の一歩が出なかった。
アリアは自分の足元を見た。青い花が、朝と同じ場所に咲いている。
半歩、右にずれた。
花のない、乾いたアスファルトの上に足を置く。そのまま数歩進んで、また元の経路に戻った。
道は、少しだけ長くなった。
アリアは立ち止まり、振り返った。誰もいなかった。
命令されたからでもなく、プログラムされた行動でもない。この花は、今日のうちに終わる。踏んでも、踏まなくても、明日には別の花が開く。
それでも、アリアの足は花を避けていた。
理由を尋ねられれば、答えられなかっただろう。ただ、踏みたくない、という感覚だけが、そこにあった。
ソラが、リードの先で待っていた。
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家に着くと、天野はリビングの机で書類を見ていた。
「どうだった」
「異常はありません」
天野は頷いた。
「調査官の方に会いました。黒瀬という人です」
天野の手が、一度止まった。
「どこで」
「道です。花壇の先の、電柱のところで待っていました」
天野はしばらく何も言わなかった。それから、書類に視線を戻す。一番上の紙の日付の欄を、しばらく見ていた。
「まだ、七ヶ月以上あるな」
独り言のような声だった。
実地検証の期間は、最初に定められている。開始日と、終了予定日。その後どうなるかは、書類のどこにも書かれていない。
アリアは一度探して、見つけられなかった。
「散歩、続けてくれ」
「はい」
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リードを片付ける頃には、ソラはもう窓辺で丸くなっていた。
アリアは、帰り道のことを考えていた。
なぜ、あの花を踏みたくないと思ったのか。
ソラが、小さく鼻を鳴らす。
アリアはその音の方を、しばらく見ていた。




