彼は立ち上がれない
着水する前に意識を失っていたらしい。
目が覚めると夜が更けたのか、辺りは暗闇だった。
背中がゴツゴツと痛い。砂利の上で寝ているのだろうか。冷たくはないので、水の中ではなさそうだ。
身じろぎをすると、体中に痛みが走った。
少しだけ、期待した。今までの事はすべて夢だったのではないかと。こんな命の危険があって、ショックで目が覚めたりはしないかと。
だが、夢ではないと思い知る。
動きを止め、痛みが治まるのを待つ。
鈍い痛みはまだあるが、動いた事による激しい痛みは少し収まった。
藤麻は再びまぶたを上げる。
ただの暗闇ではない。月のない夜空には満点の星があった。
だが、それを美しいと感じられるだけの、精神的余裕はない。
森の中で目覚めてから、ずっと本当は不安だった。状況のわからない現状で、それでも冷静でなければ生き残れないと、そう思ったから必死に平静を保っていた。
だけど、もう無理だ。
いやだ、いやだ、いやだ、
どうしてこんな事になった。
怖い、痛い、苦しい、寂しい。
どこかもわからない場所で、見た事もないバケモノが居て、冷静でなんて、居られる筈もない。
頭の中をグルグルと思考が回る。
もういやだ、もういやだ、こんな、
「助け…」
全てを投げ出す、他力本願な言葉がもれる。だが、もうそれが藤麻の本心だ。自分一人の力ではもう、帰るのはもちろん生きて行く事も出来そうもない。
泣いてしまいそうで、目をグッと閉じる。
と、体の右側を、何かがずりっと擦り上がる気配がした。
「っ!?」
ビクリと体が揺れ、再び鋭い痛みが体に走る。だがそれ以上に、そこに何が居るのかが恐ろしい。
あれが、あの蜘蛛の妖怪が、追いついて来たのだろうか。それともまた別の、バケモノか?
逃げようにも体は動かない。
それに、
逃がれたとして、どこへ?
頭に浮かんだ疑問に、体から力が抜ける。
逃げ場なんてない、この場所には、どこにも。
藤麻の体から力が抜けた事に気付いたのか、傍らの気配は少しづつ顔の方に近付いて来る。やがて頬へ、冷たい物が押し付けられた。
再び体が強ばりかけたが、この感触に覚えがあった。
昔家に居た犬が、藤麻を起しに来たときに押し付けられた鼻面と、同じ濡れた感触。そして獣の臭い。
野犬か狼か、犬型の化けものだろうか?蜘蛛に体内を溶かされ食べられるよりは、殺してから食べる犬系の方が有難い。
そんな事を考えていると、今度はザラザラと生暖かい物が頬を撫でる。
思わず視線をそちらに向けると、星明かりではよく見えないが、想像より小さな影がそこにはあった。
「ガゥ」
小さな唸りの後、聞き覚えのある不思議な鳴き声。
「きみ、か…」
昼間に会った、ライオンに似た獣の子供。
藤麻の視線に気付いたように、獣は再び頬を舐めると藤麻の傍らに丸くなる。昼間のお返しのつもりなのだろうか。
「ありがとう…」
藤麻は呟いた。声は酷く掠れていて、相手に届いたかはわからないけれど。
傍らの存在が酷く温かい。
藤麻は目を閉じる。
先ほどは堪えた涙が、一筋まなじりを濡らして落ちた。




