第十話 有頂天の代償
四月二十八日。
俺は、見惚れるほど綺麗な女の人と並んで歩いていた。
駅前の北口広場から、商店街の脇道へ入る。
まだ夕方で、辺りは明るい。
店の前には買い物帰りの人がいて、少し離れたところでは制服姿の学生が何人か話している。
人気のない場所ではない。
だから、大丈夫だと思った。
黒い本には、こう書かれていた。
――彼女に声をかけられたこと自体は、悪い出来事ではなかった。
――ただ、その先で何を選ぶかは、少しだけ難しかった。
つまり、選び方さえ間違えなければいい。
俺は、そう考えていた。
「あの、本当にすみません。急にお願いしてしまって」
女の人が、申し訳なさそうに言った。
「あ、いえ。近くだと思うんで」
「助かります。私、方向音痴で」
そう言って、彼女は少し恥ずかしそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥がまた浮いた。
見惚れるほど綺麗な人。
本当にその通りだった。
何気なく横顔を見るだけで、視線を戻すタイミングが分からなくなる。
近くにいるだけで、周囲の空気が少し違って感じる。
俺は、自分が今かなり浮かれていることを分かっていた。
分かっていたけれど、止められなかった。
駅前には、他にも人がいた。
会社員も、大学生らしい男も、もっと背が高くて大人っぽい人もいた。
それなのに、この人は俺に声をかけた。
俺を選んだ。
そう思ってしまった。
「学生さんですよね?」
女の人が聞いた。
「はい。高校三年です」
「三年生なんですね。じゃあ受験ですか?」
「一応、そうです」
「大変ですね」
「まあ、まだそんなに真面目にはやってないですけど」
言ってから、少し後悔した。
もっとまともな答え方があっただろう。
でも、女の人は楽しそうに笑った。
「正直ですね」
たったそれだけで、気分がよくなった。
正直ですね。
そう言われただけなのに、少し認められたような気がした。
我ながら単純だと思う。
でも仕方ない。
見惚れるほど綺麗な人に、そんな顔で笑われたら、誰だって少しは浮かれる。
「お名前、聞いてもいいですか?」
女の人が言った。
少しだけ迷った。
名前くらいならいいだろう。
俺は、そう判断した。
「岐阜です」
「岐阜さん?」
「はい」
「珍しい名字ですね」
「よく言われます」
このやり取りは、もう何度もしている。
けれど、その人に言われると、いつもより少し特別に聞こえた。
「私は、里奈です」
「里奈さん?」
「はい」
下の名前だけ。
少し引っかかった。
でも、俺だって名字しか言っていない。
お互い様だ。
コンビニの角を曲がる。
ミズノビルは、もう少し先にある。
俺は、そこで終わりにするつもりだった。
ビルの前まで案内する。
それ以上は行かない。
ビルの中にも入らない。
それなら問題ない。
ちゃんと選べている。
そう思っていた。
「おい」
低い声がした。
前方に、男が二人立っていた。
片方は派手な柄のシャツを着ている。
もう片方は黒いパーカー姿で、髪を明るく染めていた。
どちらも、普通の通行人には見えなかった。
里奈さんの足が止まる。
けれど、その止まり方が変だった。
驚いて固まった、というより、来ると分かっていたものを見つけたような止まり方だった。
「何してんの、お前」
柄シャツの男が言った。
「え?」
「人の女に、何してんのって聞いてんだけど」
頭が真っ白になった。
人の女。
その言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。
「いや、俺は道を聞かれて――」
「道?」
黒パーカーの男が笑った。
「ずいぶん楽しそうに歩いてたけどな」
「違います。本当に道を」
「名前まで教えてたよな」
聞かれていた。
いつから見ていたのか。
俺は里奈さんの方を見た。
「里奈さん、説明して――」
彼女は、困ったような顔をしていた。
けれど、口を開かなかった。
ほんの少しだけ、視線を下げる。
その仕草を見た瞬間、胸の奥が冷えた。
この人は、何も言うつもりがない。
「里奈」
柄シャツの男が、俺ではなく彼女を見た。
「もういいから、下がってろ」
「……でも」
彼女は小さく言った。
止めようとしているようにも見えた。
けれど、その声には力がなかった。
「いいから」
黒パーカーの男が短く言う。
里奈さんは、そこで黙った。
一瞬だけ、俺を見た。
申し訳なさそうな顔だった。
でも、助けてくれる顔ではなかった。
彼女は小さく唇を動かした。
「……ごめんね」
声になったかどうかも分からないくらい、小さな言葉だった。
それから、彼女は一歩下がった。
俺は、その瞬間にようやく気づいた。
たぶん、これは道案内ではなかった。
でも、もう遅かった。
「ちょっと来いよ」
黒パーカーの男が俺の腕を掴んだ。
「いや、待ってください。本当に俺は――」
「いいから」
腕を引かれる。
俺は抵抗しようとしたが、二人に挟まれるとどうにもならなかった。
里奈さんの姿が視界の端にあった。
彼女はスマホを握ったまま、こちらを見ていた。
助けを呼ぶ様子はない。
男たちを止める様子もない。
ただ、俺と目が合うと、気まずそうに視線を逸らした。
それだけで十分だった。
この人は、最初から俺を助ける側にはいなかった。
連れていかれたのは、ミズノビルの裏手だった。
人通りの少ない細い路地。
古い室外機が並び、壁には色あせたポスターが貼られている。
そこで俺は、壁際に立たされた。
逃げ道は、男二人で塞がれていた。
「高校生?」
柄シャツの男が言った。
「……はい」
「へえ。高校生が、人の女に色目使うんだ」
「使ってません」
「使ってたように見えたけどな」
「本当に、道を聞かれただけです」
「じゃあ何で名前教えてんの?」
「聞かれたから」
「聞かれたら何でも答えるの?」
男は笑っている。
けれど、その笑い方が怖かった。
こちらの返事なんて、最初からどうでもいいような顔だった。
「いや、だから」
「まあいいよ」
黒パーカーの男が言った。
「こっちもさ、別に大ごとにしたいわけじゃないんだよ。な?」
「そうそう」
柄シャツの男が頷く。
「若いし。高校生だし。親に言うのも学校に言うのもかわいそうじゃん」
親。
学校。
その言葉で、喉が詰まった。
「でもさ、こっちも面子ってもんがあるから」
「面子……」
「人の女にちょっかい出した。こっちから見たら、そういうことなんだよ」
「違います」
「違うかどうかは、こっちが決めるんだよ」
柄シャツの男の声が少し低くなった。
背中が冷える。
俺は、ようやく黒い本の文章を思い出していた。
――彼女に声をかけられたこと自体は、悪い出来事ではなかった。
――ただ、その先で何を選ぶかは、少しだけ難しかった。
選び方。
俺は、どこで間違えた。
声をかけられた時か。
案内すると言った時か。
名前を教えた時か。
脇道へ入った時か。
分からない。
分からないまま、男は俺の制服を見た。
「学校、分かるな」
校章。
見られた。
「この辺だと、あそこか。高校三年なら、受験もあるよな」
嫌な汗が背中を流れた。
「家族に知られたら困るよな」
「学校に話されたら面倒だよな」
二人が交互に言う。
俺は何も言えなかった。
「だから、穏便に済ませようぜ」
柄シャツの男が言った。
「迷惑料」
「……は?」
「十万」
耳を疑った。
「十万って」
「安いだろ。高校生だからかなりまけてる」
「払えるわけないです」
「じゃあ、今日は持ってる分だけでいいよ」
黒パーカーの男が、俺の鞄を見た。
「財布」
「いや、無理です」
「無理じゃない」
「本当に、そんなに持ってません」
「だから持ってる分だけでいいって言ってんだろ」
腕を掴まれる。
強く。
痛い。
俺は、そこで逆らえなくなった。
財布を出す。
中には、落とし物を届けて礼にもらった五万円の残りが入っていた。
全部ではない。
でも、普段の俺なら絶対に持ち歩かない額だった。
今日は、帰りに少し買い物をしようと思っていた。
服か、靴か。
あるいは、前から欲しかったイヤホン。
そんなことを考えて、現金を少し多めに入れていた。
それが、全部見られた。
「お、持ってんじゃん」
柄シャツの男が笑った。
「高校生にしては景気いいな」
「返してください」
「迷惑料だって」
財布の中の現金が抜き取られる。
指が震えた。
止められない。
男はさらに、財布の中を探った。
「これ何?」
商店街共通商品券だった。
福引で当てた一万円分の残り。
何かを買う時に使おうと思って、まだ何枚か入れていた。
「商品券か。これも使えるだろ」
「それは」
「迷惑料」
あっさり取られた。
福引で当てた商品券。
黒い本のおかげで手に入れたもの。
それが、男の手に移った。
胸の奥が、変に冷たくなる。
俺は、得していたはずだった。
百円の本で一万円分の商品券を手に入れた。
落とし物を届けて五万円をもらった。
財布をなくす未来も避けた。
全部、うまくいっていたはずだった。
なのに、その金も商品券も、今、目の前で奪われている。
「これで今日の分な」
黒パーカーの男が言った。
「でも、これで終わりじゃないから」
「え?」
「十万って言っただろ。足りない分は、毎月払ってもらう」
「そんなの無理です」
「高校生でも、一万くらいなら何とかなるだろ」
「無理です」
「無理じゃない」
柄シャツの男がスマホを出した。
「連絡先」
「嫌です」
「じゃあ学校行く?」
声が出なくなった。
「家族でもいいけど」
スマホを握る手が汗で湿っていく。
教えたくない。
でも、教えなければどうなるのか分からなかった。
結局、メッセージアプリの連絡先を交換させられた。
男の名前は本名ではなさそうだった。
画面に表示された文字を見ても、頭に入ってこない。
「来月から一万な」
「払えなかったら?」
聞くつもりはなかった。
でも、口から出ていた。
黒パーカーの男が笑った。
「学校行く」
柄シャツの男も笑った。
「家も、その気になれば分かるしな。この町、狭いから」
この町は狭い。
その言葉が、妙に重く残った。
「逃げられると思うなよ」
柄シャツの男が、俺の肩を軽く叩いた。
軽い動きだったのに、体がこわばった。
「俺らの仲間、この辺にいくらでもいるから」
男たちはそう言って、路地を出ていった。
里奈さんの姿は、もうどこにもなかった。
俺はしばらく、その場から動けなかった。
壁にもたれて、息をする。
手がまだ震えている。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
いや、理解はしている。
たかり。
ゆすり。
恐喝。
どれが正しいのかは分からない。
でも、まともじゃないことだけは分かった。
俺は、失敗した。
道案内くらいなら大丈夫だと思った。
名前くらいならいいと思った。
近くまでなら問題ないと思った。
選び方に気をつければ、うまくいくと思った。
でも、うまくいかなかった。
俺は、鞄の中の黒い本を思い出した。
悪い出来事ではなかった。
確かに、声をかけられたこと自体は、悪い出来事ではなかったのかもしれない。
けれど、その先で俺は選んだ。
案内すると。
少しだけ近づくと。
名前を教えると。
そして、その結果がこれだった。
迷惑料十万円。
今日は持っている分だけ。
残りは毎月一万円。
学校。
家族。
この町には仲間がいる。
言葉が頭の中でぐるぐる回った。
路地を出る。
駅前の明るさが、やけに遠く感じた。
人が歩いている。
車が走っている。
店の音楽が流れている。
全部、いつも通りだった。
でも、俺だけが少し違う場所から戻ってきたような気がした。
帰り道、何度も後ろを振り返った。
誰かに見られている気がした。
さっきの男たちの仲間が、この道のどこかにいるような気がした。
そんなわけない。
そう思っても、足は自然と速くなる。
■自宅
家に着くと、母が「おかえり」と言った。
「ただいま」
声が少し掠れた。
「どうしたの? 疲れてる?」
「別に」
俺は靴を脱ぎながら答えた。
母はそれ以上聞かなかった。
助かったと思った。
同時に、少しだけ苦しくなった。
部屋に入る。
ドアを閉める。
鞄から黒い本を取り出した。
四月二十八日。
知らない女に声をかけられた日。
ページを開く。
文章は、最初に読んだ時と同じようにそこにあった。
――彼女に声をかけられたこと自体は、悪い出来事ではなかった。
――ただ、その先で何を選ぶかは、少しだけ難しかった。
「……難しいって、何だよ」
声が震えた。
怒りなのか、怖さなのか、自分でも分からなかった。
難しい。
たったそれだけ。
それだけで終わりだった。
どこで間違えたのかは書いていない。
名前を教えたのが悪かったのか。
案内すると言ったのが悪かったのか。
商店街の脇道へ入ったのが悪かったのか。
そもそも、声をかけられた時点で逃げるべきだったのか。
何も分からない。
この本は、当たる。
福引も当たった。
雨の日の階段も当たった。
落とし物の礼も当たった。
今日のことだって、当たっていた。
でも、肝心なところは何も教えてくれなかった。
どう選べばよかったのか。
どこまでなら安全だったのか。
何をしたから失敗したのか。
それを教えてくれないなら、こんな文章に何の意味がある。
「ふざけんなよ……」
俺は本を睨んだ。
黒い表紙は、何も答えない。
未来が書いてあるくせに。
俺がどうなるか知っているくせに。
俺が失敗することも、金を取られることも、連絡先を渡すことも、全部知っていたはずなのに。
それなのに。
少しだけ難しかった。
そんな言葉で済ませている。
「それが分かんねえから失敗したんだろ!」
気づいた時には、黒い本を掴んでいた。
俺はそのまま、黒い本を壁に叩きつけた。
鈍い音がして、本が床に落ちる。
それでも、表紙は破れない。
ページも折れていない。
ただ、何事もなかったように開いていた。
四月二十八日 知らない女に声をかけられた日
その文字が、部屋の明かりの下で妙にはっきり見えた。
「何が、少しだけ難しかった、だよ……」
俺は歯を食いしばった。
部屋の外から、司の声がした。
「お兄ちゃん、ご飯どうするの?」
少し遅れて、俺は答えた。
「あとで食べる」
足音が遠ざかる。
俺は床に落ちた黒い本を見下ろした。
この本を、どうすればいい。
捨てるか。
隠すか。
燃やすか。
考えても、答えは出なかった。
ただ一つだけ分かっていた。
このまま目の前にあったら、俺はきっと、また開いてしまう。




