第十二話 いいことだけ選べばいい
五月三日。
目が覚めて最初に感じたのは、頬の痛みだった。
鏡を見ると、昨日殴られたところが少し赤くなっている。腫れているというほどではないが、指で触れるとじんわり痛んだ。腹の奥にも、鈍い重さが残っている。
財布を拾えば、謝礼がもらえる。
そう黒い本に書かれていたから、昌志はそれを信じた。
けれど実際には、財布を奪われ、不良に殴られた。謝礼どころではなかった。
黒い本は、危険があることを教えてくれる。
だが、どう逃げればいいのかまでは教えてくれない。
昨日、それを思い知らされた。
この本は危ない。
捨てよう。
昨夜、確かにそう思った。
けれど朝になっても、黒い本は机の上にあった。
捨てていない。
ゴミ袋に入れることも、外へ持ち出すことも、できなかった。
「……捨てたら、どうするんだよ」
昌志は、誰に聞かせるでもなくつぶやいた。
四月二十八日に、現金も商品券も取られた。
それだけでは終わっていない。
来月から毎月一万円。
払えなければ、学校か家族に話すと言われている。
もちろん、本当に払うべきなのかは分からない。
警察に言うべきなのかもしれない。
圭佑に話すべきなのかもしれない。
それでも、今の昌志にはそれができなかった。
学校に知られるかもしれない。
家族に知られるかもしれない。
あの男たちにまた絡まれるかもしれない。
そう考えるだけで、喉の奥が詰まる。
金がいる。
少なくとも、そう思ってしまっている。
黒い本は危ない。
でも、黒い本にはいいことも書いてある。
福引で一等を引いた。
雨の日の階段で転ばずに済んだ。
落とし物を届けて五万円もらった。
財布をなくす日も避けられた。
悪いことばかりではなかった。
「……いいことだけ選べばいいんだ」
昨日みたいな財布は駄目だ。
人が絡むものも駄目。
知らない女も駄目。
知らない男も駄目。
路地も駄目。
大金も駄目。
でも、小さい幸運なら。
危険のないものなら。
少しずつ拾えば、一万円くらいなら何とかなるかもしれない。
昌志は机の引き出しから大学ノートを取り出した。
最近、黒い本の記載を書き写すために使い始めたノートだ。
ページの上に、三つの記号を書く。
○。
△。
×。
○は使う。
△は注意。
×は避ける。
「これでいい」
黒い本そのものを捨てるのではない。
黒い本の中にある、危ない予定だけを捨てる。
そう考えると、少しだけ気分が楽になった。
昌志は黒い本を開いた。
五月三日のページには、何も書かれていなかった。
昨日、自分はこの本を捨てようと思った。
今日、自分はそれをやめようとしている。
昌志にとっては大きなことだった。
けれど、黒い本には載っていない。
この本に載るのは、迷ったことではない。
考えたことでもない。
何かが起きた日だけだ。
昌志は、五月のページをめくった。
五月上旬の出来事が、いつものように短く並んでいた。
五月四日 駅前コンビニのくじで五百円分の無料券を当てた日
五月五日 商店街裏の細い道で目つきの悪い男とすれ違った日
五月七日 英語の小テストで教科書三十四ページから三十六ページの単語が出た日
五月八日 体育の授業で足をひねった日
五月十日 駅前の自販機でもう一本当たりを引いた日
「……ほら」
昌志は小さく息を吐いた。
「悪いことばっかりじゃない」
五百円分の無料券。
小テストの範囲。
自販機の当たり。
昨日みたいな大金ではない。
知らない女も出てこない。
財布も拾わない。
不良と関わる必要もない。
小さい幸運ばかりだ。
これなら、危なくない。
昌志はノートに書き写していく。
五月四日 コンビニくじ 五百円分無料券 ○
五百円。
たった五百円だ。
けれど、小さくても金は金だった。
誰かに絡まれるような額ではない。コンビニでくじを引くだけ。商品券一万円や謝礼五万円に比べれば、ずっと安全に見える。
昌志は○を書いた。
五月五日 商店街裏 目つきの悪い男 ×
これは迷わなかった。
裏道。
細い道。
目つきの悪い男。
昨日の今日で、そんなものに近づく理由はない。
「通らなきゃいいだけだ」
商店街の表通りを歩けばいい。
少し遠回りになっても、殴られるよりはずっとましだ。
五月七日 英語小テスト 三十四〜三十六ページ ○
昌志は英語の教科書を引き寄せた。
三十四ページを開く。単語欄がある。熟語もいくつか載っている。三十六ページまでなら、量としては多くない。
「これ、出るのか」
黒い本には、答えが書いてあるわけではない。
問題文がそのまま載っているわけでもない。
ただ、教科書のどのあたりから出るかが分かっているだけだ。
そこを覚えるのは、自分だ。
なら、これはズルではない。
むしろ勉強している。
「これは安全だろ」
○を書く手に、ためらいはなかった。
五月八日 体育 足をひねる ×
怪我は避ける。
痛いのは、もう十分だった。
準備運動を真面目にする。
無理に走らない。
危なそうなら、少し力を抜く。
五月十日 自販機 もう一本当たり ○
これも問題ない。
自販機で飲み物を買うだけだ。
当たればもう一本。
外れても、普通に飲み物を買っただけ。
危険はない。
昌志は○を書いた。
ノートを見下ろす。
○が三つ。
×が二つ。
こうして分けてみると、分かりやすかった。
全部を信じる必要はない。
全部に従う必要もない。
いいことだけ拾えばいい。
危ないことは避ければいい。
昨日の財布の件は、選び方を間違えただけだ。
「……やっぱり、使い方なんだよ」
昌志は黒い本を見た。
怖い本だとは思う。
けれど、役に立つ。
危ない本だとも思う。
けれど、使える。
捨てるには、まだ早い。
いや。
捨ててしまったら、来月の一万円をどうすればいいのか分からない。
昌志はノートの上に、強めの字で書いた。
いいことだけ選ぶ。
文字にすると、それはとても簡単なルールに見えた。
危ないものは避ける。
得になるものだけ拾う。
大きすぎる幸運には近づかない。
人が絡むものには気をつける。
それなら、自分は損をしない。
痛い目にも遭わない。
昨日みたいな失敗は、もうしない。
昌志はもう一度、五月四日の記載を見た。
五百円分の無料券。
たった五百円だ。
でも、その五百円を拾えれば、昨日失ったものを少しだけ取り戻せる気がした。
殴られた痛みも、財布を奪われた悔しさも、全部なかったことにはならない。
それでも、次はうまくやれる。
そう思いたかった。
昌志は黒い本を閉じなかった。
閉じずに、机の上に置いたまま、ノートの○を指でなぞる。
この本は危ない。
でも、使える。
使うかどうかは、自分で決める。
そのつもりだった。
――今度こそ、俺は間違えない。




