後篇 月の姫伝説
たくさんの小説の中から選んでいただきありがとうございます。
やがて、王子とアミラは悲鳴を上げることすらできなくなり、宙で小刻みに震えていた。
ルナエは二人を大広間の中央まで引き寄せると、そのまま床へ放り出した。
近衛兵たちは見えない障壁を前に足止めされ、誰一人として近づけない。
会場には、張り詰めた沈黙だけが広がっている。
「……障壁」
誰かが、かすれた声で呟いた。
白髪交じりの老魔導士――魔法省技術局長、オルドリックである。
彼は信じられないものを見るように、ルナエの周囲を見つめていた。
「詠唱も……魔法陣もない。それどころか、あれほどの規模の障壁を維持しながら、浮遊魔法を同時に……」
額から汗が伝う。
「あり得ない……」
隣にいた若い貴族が首を傾げる。
「局長、そんなにすごいことなのですか?」
「近衛が束になっても傷一つ付けられん障壁。
しかも、展開したまま別系統の魔法をいくつも制御している!」
魔法は、一つ扱うだけでも高い集中力を要する。
ましてこれほどの大規模障壁を維持しながら、精密な浮遊制御までルナエは何事もないかのようにやってのけている。
常識ではとても考えられなかった。
若い貴族にそう応えながら、オルドリックは乾いた唇を震わせた。
一つだけ、確かめなければならないことがあった。
「ルナエ嬢……」
彼は震える声で問い掛ける。
「もしや、王城の障壁を解除されたのですか……?」
ルナエは静かに首を横へ振った。
「ええ。先ほど繋がりを解除いたしました」
その一言を聞いた瞬間、オルドリックは力が抜けたように膝をついた。
「やはり……」
オルドリックは膝をついたまま、静かに目を閉じた。
周囲の貴族たちは顔を見合わせる。
「どういうことだ?」
「何が分かったのだ?」
老魔導士は震える声で答えた。
「王城には、王都とは別系統の防護障壁が張られております。
代々、王家直属の魔導士が維持してきた結界です」
そこで言葉を切る。
「ですが近年、その障壁は、ただ一人の魔導士が維持してきました。」
広間が静まり返る。
「その魔導士が……」
老魔導士はルナエを見た。
「ルナエ嬢です」
どよめきが起こる。
王子も、床に這いつくばったままようやく顔を上げた。
「う、嘘だ……」
「嘘ではありません」
答えたのはルナエだった。
「王城の障壁は、私個人の魔力で維持しておりました。
ですので、解除すれば、この程度の魔法を使う余力は生まれます」
まるで当然のことを話すような口調だった。
「それだけではありません」
オルドリックは苦々しく目を閉じた。
「王都を囲む防壁都市の魔法障壁も、本来は複数の魔導士が交代で魔力を補充し、維持する仕組みです」
ゆっくりと、プリンキピッサ魔法伯へ視線を向ける。
「ですが近年、その実務はほぼルナエ嬢が一人で担っておりました。
魔力の補充、維持記録の管理、魔法省との調整――魔法伯閣下が担うべき仕事の大半です」
会場中の視線が一斉に魔法伯へ集まる。
魔法伯は青ざめたまま、何一つ言い返せなかった。
魔法伯閣下が実務に携わる姿を、私はほとんど見たことがありません」
重い沈黙が流れる。
それは噂ではなく、長年現場を見てきた責任者の証言なだけに、疑いようもない。
ルナエは静かに息を吐いた。
「だから申し上げたではありませんか」
その声には怒りよりも、諦めの方が色濃く滲んでいた。
「私は忙しかったのです」
窓から差し込む満月の光だけが、静かにルナエの横顔を照らしていた。
王城の大広間には、誰一人として声を発する者がいなかった。
先ほどまでルナエへ向けられていた冷ややかな視線は消え失せ、代わりに戸惑いと動揺が広がっている。
その静寂を破ったのは、玉座へ続く扉が開く音だった。
「陛下のおなりです」
近衛騎士の声とともに、国王と王妃が姿を現す。
二人は急ぎ足で広間へ入ると、まず目に飛び込んできた光景に言葉を失った。
床にへたり込んだまま青ざめる第一王子。その傍らで震えるアミラ。
二人ともほとんど半裸状態で、全身落書きだらけ。涙と失禁にまみれて、見られた状態ではない。
そして、二人を隔てるように静かに立つルナエ。
「これは……一体、何があった?」
国王の問いに答えたのは、オルドリックだった。
彼は国王へ一礼すると、婚約破棄が宣言されてからの出来事を順を追って説明した。
第一王子がルナエへ一方的な嫌疑を掛け、証拠も示さぬまま刑を言い渡そうとしたこと。
その嫌疑は、ルナエがすでに学園を卒業していた事実によって成り立たず、王子妃教育と称されていたものの実態が、王妃や国王の公務、さらには王都と王城の魔法障壁の維持にまで及んでいたこと。
話を聞き終えた国王の顔から血の気が引いていく。
「……本当なのか」
問い掛けられたルナエは、小さく頷いた。
「事実です」
「では、王城の障壁も……」
「つながりは解除しております。あとしばらくで消えるでしょう」
その答えに、国王は思わず息を呑んだ。王城を守る障壁は、長い歴史の中でも途切れたことがない。
だからこそ、それが誰によって維持されているのかを深く考えた者はいなかった。
あるのが当たり前――
失われることなど、誰も想像していなかったのである。
王妃が一歩前へ出る。
「ルナエさん――」
その呼びかけは、以前のような命令ではなく、どこか懇願にも似た響きを帯びていた。
「これまであなたに負担を掛け続けてきたことは、認めます。
あなたにばかり重責を背負わせていたことは、確かに私どもの落ち度でした」
王妃は一度言葉を切り、まっすぐルナエを見つめた。
「それでも、お願いです。
どうか、この国を見捨てないでください。この国には、あなたが必要なのです」
王妃の言葉に、否定する者はいなかった。
先ほどまで彼女を非難していた者たちでさえ、今は引き留めるべきだと考えている。
しかし、ルナエはゆっくりと首を横へ振った。
「もう、遅いのです」
その穏やかな口調は、かえって決意の固さを際立たせていた。
「私は幼い頃から、この国のために力を尽くしてまいりました」
魔法伯家の実務を担い、王都を守る障壁へ魔力を注ぎ、王城の結界を維持し続けた。
その傍ら、王子妃教育という名目で公務まで任され、求められるまま働きいてきた。
「けれど、誰一人として私を労うことも、疲れ切っている理由を尋ねることすらありませんでした」
誰も、その重責を分かち合おうとはしなかった。 仕事は当然のようにルナエへ集まり、それを疑問に思う者もまた、いなかった。
「今日、ここへ来て、私の決心は固まりました」
そう言って、ルナエは静かに夜空を見上げた。
大きな満月が、王城の上空で静かに輝いている。
「私は、この国を去ります」
その瞬間だった――
満月がひときわ強く輝いたかと思うと、その光がルナエだけを照らした。
柔らかな銀色の光が彼女を包み込み、その衣装がゆっくりと姿を変えていく。
深い紺色の礼装は淡い月光色へ染まり、無数の星を散りばめたような優美なドレスへと変わった。
長い髪は風もないのにふわりと揺れ、月の光を受けて宝石のように輝く。
広間の誰もが、その光景に息を呑んだ。
やがて夜空の彼方から、鈴の音にも似た澄んだ響きが聞こえてくる。
月の方角から、一台の白銀の馬車がゆっくりと姿を現した。
馬車を牽くのは、純白の翼を持つ四頭の天馬。
その周囲には、銀の鎧をまとった騎士たちが整然と付き従っている。
王城の上空まで降りてきた馬車が静かに止まると、一人の騎士が胸に手を当て、深く一礼した。
「姫殿下、お迎えに上がりました」
ルナエは穏やかに微笑み返す。
「少し待たせてしまいましたね」
「お帰りを、皆が心待ちにしております」
ルナエは最後にもう一度だけ王城を振り返った。
「さようなら」
その一言には恨みも怒りもなかった。
ただ、長い務めを終えた人だけが見せる、穏やかな安堵が込められているようだった。
そして彼女は白銀の馬車へ乗り込んだ。
四頭の天馬が翼を広げる。
白銀の馬車は月光の中をゆっくりと舞い上がり、やがて満月の光へ溶け込むように夜空から姿を消した。
誰一人として言葉を発することはできなかった。
王城のバルコニーに集った者たちは、ただ呆然と空を見上げている。
先ほどまで、この場にいたはずの一人の令嬢。
まるで月が迎えに来ることが定められていたかのように、その姿は夜空の彼方へ消えていった。
「……ルナエ」
国王は小さくその名を呼んだ。
返事はない。
夜空には満月だけが浮かんでいた。
誰も動けなかった。
やがて――その静寂を破ったのは、見張り台から響く警鐘だった。
「陛下!」
一人の近衛騎士が血相を変えて駆け込んでくる。
「どうした!」
「王城の障壁が……消失しました!」
その報告に、オルドリックが弾かれたように顔を上げた。
「ああっ、とうとう……」
彼は慌てて窓辺へ駆け寄る。
夜空を見上げると、これまで王城を淡く包み込んでいた薄い光の膜が、跡形もなく消えていた。
夜空を覆っていた淡い光の膜は、もうどこにもなかった。
「本当に……消失したのか」
その呟きは、誰に向けたものでもなかった。
王都を囲む防壁の障壁は、なお機能している。
だが、その維持には定期的な魔力の補充が欠かせない。
これまで毎月欠かさず行われていた魔力の充填が、誰によって行われていたのか。
その答えを、この場にいる誰もが思い知ってしまった。
国王はゆっくりと第一王子へ視線を向けた。
王子は濡れた礼服のまま床へ座り込み、青ざめた顔で震えている。
「父上……」
か細い声だった。
「私は……そんなこと……」
「知らなかった、と言うつもりか」
国王の声に、怒鳴りつけるような激しさはなかった。
その代わり、深い失望が滲んでいた。
「お前は婚約者が何をしているのか、一度でも尋ねたことはあったか」
王子は口を開きかけたが、何も言えなかった。
「疲れている理由を考えたことは」
王子は視線を落とす。
「夜会へ姿を見せなくなった理由を知ろうとしたことは」
答えは返らない。
国王は静かに目を閉じた。
「……余は、王城を守る障壁も、公務が滞りなく回ることも、当たり前だと思っていた」
それを一人の少女が支えていたなどと、今日まで考えたことさえなかった。
オルドリックが国王へ歩み寄る。
「陛下――」
「申せ」
「王都の障壁につきましては、直ちに各地の魔導士を招集いたします。しかし……」
彼は言葉を選ぶように息をつく。
「一人で維持できる者は、おりません」
「複数人で魔力を持ち寄れば維持は可能でしょう。ただ、これまでと同じ体制に戻すには、相当の時間が必要になります」
国王は黙って頷いた。
失われたものは、もはや一人の魔導士だけではない。 この国は、自ら支えを手放したのである。
後年、この夜は王国の歴史書にこう記されることになる。
『月の姫が国を去った夜』と。
そして、この日を境に王国は国力を急速に衰えさせ、第一王子は王位継承権を剥奪された。
アミラは冤罪事件への関与を問われて裁きを受け、プリンキピッサ魔法伯もまた、長年にわたり実務を放棄していた責任を免れることはできなかった。
三人はいずれも強制的な魔力搾取の刑に処された。
栄華を誇った王国は、二度と以前の姿を取り戻すことはなく、やがて周辺諸国の影響を強く受けるようになっていく。
その始まりは、満月が美しく輝いた、あの夜だった。
◇
――あれから、十余年。
暖かな陽射しが差し込む酒場で、一人の老人が酒杯を傾けていた。
若い旅人たちは、道中の土産話を求めるように老人を囲んでいる。
「じいさん、その国はどうして滅びたんだい?」
老人は白い髭を撫でながら、小さく笑った。
「滅びたわけじゃないよ。今でも国はあるさ。ただ、昔のような勢いはなくなったというだけじゃ」
そう前置きしてから、窓の外へ目を向ける。
昼間だというのに、青い空には白い月が薄く浮かんでいた。
「わしが旅の途中、王国にいた頃の話じゃ。
満月の夜、一人の令嬢が王城から月へ帰っていった」
旅人たちは顔を見合わせる。
「月へ?」
「そんな馬鹿な」
「そう思うじゃろう」
老人は苦笑した。
「だからこそ、誰も信じなかった。いや、信じたくなかったのかもしれんな」
老人は静かに月を見上げる。
「月の姫に見限られ、あの国が見捨てられたという事実をな」
あの夜、王城の上空へ現れた白銀の馬車。
翼ある天馬と月の光をまとった騎士たち。
そして、月明かりの中へ消えていった一人の姫君。
その光景を見た者は少なくない。
それでも年月が流れるにつれ、「見間違いだった」「魔法を使った幻だった」と語る者が増え、やがて出来事そのものが作り話として扱われるようになった。
「そういえばな――」
老人は思い出したように言った。
「東の果てには、昔からよく似た伝説が伝わっておるそうじゃ」
「どんな話?」
「月から来た姫が、人の世で暮らした末に、迎えが来て月へ帰るという話じゃよ」
「へぇ……」
「なんていう姫なの?」
老人は少し考えてから答えた。
「確か……輝夜姫、と呼ばれておったかな」
若者たちは顔を見合わせると、揃って吹き出した。
「そんな話、あるわけないじゃないか」
「月から迎えなんて来るものか」
老人は否定もしなかった。
ただ、静かに笑うだけだった。
その話を、酒場の前を通りかかった一人の女性も耳にしていた。
月光を思わせる淡い銀色の髪を後ろで束ね、大きな荷物を肩に担いでいる。
女性は足を止めることなく、小さく肩をすくめた。
「そんなことあるわけないじゃない」
くすり、と笑う。
「月から迎えが来るだなんてね」
王城では「国を去る」としか口にしていない。 あれくらいの演出なら、ささやかな餞別のようなものだ。
長年働きづめだったのだ。 最後くらい、少しばかり格好をつけても罰は当たるまい。
誰に聞かせるでもない独り言を残すと、そのまま通りを歩いていく。
老人はその後ろ姿を眺め、ふと目を細めた。
「……いや」
酒杯を口元へ運びながら、小さく呟く。
「おとぎ話なんていうものは、その辺に転がってるもんじゃ。
案外、本当にあったことを語り継いでおるのかもしれんな」
女性は、その言葉が聞こえなかったかのように角を曲がり、やがて冒険者ギルドの扉を押し開けた。
「ルナエさん!」
受付嬢が明るい声を上げる。
「ちょうどよかったです。指名依頼が届いていますよ」
「またですか?」
ルナエは困ったように笑う。
「少し休暇を取ろうと思っていたのですが」
「残念でしたね」
受付嬢も笑いながら一枚の依頼書を差し出した。
「飛竜の群れが街道を占拠しているそうです。Sランク指定になります」
「……こりゃ、受けざるを得ないかな」
依頼書を受け取ったルナエは、ふっと肩の力を抜いた。
かつてのような重圧は、もうどこにもない。
誰かに命じられて働くのではなく、自分で受けたい依頼を選び、自分で休む日を決める。
そんな当たり前の毎日が、今の彼女には何よりも心地よかった。
「それでは、行って来るよ」
ギルドを出るルナエを、青空から柔らかな光が照らす。
昼の月が、静かに彼女を見送っていた。
ルナエは一度だけ空を見上げ、小さく微笑む。
そして前を向くと、軽やかな足取りで新たな依頼へ向かって歩き出した。
もう、振り返ることはない。
彼女には帰る場所があり、自由に生きることのできる未来があるのだから。
お読みいただきありがとうございました。
面白いと思われたら、ブックマーク、評価、リアクション等よろしくお願いします。
作者の励みになります。




