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第十三話 ついている男になれるかもしれない

 五月四日。


 昌志は、いつもより少し早く家を出た。


 鞄の中には、黒い本が入っている。


 捨てるためではない。

 使うために持ってきた。


 ノートには、昨日つけた印が残っていた。


 五月四日 コンビニくじ 五百円分無料券 ○


 五百円。


 大金ではない。

 昨日の財布みたいに、人に絡まれるほどの額でもない。


 たかが五百円。

 けれど、当たると分かっている五百円だった。


 ■コンビニ


 駅前のコンビニに入り、飲み物と昼用のパン、それから小さなチョコ菓子を買う。合計は七百円を少し超えた。


「くじ、一回引けます」


 店員に言われ、昌志はできるだけ普通の顔で箱に手を入れた。

 紙を一枚つかみ、開く。


 五百円分無料券。


「……あ」

 思わず声が出た。


 店員は慣れた声で「おめでとうございます」と言った。後ろの客も、昌志のことなど気にしていない。

 それでも、昌志の指先は少し熱かった。


 当たった。

 本当に当たった。


 たった五百円。

 でも、狙って当てた五百円だった。


 コンビニを出てから、昌志は無料券を財布にしまった。


 頬の痛みは、まだ少し残っている。

 腹の奥にも、昨日殴られた感覚がかすかにある。

 けれど、それが少しだけ遠のいた気がした。


「……やっぱ、使えるじゃん」


 昌志は小さくつぶやいた。


 ■帰宅途中


 五月五日。


 昌志は、いつもの近道を使わなかった。

 商店街裏の細い道。

 駅から家へ帰る時、そこを抜ければ少し早い。普段なら何も考えずに通っていた道だ。


 だが、黒い本にはこう書かれていた。


 五月五日 商店街裏の細い道で目つきの悪い男とすれ違った日


 昌志は表通りを選んだ。


 少し人が多い。

 信号にも引っかかる。

 遠回りになる。


 それでも、目つきの悪い男とはすれ違わなかった。誰にも絡まれなかった。殴られなかった。


 ただ、少し遅く家に着いただけだった。

 玄関を開けると、司がアイスを持ったまま振り返った。


「あれ、お兄ちゃん遅くない?」

「ちょっと遠回りした」


「なんで?」

「なんとなく」


「ふーん」


 司はそれ以上聞いてこなかった。昌志のことより、アイスの溶け具合の方が気になるらしい。

 昌志は靴を脱ぎながら、少しだけ笑いそうになった。


 五百円は当てた。

 危険な道は避けた。


 どちらも成功している。


 黒い本は、やっぱり使える。


 ■教室


 五月七日。


 今日は英語の小テストがあった。


 昌志は前日の夜、黒い本に書かれていた通り、教科書の三十四ページから三十六ページだけを重点的に覚えていた。


 答えを見ているわけではない。

 問題を盗んだわけでもない。


 ただ、出る範囲を知っていただけだ。

 だから、これはズルではない。

 そう言い聞かせながら、配られた小テストを裏返す。


「始め」


 先生の声で紙を表にした瞬間、昌志は息を止めた。


 三十四ページの単語。

 三十五ページの熟語。

 三十六ページの例文に出ていた表現。


 ほとんど、そのままだった。


「……待って」


 小さく漏れた声に、前の席の生徒が少し振り返る。

 昌志は慌てて口を閉じた。


 まずい。

 変に思われる。


 けれど、手は止まらなかった。

 昨日覚えた単語を、次々と埋めていく。


 いつもなら迷うところも、今日は分かる。意味も、つづりも、昨日の夜に見たばかりだった。


 鉛筆の音が、妙に軽く聞こえた。

 小テストが終わると、圭佑が後ろから答案をのぞき込んできた。


「お前、今回できたっぽくない?」

「まあ、ちょっと勉強した」


「へえ。珍しい」

「珍しいってなんだよ」


「いや、最近なんか調子いいなって」


 その言葉に、昌志は少しだけ反応した。

 最近、調子がいい。

 他人からも、そう見えるのか。


 昌志は笑ってごまかしたが、その言葉はしばらく胸の奥に残った。


 ■体育館

 五月八日。


 体育の授業で、昌志はいつもより念入りに準備運動をした。


 黒い本には、こう書かれていた。


 五月八日 体育の授業で足をひねった日


 足をひねる。

 それだけなら大したことはないのかもしれない。

 けれど、痛いのはもう十分だった。


 昌志は無理に走らなかった。少し危ないと思った場面では、一歩引いた。普段なら勢いで取りに行くボールも、今日は追いすぎなかった。


 結果、足はひねらなかった。

 授業が終わった時、昌志は靴紐を結び直しながら小さく息を吐いた。


 これも避けられた。


 ■駅前


 五月十日。


 駅前の自販機で飲み物を買うと、機械が軽い音を立てた。


 数字が揃う。

 もう一本。


 昌志は一瞬、画面を見つめた。

 駅前の自販機でもう一本当たりを引いた日。


 黒い本に書かれていた通りだった。


 たった一本の飲み物。

 けれど、それでも当たりは当たりだった。


 昌志はもう一本分のボタンを押し、出てきた缶を鞄に入れた。


 コンビニくじ。

 商店街裏の回避。


 小テスト。

 体育。

 自販機。


 五月上旬の予定は、ほとんどうまくいった。


 大きな幸運ではない。

 誰かに自慢するほどでもない。


 でも、小さい幸運が積み重なると、毎日が少しずつ自分に都合よく動いているように感じた。

 学校からの帰り道、昌志は自販機の缶を鞄の中で転がしながら思った。


 少し前まで、自分は運がいい人間だとは思っていなかった。

 むしろ、どちらかといえば普通以下だと思っていた。


 珍しい名字で覚えられやすいくせに、何か特別なものがあるわけではない。

 福引で一等を引くような人間でもない。

 テストで狙ったところが出るような人間でもない。


 ただの高校生。


 それが自分だった。


 けれど、黒い本を持ってからは違う。

 幸運は、ただ待つものではなくなった。


 どこに落ちているか分かる。

 いつ拾えばいいか分かる。

 危ないものは避けられる。


 ■自宅


 ついていない自分でも、ついている側に回れる。

 家に帰ると、司がリビングでテレビを見ていた。


「お兄ちゃん、なんか今日機嫌いい?」

「別に」


「ふーん。なんかいいことあった?」

「小テストができただけ」


「へえ。珍しい」

「お前もかよ」


 昌志がそう言うと、司は楽しそうに笑った。


「だってお兄ちゃん、テストで機嫌よくなるタイプじゃないじゃん」

「うるさい」


「はいはい」


 司はまたテレビへ視線を戻した。


 昌志は自分の部屋へ向かった。

 扉を閉めると、鞄から黒い本を出す。


 机の上に置く。


 表紙は相変わらず黒い。

 古びているのに、妙にきれいだった。


 怖い本だとは思う。


 昨日の痛みを思い出せば、今でも腹の奥が冷える。


 でも、それ以上に。


 この本があれば、自分はもっと得をできる。

 失敗を避けられる。

 普通なら手に入らない幸運を、ちゃんと拾いに行ける。


 昌志はノートを開いた。


 コンビニくじ。

 小テスト。

 自販機。


 どれも小さい。

 人から見れば、大したことはない。


 けれど、小さい幸運でも積み重なれば、自分の毎日は少しずつ変わっていく。


 昌志はシャーペンを手に取って、ノートの端に書いた。

 

幸運は選べる。書いた文字を見て、胸の奥が少しだけ熱くなる。


 今までの自分は、ついていない側にいると思っていた。でも、これからは違うかもしれない。


 黒い本をうまく使えば。

 危ないものを避けて、いいことだけ拾っていけば。自分は、ついている男になれるかもしれない。

 

そう思って、昌志は黒い本のページをさらにめくった。


 五月中旬。


 そこには、今までより少しだけ大きく見える記載があった。


 五月十八日 駅前でテレビの街頭インタビューを受けた日

 五月二十日 駅前の本屋で知らない少女と話した日


 昌志は、しばらくその二行を見つめた。


 五百円の無料券とは、少し違う。

 自販機の当たりとも違う。

 胸の奥が、また別の熱を持ち始める。


 黒い本は、まだ先を見せていた。


 そして昌志は、その先をもう、見ないふりができなくなっていた。

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