第1章「帰りを待つ犬」
車が停まったのは、郊外の一戸建ての前だった。門から玄関までは数歩しかない。塀の内側には、手入れのされていない植木がいくつか植わっている。七月の陽は、この時刻になってもまだ明るく、西側の壁を白く照らしていた。
引っ越しの荷物は、驚くほど少なかった。段ボール一つ分にも満たない私物を抱え、アリアは天野の家の玄関をくぐった。
靴を脱いで上がると、すぐリビングだった。
研究施設のどの部屋とも違っていた。狭く、そして雑然としている。本棚には背表紙の色あせた本が並び、床には読みかけらしい新聞が畳まれずに置かれていた。人が実際に暮らしている場所特有の匂い――埃と木材の匂いが混じったものが、アリアの感覚素子をかすかに刺激した。
アリアは部屋を見渡した。
掃除機が部屋の隅に立てかけてある。柄のついた、手で押す型のものだった。台所には洗い桶があり、水切りかごに皿が伏せてある。
街には、配達も清掃も引き受ける機体がいる。研究施設の通路にもいた。
この家には、家事を担う機体が一台もなかった。
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窓辺に、一匹の老犬がいた。
柴犬に似た雑種の中型犬で、薄茶色の毛並みには、年齢のせいか所々白いものが混じっている。血統種のようにピンと立つことのない、生まれつき垂れた耳をしていた。
犬は一度だけ振り返った。それから立ち上がり、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
アリアの足元まで来ると、鼻を近づけた。膝の高さ、手の先。順に嗅いでいく。
アリアは動かなかった。何をされているのかは理解できた。判別のための行動だった。
犬は数秒でそれをやめた。顔を上げることもなく向きを変え、また窓辺へ戻っていく。そこで丸くなり、外へ視線を向けた。
アリアの体に、匂いはない。
その背中をしばらく観察してから、天野に尋ねた。
「彼は、なぜあの場所から離れないのですか」
「ある人の帰りを待っているんだ」
天野は鞄を下ろしながら答えた。
アリアは、もう一度その犬を見た。
外には、誰もいない。
それでも、犬は窓から目を離さなかった。
「毎日、決まった時間になると、ああして外を眺めているんだ」
棚の上に、写真立てがあった。若い頃の天野と、今より幾分毛艶のよい犬。そして、一人の女性が写っている。
「この方は」
天野は写真立てに手を伸ばし、指先でその表面をなぞった。
「……妻だよ」
天野の声は、思いのほか平静だった。それでも、写真に向けられた視線は、すぐには離れなかった。
「二年前、交通事故で亡くなったんだ」
アリアは窓辺の犬に視線を戻した。
「彼が待っているのは、この女性でしょうか」
「その通りだよ」
天野は写真立てを元の場所へ戻した。
「ソラも、妻が拾ってきたんだ。捨てられて、随分弱っていてね」
しばらく、誰も口を開かなかった。窓辺で、ソラが一度だけ体の位置を変えた。
やがてアリアは、問いを重ねた。
「戻らない人を、待ち続ける意味はあるのでしょうか」
天野は窓の外を見つめるソラに目をやった。
「意味じゃないんだよ」
少し間を置いてから、続ける。
「でも、大切だから、待っているんだと思う」
「理解できません」
アリアは正直にそう答えた。窓辺では、ソラが変わらず外を見つめていた。
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部屋を案内された。
二階に上がってすぐの部屋が、アリアに割り当てられた。物のない部屋だった。机と、椅子と、使われていない棚がある。窓からは、庭の隅が見えた。
廊下には、扉がもう二つあった。天野は手前の一つを指した。
「俺の部屋だ」
突き当たりの扉には、触れなかった。
「そっちは使ってない」
それだけ言って、階段を下りていった。
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夕食の支度が始まった。
包丁がまな板に当たる音が、廊下越しに規則正しく響いている。アリアはリビングに残り、窓辺のソラを観察していた。
時折、その音が止まる。少しして、また始まる。
アリアは部屋の中を見た。
テーブルの脚元に、古い爪の跡があった。
壁際の食器棚には、同じ形の茶碗が二つ並んでいる。片方だけ、縁に薄く色が移っていた。
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夕食が運ばれてきた。
天野は自分の分をテーブルに置き、それから小さな器をもう一つ持ってきた。中には、犬用の餌が入っている。
「明日から、これを頼む」
アリアは器を受け取った。
「量は」
「そこに線がある。それより少し上まで」
器の内側に、細い線が引かれていた。引かれてから時間が経っているらしく、擦れて薄くなっている。
天野が台所から小さな瓶を持ってきて、中身を一つ、器に落とした。
アリアはそれを窓辺の近くに置いた。
ソラは動かなかった。顔をこちらへ向けることもない。
「食べません」
「そのうち食べる」
天野は箸を持ったまま、そう言った。それから、名前を呼んだ。
ソラは立ち上がり、器のところまで歩いてきた。少し匂いを嗅いでから、食べ始める。
アリアはその様子を見ていた。自分が置いた時と、器の位置は変わっていない。中身も同じだった。
変わったのは、天野が名前を呼んだことだけだった。
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夕食の後、天野は棚の奥から古びたリードを取り出した。
手に取ったところで、一瞬だけ動きが止まる。それから何かを振り払うように、アリアへ差し出した。
「散歩も、明日から頼みたい」
アリアはリードと天野の顔を交互に見た。
「目的を教えてください」
「健康のためでもある」
天野は少し笑った。そして、言葉を選ぶように間を置いてから続けた。
「でも、それだけじゃない。人間を知るためには、人間と同じ時間を過ごさなきゃいけない」
「散歩によって、人間を理解できるのですか」
天野は苦笑いを浮かべ、視線をソラに落とした。
「さあ、どうだろうな。ただ、外を歩けば、何か目に入るだろう」
ソラはゆっくりと振り返り、小さく尻尾を揺らした。
アリアは黙ってリードを受け取る。手のひらに触れる革の感触は、これまで扱ってきたどの機材とも違う、頼りない柔らかさをしていた。
握った部分の革が、他より薄くなっている。誰かが同じ場所を握り続けた跡だった。
「八ヶ月の間に、何をすればいいのですか」
天野は答えるまでに、少し時間をかけた。
「……犬の世話と、散歩だ」
「それだけですか」
「今のところは」
天野は自分の手元を見ていた。
「あとは、追って決める」
アリアはその言葉を保存した。追って、がいつなのかは示されなかった。
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二階の部屋で、アリアは椅子に座っていた。
明日の朝までに、実行すべき指示はなかった。
窓の外は暗い。庭の隅は、輪郭も分からなかった。
廊下で、扉の閉まる音がした。それきり、二階は静かになった。
しばらくして、下の階で床の軋む音がした。
爪が板に当たる、乾いた音が続く。何歩か歩いて、止まる。また、少し動く。
アリアは立ち上がった。
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リビングの明かりは落とされていた。窓辺には変わらず、外を見つめるソラの姿があった。
アリアはその背中を見つめていた。やがて、そっと隣に腰を下ろし、ソラと同じ方向――窓の外の暗がりに目を向けた。
外灯の光が、門の前の路面を照らしている。人は通らなかった。
言葉はなかった。
理由も、まだ分からなかった。
それでも、ソラの隣で、アリアは座り続けていた。




