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第八話 明日のことばかり考えていた

 四月二十七日。


 朝から、俺は少し落ち着かなかった。

 理由は分かっている。

 黒い本だ。


 正確には、黒い本に書かれていた明日の項目。

 四月二十八日 知らない女に声をかけられた日。


 最初に目次でその文字を見た時は、良いことなのか悪いことなのか、よく分からなかった。

 福引で一等を引いた日。

 落とし物を届けて礼を受け取った日。


 こういうのは分かりやすい。

 良いことだ。


 雨で滑って転んだ日。

 財布をなくした日。


 これも分かりやすい。

 悪いことだ。


 けれど、知らない女に声をかけられた日、は違う。

 それだけでは判断できない。


 ただ、俺はすでにその章を少し読んでいた。

 昨日の夜、寝る前に。


 机の引き出しから黒い本を出して、何度も迷った末に、四月二十八日のページを開いた。

 そこには、こう書かれていた。


 ――四月二十八日。

 ――僕は駅前で、知らない女に声をかけられた。

 ――彼女は、見惚れるほど綺麗な人だった。

 ――僕はその時、自分が選ばれたような気になった。

 ――彼女に声をかけられたこと自体は、悪い出来事ではなかった。

 ――ただ、その先で何を選ぶかは、少しだけ難しかった。


 そこで、俺は一度本を閉じた。


 閉じた。

 閉じたのに、また開いた。


 見惚れるほど綺麗な人。

 自分が選ばれたような気になった。


 悪い出来事ではなかった。

 この三つの文章が、妙に頭に残った。


 もちろん、「その先で何を選ぶかは、少しだけ難しかった」という部分は気になった。

 でも、それは逆に言えば、選び方さえ間違えなければいいということだ。


 近づきすぎない。

 変な頼みごとなら断る。

 危なそうなら離れる。


 それだけ気をつければいい。

 俺はもう、福引で一等を引いた。

 雨で滑る未来も避けた。

 財布をなくす未来も避けた。


 良いところだけ拾って、危ないところは避ける。

 それができるなら、今回だって同じはずだった。

 知らない女に声をかけられる。


 それも、見惚れるほど綺麗な人に。

 そう考えると、警戒より先に、期待の方が大きくなった。


 どんな人だろう。

 年上だろうか。

 大学生くらいか。


 社会人かもしれない。

 見惚れるほど綺麗な人。

 本がそう書くくらいだ。

 かなり綺麗なのだろう。


 俺は、自分の顔を思い浮かべた。

 中肉中背。

 特別背が高いわけでもない。

 顔が良いわけでもない。


 運動部でもない。

 髪型も、制服も、普段着も、全部普通。


 普通の高校三年生。

 そんな俺が、見惚れるほど綺麗な女の人に声をかけられる。

 普通なら、まず起きない。


 だからこそ、本に書いてある。

 そう考えると、少しだけ胸が熱くなった。


 朝になっても、その熱は残っていた。

 学校へ行く途中、俺は駅前の通りをいつもより意識して見た。

 明日、ここで声をかけられるのだろうか。


 商店街の入口か。

 駅前の広場か。

 コンビニの前か。

 バス停の近くか。


 本には、駅前としか書かれていなかった。

 細かい場所までは、まだ確認していない。

 いや、確認すれば書いてあるのかもしれない。


 でも、昨日の夜はそこまで読まなかった。

 変に読みすぎて、期待が冷めるのが嫌だった。

 教室に着いてからも、俺は少し浮ついていた。


 授業中、ノートを開いているのに、気づけば明日のことを考えていた。

 どんな服で行けばいいだろう。

 制服のままでいいのか。

 それとも、私服の方がいいのか。


 四月二十八日は平日だ。

 学校帰りなら制服でも不自然ではない。


 けれど、もし相手が本当に綺麗な人なら、少しはまともな格好をしていた方がいい気がする。

 とはいえ、俺の私服に特別まともなものがあるわけでもない。


 パーカー。

 シャツ。

 ジーンズ。


 無難なジャケット。

 どれも普通だ。


 俺が普通なのだから、服だけ気合いを入れても浮くかもしれない。

 そんなことを考えているうちに、教師に当てられた。


「岐阜、ここ読んで」

「え、あ、はい」

 慌てて立ち上がる。


 教科書の場所が分からない。

 隣の席のやつが、指でこっそり教えてくれた。

 俺はそこを読み上げたが、少し噛んだ。


 教室のどこかで小さく笑いが起きる。

 普段なら少し恥ずかしいところだ。

 でも、今日はあまり気にならなかった。


 明日、見惚れるほど綺麗な人に声をかけられる。

 そのことに比べれば、授業で少し噛んだくらい、どうでもいい。

 昼休み。

 圭佑が俺の席まで来た。


「お前、今日なんか変だぞ」

「何が」

「顔」


「また顔かよ」

「最近のお前、顔に出すぎなんだよ」

 圭佑は俺の机に片手を置いて、じっとこちらを見た。


「今日はやけに機嫌よさそうだな」

「そう見える?」

「見える。何か企んでる顔してる」


「企んでない」

「いや、企んでる。しかもあれだな」

「あれって何だよ」


「ちょっと女子に良く見られたい時の顔」

 俺は思わず咳き込んだ。


「何だよ、それ」

「図星か」

「違う」

「違わない反応だったぞ」


 圭佑は楽しそうに笑った。

 こいつは、こういうところだけ無駄に鋭い。


 昨日、俺は圭佑に黒い本を見せた。

 圭佑には中身が真っ白に見えた。


 だから本のことを信じたわけではない。

 でも、俺の様子がおかしいことと、最近少し金回りが良くなっていることは分かっている。

 だから余計に見られている気がした。


「何かあったのか?」

「別に」

「その別に、信用できないんだよな」


「本当に何もない」

「明日、何かある顔してる」


 俺は黙った。

 黙ったのがよくなかった。

 圭佑の目が細くなる。


「あるんだな」

「……まだ何かあるって決まったわけじゃない」


「何だそれ」

「いや、ちょっと」

「ちょっと何」


 圭佑が身を乗り出す。

 俺は周囲を見た。

 女子が数人、こちらをちらっと見ていた。


 というより、俺と圭佑が少し変な距離で話しているから見ているだけかもしれない。

 圭佑が小声で言った。


「ほら、女子に変な顔で見られてるぞ」

「お前が変な顔で近づくからだろ」

「俺じゃなくてお前だよ。何かにやけてる」


「にやけてない」

「にやけてる。気をつけろ。今のお前、かなり気持ち悪い寄りだぞ」

「言い方」


「親友の忠告だ」

「ありがたくない」


 俺は顔を手でこすった。

 そんなに出ているのだろうか。

 明日のことを考えているだけで。

 いや、出ているのかもしれない。


 何しろ、ここ最近の俺はうまくいっている。


 福引で一等を引いた。

 転倒を避けた。

 落とし物を届けて五万円をもらった。

 財布もなくさなかった。


 そして明日は、知らない綺麗な女に声をかけられる。

 これを機嫌よくならずにいられる方がおかしい。


「で、何なんだよ。明日」

 圭佑が聞いた。


「……本に書いてあった」

「また白紙の本か」

「俺には白紙じゃない」


「俺には白紙だ」

「分かってる」

「で? 何て書いてあったんだよ」


 俺は少し迷った。

 話すべきか。


 圭佑は信じていない。

 でも、話は聞くと言ってくれた。

 それに、今の俺は誰かに言いたくて仕方がなかった。


「明日、知らない女に声をかけられるらしい」

 圭佑は数秒黙った。

 それから、あからさまに呆れた顔をした。


「それでその顔か」

「どの顔だよ」


「やっぱり女子に良く見られたい顔じゃねえか」

「いや、だって」

「だってじゃない。お前、未来の本とか言ってる割に、内容が急に普通の高校男子なんだよ」


「普通じゃないだろ。見惚れるほど綺麗な人って書いてあったんだぞ」

「お前、今すごく騙されそうな顔してる」

 圭佑は真顔で言った。


「気をつけろよ」

「分かってる」

「いや、分かってない顔だな」


「分かってるって」

「知らない女に声をかけられるって、普通に考えたら警戒するところだろ」

「それはそうだけど」


「なのにお前、服のこととか考えてるだろ」

 俺はまた黙った。


「考えてたな」

「少しだけ」

「完全に浮かれてるじゃねえか」

 圭佑はため息をついた。


「どんな服で行こうとか考えてる顔だったぞ」

「顔で分かるな」

「分かりやすいんだよ、お前」


 俺は少し腹が立ったが、言い返せなかった。

 実際、考えていた。


 制服か。

 私服か。

 学校帰りなら制服で自然か。


 でも駅前で待つなら、私服の方がいいか。

 そういうことを、授業中からずっと考えていた。


「一応、言っとくけど」

 圭佑は少し真面目な声になった。


「変な勧誘とか、変な店とか、変な男とか、そういうのだったらすぐ逃げろよ」

「分かってる」

「本当に?」

「本当に」


「あと、金の話が出たら絶対やめろ」

「分かった」


「連絡先聞かれても、すぐ教えるな」

「親かよ」

「親友だよ」

 圭佑はそう言って、俺の机から手を離した。


「まあ、どうせ止めても行くんだろ」

「まだ行くって決めたわけじゃない」

「その顔で?」


「……行くかもしれない」

「ほらな」

 圭佑は呆れながらも、少し笑った。


「明日、変なことになったら連絡しろよ」

「お前、本のこと信じてないんじゃなかったのか」

「信じてない。でも、お前が変なことになりそうなのは信じてる」


「何だそれ」

「見てれば分かる」

 圭佑はそう言って、自分の席へ戻っていった。


 残された俺は、しばらく机に肘をついていた。

 圭佑の言うことは分かる。

 知らない女に声をかけられる。

 それは普通に考えれば、警戒した方がいい出来事だ。


 でも、本には「悪い出来事ではなかった」と書かれていた。

 少なくとも、俺はそう読んだ。


 見惚れるほど綺麗な人。

 自分が選ばれたような気になった。

 その先で何を選ぶかは少しだけ難しかった。


 なら、選び方に気をつければいい。

 危なそうなら離れる。

 怪しそうなら断る。


 近づきすぎない。

 それだけだ。

 俺はもう、何度も本をうまく使っている。


 今回も、できるはずだった。

 午後の授業も、ほとんど頭に入らなかった。

 放課後、俺はまっすぐ家に帰った。


 帰り道、駅前を通る。

 明日のことを思いながら、周囲を見た。


 ここかもしれない。

 あの信号の近くかもしれない。

 商店街の入口かもしれない。


 明日、俺はここで誰かに声をかけられる。

 そう考えるだけで、足取りが軽くなった。

 家に帰ると、俺はすぐに自分の部屋へ入った。


 クローゼットを開ける。

 服を見る。


 パーカー。

 シャツ。

 ジーンズ。


 黒っぽいジャケット。

 無地のTシャツ。

 どれも普通だ。


 俺自身も普通だ。

 中肉中背。

 顔も普通。

 特別おしゃれでもない。


 今さら服だけ気合いを入れても、逆に変かもしれない。

 制服で行くか。

 いや、平日だし、学校帰りなら制服で自然だ。


 でも、声をかけられるのが放課後とは限らない。

 本には、駅前で声をかけられた、としか書いていなかった。


 俺は迷った末に、結局いつもの私服をいくつかベッドの上に並べた。

 明日の朝、もう一度考えよう。


 そう思いながら、机の引き出しを開ける。

 黒い本を取り出した。


 四月二十八日。

 知らない女に声をかけられた日。

 もう一度読む。


 ――彼女は、見惚れるほど綺麗な人だった。

 ――僕はその時、自分が選ばれたような気になった。

 ――彼女に声をかけられたこと自体は、悪い出来事ではなかった。

 ――ただ、その先で何を選ぶかは、少しだけ難しかった。


 やっぱり、悪い話には見えない。

 俺は本を閉じた。

 胸が少し高鳴っている。


 不安がないわけではない。

 でも、それ以上に期待があった。


 明日、何かが起きる。

 黒い本に書かれた、次の出来事。

 俺はそれを、少し楽しみにしてしまっていた。

 布団に入ってからも、なかなか眠れなかった。


 どんな人だろう。

 どんな声だろう。


 何を言われるのだろう。

 俺は天井を見上げながら、そんなことばかり考えていた。


 圭佑の言葉が、ふと頭をよぎる。

 ――お前、今すごく騙されそうな顔してる。


「うるさいな」


 誰もいない部屋で、俺は小さく呟いた。

 自分でも、少し浮かれているのは分かっていた。

 けれど、止められなかった。


 これまで本に書かれていたことは、全部当たっている。

 そして俺は、うまく選べている。


 明日だって、きっとそうだ。

 俺はそう思いながら、目を閉じた。


 眠れない夜は、少しだけ楽しかった。

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