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第九話 知らない女に声をかけられた日

 四月二十八日。


 朝から、俺は何度も鏡を見た。


 制服の襟。

 髪の跳ね。

 鞄の位置。

 靴の汚れ。


 普段なら気にしないようなところが、妙に気になった。


 理由は分かっている。


 今日は、知らない女に声をかけられる日だ。


 黒い本には、そう書かれていた。


 ――四月二十八日。

 ――僕は駅前で、知らない女に声をかけられた。

 ――彼女は、見惚れるほど綺麗な人だった。

 ――僕はその時、自分が選ばれたような気になった。

 ――彼女に声をかけられたこと自体は、悪い出来事ではなかった。

 ――ただ、その先で何を選ぶかは、少しだけ難しかった。


 何度読んでも、悪い話には見えなかった。

 もちろん、注意はするつもりだった。


 知らない人についていかない。

 金の話が出たら断る。


 変な店に誘われたら逃げる。

 連絡先は簡単に教えない。

 圭佑にも、昨日散々言われた。


 ――お前、今すごく騙されそうな顔してる。


 余計なお世話だと思った。


 俺だって、何も考えていないわけじゃない。


 福引の時も、転倒の時も、落とし物の時も、


 財布の時も、俺はちゃんと選んできた。


 良いことは拾う。

 悪いことは避ける。

 曖昧なものは、慎重に判断する。

 今回だって同じだ。


 選び方さえ間違えなければ、きっとうまくいく。


 学校へ行っても、授業はほとんど頭に入らなかった。


 黒板の文字を見ているはずなのに、頭の中では駅前の風景ばかり浮かんでいた。


 駅前。

 でも、それだけでは広い。


 俺は昼休みになると、教室の隅で黒い本を開いた。


 圭佑には白紙にしか見えなかった本。

 けれど、俺にはちゃんと文字が見える。


 四月二十八日。

 知らない女に声をかけられた日。

 そのページを、もう一度読む。


 時間は、はっきりとは書かれていなかった。ただ、場所は少しだけ分かった。


 ――僕は学校帰り、駅前の北口広場にいた。

 ――商店街へ向かう人の流れから少し外れた、時計台の近く。

 ――そこで、知らない女に声をかけられた。


 学校帰り。

 駅前の北口広場。

 時計台の近く。

 それだけ分かれば十分だった。


 今日、俺が普段通り学校を出て駅前へ向かえば、だいたいその時間になる。


 わざわざ遠くへ行く必要もない。

 変に早く行く必要もない。


 ただ、いつもより少しだけ、その場所を意識して通ればいい。


 俺は本を閉じた。

 これは確認だ。

 本に書かれたことが本当に起きるのか。


 そして、起きたあとに、自分がどこまでうまく選べるのか。


 福引も、転倒も、落とし物も、財布も、俺はうまくやってきた。


 今回だって、同じはずだった。

 昼休みの終わり頃、圭佑が俺の席まで来た。


「お前、今日も顔がうるさいな」

「顔はしゃべらないだろ」


「しゃべってる。めちゃくちゃしゃべってる」


 圭佑は俺の机に片手を置いて、じっとこちらを見た。


「今日だろ。知らない女に声かけられるってやつ」


「声がでかい」

「小さく言ってるだろ」

「そういう問題じゃない」

 俺は周囲を見た。


 近くの女子がちらっとこちらを見て、すぐに視線を逸らした。


 たぶん、圭佑が妙に近い距離で話しているからだ。

 そう思うことにする。


「本当に行くのか?」

 圭佑が聞いた。


「行くっていうか、学校帰りに普通に通る場所だし」


「普通に通る場所なら、なおさら普通に通れよ。変に待つなよ」


「分かってる」

「その分かってる、信用できないんだよな」

「何回言うんだよ」


「何回でも言う。お前、今かなり浮かれてるから」

「浮かれてない」

「浮かれてる。昨日よりひどい」

 圭佑はため息をついた。


「いいか。変な勧誘だったら無視しろ。変な頼みごとだったら断れ。金の話が出たら逃げろ。人気のない場所には行くな。あと、名前とか連絡先を簡単に教えるな」


「親かよ」

「親友だよ」

 圭佑は昨日と同じことを言った。


 少し笑いそうになった。

 こいつは本のことを信じていない。

 圭佑には、中身が真っ白にしか見えなかった。

 それでも、俺の話を聞くとは言った。


 そして今も、こうして一応心配している。

 うるさい。

 でも、少しだけありがたかった。


「何かあったら連絡しろよ」

「分かった」

「本当に?」


「本当に」

「その返事も怪しい」

「じゃあ何て返せばいいんだよ」


「『圭佑様、危なくなったらすぐご連絡いたします』」

「絶対言わない」

 圭佑は笑って、自分の席へ戻っていった。


 午後の授業は、さらに長く感じた。

 時計を見る。

 まだ十分しか経っていない。


 また時計を見る。

 五分しか進んでいない。

 普段なら退屈なだけの授業時間が、今日は妙に焦れったかった。


 早く放課後になってほしい。

 そう思っている自分に気づいて、少しだけ苦笑した。

 俺は危険を確認しに行くつもりではない。

 幸運を拾いに行くつもりだった。


 放課後。

 俺は黒い本に書かれていた通り、駅前の北口広場へ向かった。


 時計台の近く。

 商店街へ向かう人の流れから、少しだけ外れた場所。

 そこへ立った時、俺は自分でも少しおかしくなった。


 本に書かれた未来を、わざわざ試しに来ている。

 危ないかもしれないと分かっているのに、それでも来ている。

 けれど、その時の俺は、危険を確かめに来たつもりではなかった。


 幸運を拾いに来たつもりだった。

 駅前はいつも通りだった。

 バス停に並ぶ人。


 買い物袋を持った主婦。

 部活帰りの学生。

 スマホを見ながら歩く会社員。

 誰も、俺のことなんか気にしていない。


 俺だけが、少し違うものを待っている。

 時計台の針を見る。

 放課後に駅前へ着くなら、だいたいこのくらいの時間だ。

 本には細かい時刻までは書かれていなかった。


 でも、学校帰りと書かれていた。

 だから、今で間違っていないはずだ。

 俺は鞄の紐を握り直した。


 何も起きなかったらどうする。

 その考えが一瞬浮かぶ。

 その時は、それでいい。

 ただの空振りだ。


 黒い本の記述が外れたわけではなく、俺の読み方が少し違っただけかもしれない。

 そう考えようとした。

 でも、胸の奥では別の答えが出ていた。


 起きる。

 きっと起きる。

 これまで、本に書かれていたことは起きてきた。


 福引も。

 雨も。

 落とし物も。

 財布のことも。


 だから今日も、起きる。

 その時だった。


「あの」

 後ろから声がした。


 心臓が、跳ねた。

 振り返る。

 そこに、女の人が立っていた。


 息が止まった。

 綺麗な人だった。

 本当に、見惚れるほど。


 年齢は二十代前半くらいだろうか。

 肩の少し下まで伸びた髪が、夕方の光を受けて柔らかく揺れている。

 服装は派手ではない。


 白いブラウスに、薄い色のカーディガン。

 膝丈のスカート。

 小さなバッグ。


 ただ、それだけなのに、駅前のざわめきの中で、その人だけ少し浮いて見えた。

 目が合う。

 女の人は、少し困ったように笑った。


「すみません。少し道を聞いてもいいですか?」

「あ、はい」

 声が少し裏返りそうになった。


 落ち着け。

 俺は心の中で自分に言った。

 ただの道案内だ。


 ここで変に浮かれるから危ない。

 でも、無理だった。


 本に書いてあった通りだった。

 駅前の北口広場。

 時計台の近く。


 知らない女に声をかけられる。

 そして、見惚れるほど綺麗な人。

 全部、合っている。


「この近くに、ミズノビルってありますか?」

 女の人が言った。


「友達と待ち合わせしてるんですけど、場所が分からなくて」

「ミズノビル……」


 名前には聞き覚えがあった。

 駅前から少し外れたところにある雑居ビルだ。

 確か、一階に古い喫茶店が入っている。二階以上は、何の店が入っているのかよく知らない。


「あっちです」

 俺は商店街の脇道の方を指さした。


「この通りを少し行って、コンビニの角を曲がったところにあります」

「ありがとうございます」

 女の人はほっとしたように笑った。


 その笑顔を見た瞬間、胸の奥がふわっと浮いた。

 自分が選ばれたような気がした。


 ただ道を聞かれただけだ。

 それは分かっている。


 けれど、駅前には他にも人がいた。

 会社員も、大学生らしい男も、もっと背の高い人も、もっと大人っぽい人もいた。

 その中で、この人は俺に声をかけた。


 俺を選んだ。

 そう思ってしまった。

 黒い本に書かれていた文章が、頭の中で光る。


 ――彼女は、見惚れるほど綺麗な人だった。

 ――僕はその時、自分が選ばれたような気になった。


 その通りだった。

 俺は今、自分が選ばれたような気になっている。

 女の人は、俺の指さした方を見てから、少し不安そうに眉を下げた。


「すみません。もしよければ、途中まで案内してもらえませんか? 私、方向音痴で」


 圭佑の声が、頭の隅で小さく響いた。

 ――人気のない場所には行くな。


 でも、まだ人気のない場所ではない。

 駅前だ。

 商店街も近い。


 ミズノビルだって、ここからそう遠くない。

 それに、俺は思った。

 これが、少しだけ難しい選択なのかもしれない。


 近づきすぎない。

 変な場所までは行かない。


 ビルの中には入らない。

 途中まで案内するだけなら、大丈夫だ。

 俺は、うまく選べる。


「あ、じゃあ……近くまでなら」

 そう答えると、女の人の顔がぱっと明るくなった。


「本当ですか? 助かります」

 その声が、やけに柔らかく聞こえた。


 俺は鞄の紐を握りしめた。

 心臓が速い。

 怖いからではない。

 嬉しかった。


 見惚れるほど綺麗な人に声をかけられた。

 道を聞かれた。

 頼られた。


 それだけで、俺の頭の中は少しふわふわしていた。

 昨日の夜、眠れなかった時間が報われたような気さえした。

 圭佑に言われたことも、少しだけ遠くなる。


 騙されそうな顔。

 女子に良く見られたい顔。

 余計なお世話だ。


 俺はちゃんと気をつけている。

 危ないところだけ避ければいい。

 良いところだけ拾えばいい。

 今までも、そうやってうまくやってきた。


 今回だって、きっとうまくやれる。

 俺はその人と並んで、商店街の方へ歩き出した。


 夕方の駅前は、まだ明るかった。

 人も多い。

 何も怖いことなんて起きるはずがない。


 少なくとも、その時の俺は本気でそう思っていた。

 黒い本に書かれていた通り、俺は知らない女に声をかけられた。


 そして俺は、完全に有頂天になっていた。

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