第十一話 僕が初めて、この本を捨てようとした日
五月二日。
朝起きて最初に見たのは、机の上に置いた黒い本だった。
昨日までは、引き出しの中にしまっていた。
けれど四月二十八日のことがあってから、俺は何度も本を出しては閉じていた。
見たくない。
でも、見ないのも怖い。
そんなことを繰り返しているうちに、寝る前、机の上に置いたままにしてしまったらしい。
黒い表紙。
白い題名。
『僕はまだ、この本を書いていない』
最初に見た時は、変な題名だと思った。
今は、それだけでは済まなかった。
この本を買ってから、いろいろなことが起きた。
福引で一等を引いた。
雨で滑って転ぶ未来を避けた。
落とし物を届けて、謝礼をもらった。
財布をなくす未来も避けた。
そこまでは、うまくいっていた。
うまくいっていると思っていた。
でも、四月二十八日、知らない女に声をかけられた日。
俺は、そこで大きく失敗した。
手持ちの金を取られた。
商品券も取られた。
さらに、残りの迷惑料として毎月一万円払えと言われた。
この本を持っているのは怖い。
けれど、この本を手放して、何も分からなくなる方がもっと怖かった。
俺は、黒い本を開いた。
五月二日。
そこには、短い項目が並んでいた。
五月二日 財布を拾った日
五月二日 不良に絡まれた日
五月二日 僕が初めて、この本を捨てようとした日
「……またかよ」
喉が乾いた。
財布を拾う。
不良に絡まれる。
本を捨てようとする。
今日一日の流れを、先に見せられているようだった。
俺は、最初の項目を読んだ。
――駅前の小さな路地で財布を拾った。
――中には十万円が入っていた。
――持ち主は、謝礼として一万円を渡した。
一万円。
その文字を見た瞬間、胸の奥が揺れた。
今の俺には、金が必要だった。
来月から毎月一万円。
払えなければ、学校か家族に話すと言われている。
もちろん、財布を盗むつもりはない。
交番に届ける。
持ち主から礼をもらう。
それだけだ。
けれど、同じ日の別の記述にはこうあった。
――財布を拾ったあと、僕は不良に絡まれた。
――逃げるなら、もっと早く動くべきだった。
――僕は財布を手放すのが惜しくて、判断が遅れた。
普通なら、行かない。
普通なら、財布なんて拾わない。
それでも俺は、ページから目を離せなかった。
不良に絡まれることは、先に分かっている。
なら、拾ったらすぐに交番へ向かえばいい。
危なそうな男が近づいてきたら、すぐ逃げればいい。
四月二十八日は、俺が浮かれていたから失敗した。
今回は違う。
最初から警戒している。
「……今度は、大丈夫だ」
■学校
自分に言い聞かせるように呟いた。
学校では、圭佑にすぐ気づかれた。
「お前、顔色悪くないか」
「寝不足なだけ」
「四月二十八日の件、まだちゃんと聞いてないんだけど」
「大したことじゃない」
「その言い方、だいたい大したことあるんだよな」
俺は目を逸らした。
「今日の放課後、少し話せ」
「今日は無理」
「何で」
「用事がある」
圭佑は、じっと俺を見た。
「危ないことじゃないよな」
答えが少し遅れた。
「……危なくはない」
「その言い方が一番危ないんだよ」
「大丈夫だって」
「お前の大丈夫は信用できない」
その言葉は、少し刺さった。
でも、言えなかった。
今日、財布を拾いに行く。
中には十万円が入っていて、届ければ謝礼一万円がもらえる。
そのあと不良に絡まれるらしいけど、今回はすぐ逃げるつもりだ。
そんな話を、圭佑に言えるわけがなかった。
放課後。
俺は、圭佑に声をかけられる前に教室を出た。
駅前へ向かう。
黒い本に書かれていた小さな路地は、商店街の横道を一本入ったところにあった。
古い文房具屋と、閉まったままのクリーニング店の間。
人通りは少ない。
ただ、少し戻れば商店街だ。
拾ったら、すぐ戻る。
それだけだ。
俺は路地に入った。
奥に、黒いものが落ちていた。
財布だった。
黒い革の長財布。
本当にあった。
本に書かれていた通りだ。
周囲を見る。
誰もいない。
俺はすぐに財布を拾った。
ずしりと重かった。
中を見てはいけない。
そう思ったのに、指が勝手に動いた。
少しだけ開く。
一万円札が見えた。
何枚も。
喉が鳴った。
届ければ、謝礼一万円。
これで少しは楽になる。
そう思った瞬間だった。
「おい」
背後から声がした。
体が固まる。
振り返ると、路地の入口に男が立っていた。
高校生か、少し年上くらいだろうか。
派手なパーカーに、だらしなく腰で履いたズボン。髪は明るく染めていて、耳にピアスが光っている。
「それ、俺の財布だから渡せ」
心臓が嫌な音を立てた。
でも、俺は知っていた。
この財布は、この男のものではない。
黒い本には、持ち主のことも少し書かれていた。
会社員風の男性。
交番で確認される名前。
謝礼として一万円を渡してくれた人。
目の前の男とは、明らかに違う。
「違います」
俺は、言っていた。
「これは、あなたのじゃないです」
男の目が細くなる。
「あ?」
「交番に届けます」
「だから俺のだって言ってんだろ」
「違うと思います」
「何で分かんだよ」
その一言で、息が詰まった。
何で分かる。
答えられない。
本に書いてあったから。
そんなことを言えるわけがない。
「いや、その……」
「中見たのか?」
男が近づいてくる。
「財布拾って中身確認して、俺のじゃないって言い切るんだ」
「違います。少し確認しただけで」
「じゃあ渡せよ」
男が手を伸ばしてきた。
俺は反射的に財布を後ろへ引いた。
その瞬間、男の顔から笑いが消えた。
「調子乗ってんじゃねえぞ」
胸ぐらを掴まれた。
腹に衝撃が来る。
息が詰まった。
殴られた。
そう理解した時には、肩にも痛みが走っていた。
体が壁にぶつかる。
財布を握る手に、男の手がかかる。
「離せ」
「やめ――」
頬に衝撃。
目の前に白いものが散った。
力が抜けた。
財布を奪われる。
「最初から渡せよ」
男はそう言って、路地を出ていった。
俺は追いかけられなかった。
足が動かない。
腹が痛い。
頬が熱い。
大怪我ではない。
けれど、十分だった。
十分すぎるくらい、怖かった。
しばらくしてから、俺はようやく立ち上がった。
制服の肩に、壁の汚れがついている。
通りへ出ると、商店街の音が聞こえた。
人の声。
自転車のベル。
店先の音楽。
いつも通りだった。
でも、俺だけが、さっきの路地に置き去りにされたままみたいだった。
家に帰るまで、何度も後ろを振り返った。
四月二十八日の男たちとは関係ない。
たぶん、ただの別の不良だ。
それでも、もう誰がどこにいるのか分からなかった。
この町は狭い。
そう言われたことを、また思い出した。
■家
家に着くと、母が台所から顔を出した。
「おかえり」
「ただいま」
「どうしたの? 顔、赤くない?」
「ちょっと走ったから」
「そう?」
「うん」
俺は急いで階段を上がった。
部屋に入る。
ドアを閉める。
ベッドに座り込んだ。
腹が痛い。
頬が熱い。
肩も痛む。
金は取られていない。
商品券も、もうないから取られていない。
でも、今日失ったものは別だった。
安心感。
自分の判断への自信。
そして、この本を使えば何とかなるという思い。
俺は机の上の黒い本を見た。
朝、そこに置いたままだった。
ゆっくり手を伸ばし、五月二日のページを開く。
文章は、もちろん変わっていない。
――財布を拾ったあと、僕は不良に絡まれた。
――逃げるなら、もっと早く動くべきだった。
――僕は財布を手放すのが惜しくて、判断が遅れた。
「……分かってたのに」
声が漏れた。
分かっていた。
不良に絡まれることも。
逃げるなら早く動くべきだったことも。
財布を手放すのが惜しくなることも。
全部、書いてあった。
それなのに俺は行った。
拾った。
言い返した。
殴られた。
俺は、本を使って未来を避けているつもりだった。
でも、違った。
この本は、不良に絡まれることは教えてくれた。
財布を手放すのが惜しくなることも書いていた。
逃げるなら、もっと早く動くべきだったとも書いていた。
けれど、肝心なことは何も書いていなかった。
不良が、どこから来るのか。
いつ現れるのか。
どの方向へ逃げればいいのか。
財布を拾った瞬間に走れば間に合ったのか。
それとも、そもそも路地に入った時点でもう遅かったのか。
そのあたりが。何も分からなかった。
分からないまま、俺は財布を拾った。
分からないまま、振り返った。
分からないまま、言い返した。
そして、殴られた。
黒い本には、いいことも書いてある。
それは間違いない。
福引も、落とし物の礼も、財布の中の十万円も、全部当たっていた。
けれど、悪いことについては違う。
危ないとだけ書く。
難しいとだけ書く。
逃げるなら早く動けとだけ書く。
でも、どうすれば助かるのかは教えてくれない。
「……それじゃ、意味ないだろ」
声が漏れた。
危ないと分かっていても、避け方が分からなければ同じだ。
得があると分かれば、俺はまた近づく。
危なそうなら逃げればいいと思う。
そして、また逃げ遅れる。
この本を持っていたら、たぶん俺はまたやる。
また、いいことだけを見てしまう。
また、危ないところへ行ってしまう。
俺は机の上の黒い本を見た。
『僕はまだ、この本を書いていない』
変な題名だ。
だけど、今は少しだけ意味が違って見えた。
福引で一等を引いたことも。
転倒を避けたことも。
落とし物を届けたことも。
知らない女に声をかけられ、有頂天になったことも。
財布を拾って、不良に殴られたことも。
全部、俺が選んだことだった。
黒い本は、ただそこにあった。
俺に読ませて、俺に選ばせて、その結果だけを残している。
そう思うと、急に怖くなった。
俺は、ゆっくりと黒い本に触れた。
捨てればいい。
こんなもの、捨てればいい。
そうすれば、もう読まなくて済む。
もう期待しなくて済む。
もう、得をするために危ない場所へ行かなくて済む。
でも、手はすぐには動かなかった。
本を捨てたら、明日のことが分からなくなる。
どんな幸運があるのかも。
どんな不幸があるのかも。
来月の一万円をどうするのかも。
それでも、この本を持っていたら、俺はまた同じことをする。
そう思った。
「……捨てよう」
声に出すと、胸の奥が少しだけ震えた。
本当に捨てられるのかは、分からない。
でも、初めてそう思った。
この本を、手放したい。
もう、これ以上読んではいけない。
机の上で、黒い本は黙っていた。
俺はその表紙に手を置いたまま、しばらく動けなかった。
この日、俺は初めて、黒い本を捨てようと思った。




