第十四話 少しだけ有名になった日
五月十七日の夜。
昌志は、机の上に黒い本を広げていた。
五月上旬の予定は、ほとんどうまくいった。
コンビニくじで、五百円分の無料券を当てた。
商店街裏の細い道は避けた。
英語の小テストでは、黒い本に書かれていた範囲を勉強して、いつもよりずっと解けた。
体育で足をひねることも避けた。
自販機でもう一本当たりも引いた。
大きな幸運ではない。
人に自慢するほどのことでもない。
それでも、黒い本を使えば、自分の毎日は少しずつ都合よく動かせる。昌志は、そう思い始めていた。
「次は……」
五月中旬から下旬のページをめくる。
そこには、前よりも少し多い記載が並んでいた。
五月十八日 駅前でテレビの街頭インタビューを受けた日
五月十九日 英語の宿題を忘れて先生に注意された日
五月二十日 駅前の本屋で知らない少女と話した日
五月二十一日 圭佑との約束を忘れかけた日
五月二十二日 好きな芸能人を駅前で見かけた日
五月二十三日 帰り道で嫌な視線を感じた日
五月二十五日 スクラッチくじで一万円を当てた日
五月二十六日 母に最近のお金の使い方を聞かれた日
五月二十七日 クラスで少しだけ話題になった日
五月二十九日 四月二十八日の男に似た人物を見かけた日
「……増えてるな」
思わず声が出た。
五月上旬より、明らかに数が多い。
しかも、いいことの内容も少し大きくなっている気がした。
テレビの街頭インタビュー。
好きな芸能人。
スクラッチくじで一万円。
クラスで話題。
どれも、五百円の無料券や自販機の当たりとは少し違う。
胸の奥が、じわっと熱くなる。
けれど、同時に悪い記載も混ざっていた。
宿題忘れ。
圭佑との約束を忘れかける。
嫌な視線。
母に金の使い方を聞かれる。
四月二十八日の男に似た人物。
昌志はノートを開いた。
○。
△。
×。
もう、やり方は分かっている。
いいことは拾う。
危ないことは避ける。
迷うものは注意する。
五月十八日 テレビ街頭インタビュー ○
五月十九日 英語の宿題忘れ ×
五月二十日 知らない少女 △
五月二十一日 圭佑との約束忘れ △
五月二十二日 好きな芸能人 ○
五月二十三日 嫌な視線 △
五月二十五日 スクラッチくじ一万円 ○
五月二十六日 母に金の使い方を聞かれる ×
五月二十七日 クラスで話題 ○
五月二十九日 男に似た人物 ×
書いているうちに、気分が少し高くなった。
悪い記載もある。
でも、避ければいい。
それよりも、いい記載の方が気になる。
「テレビか……」
昌志は、五月十八日の記載をもう一度見た。駅前でテレビの街頭インタビューを受けた日。
テレビ。
街頭インタビュー。
自分がテレビに映るかもしれない。
そう思っただけで、落ち着かなくなった。
翌日。
五月十八日。
昌志は朝から少しそわそわしていた。
鏡の前で、いつもより長く髪を整える。
制服の襟も、何度か直した。
母に「今日は何かあるの?」と聞かれそうになり、慌てて鞄を持つ。
学校でも落ち着かなかった。
授業中、黒板を見ているふりをしながら、頭の中では駅前のことを考えていた。
街頭インタビューといっても、いつ、どこで声をかけられるのかは分からない。
黒い本には、駅前としか書かれていない。
放課後なのか。
夕方なのか。
北口なのか、南口なのか。
分からない。
けれど、行かなければ始まらない。
放課後になると、昌志はいつもより早く教室を出た。
「おい、昌志」
圭佑の声が聞こえた。
「今日、帰りに本屋寄るって言ってなかったっけ?」
「また今度」
「また今度って、お前最近それ多くない?」
「ちょっと用事」
「またちょっと用事かよ」
圭佑の声を背中で聞きながら、昌志は階段を下りた。
悪いとは思った。
けれど、今日は仕方ない。
テレビの街頭インタビューなんて、そう何度もあるものではない。
駅前に着くと、昌志は北口広場を少し歩いた。最初は何もなかった。
いつも通り、会社員や学生が行き来しているだけだ。やっぱり時間が違うのかもしれない。
そう思い始めた時、広場の端に小さな人だかりが見えた。
カメラ。
マイク。
スタッフらしき人。
胸の奥が跳ねた。
本当にいた。
昌志は、できるだけ自然にその近くを通った。近づきすぎると変だ。
でも遠すぎると声をかけられない。
何度か歩く位置を変えていると、マイクを持った女性がこちらを見た。
「あの、少しだけお時間いいですか?」
来た。
昌志は、心臓が跳ねるのを感じながら足を止めた。
「あ、はい」
「高校生の方ですよね。駅前の再開発について、若い人の意見を聞いているんですけど」
「再開発、ですか」
「はい。よくこの辺りは使いますか?」
「まあ、学校帰りにたまに」
声が少し上ずった。
自分でも分かった。
けれど、カメラがこちらを向いていると思うと、どうしても普通ではいられない。
質問は、思っていたよりも簡単だった。
駅前に増えてほしい店。
今の駅前で不便なところ。
学生が使いやすい場所はあるか。
昌志は、何とか答えた。
うまく言えたかどうかは分からない。
途中で一度、言葉に詰まった。
それでも、女性は笑顔で相槌を打ってくれた。
「ありがとうございました。放送で使わせていただくかもしれません」
「あ、はい」
それだけで終わった。
ほんの数分。
けれど、昌志には長く感じた。
スタッフたちが別の人に声をかけ始める。
昌志は広場を離れながら、何度も振り返った。
映るかもしれない。
テレビに。
自分が。
思わず口元が緩む。
黒い本に書かれていた通りだった。
駅前でテレビの街頭インタビューを受けた日。
本当に、受けた。
その夜、昌志は地元の情報番組を見た。
何となくテレビをつけただけだと言いながら、リビングに座っていた。
司が隣で菓子を食べている。
「お兄ちゃん、今日テレビなんか見るんだ」
「別に。たまたま」
「たまたま多いね、最近」
「うるさい」
番組の終盤で、駅前再開発の特集が流れた。
昌志は息を止める。
何人かの通行人のコメントが映る。
会社員。
子連れの女性。
大学生らしい二人組。
そして。
「あ」
司が声を上げた。
「お兄ちゃんじゃん」
画面に、昌志が映っていた。
数秒だけ。
駅前にもう少し座れる場所があるといい、と少し硬い顔で答えている。
思ったより声が変だった。
顔もぎこちない。
けれど、映っていた。
「え、何これ。いつの間に?」
「今日、駅前で聞かれただけ」
「何それ、テレビデビュー?」
「大げさ」
「お母さーん! お兄ちゃんテレビ出てる!」
「言わなくていい!」
司の声に、台所から母が顔を出した。
昌志は慌ててテレビの方を見たが、もう自分の映像は終わっていた。
それでも、胸の奥は熱かった。
たった数秒。
でも、たしかにテレビに映った。
翌日。
五月十九日。
教室に入ると、いつもと少し空気が違った。
「あ、岐阜が来た」
誰かがそう言った。
昌志は一瞬、身構えた。
「昨日テレビ出てなかった?」
窓際にいた男子が言った。
「見た見た。駅前のやつだろ」
「え、岐阜テレビ出たの?」
「ちょっとだけな」
昌志は、できるだけ平気な顔で答えた。
けれど、口元が緩みそうになるのを抑えるのが難しかった。普段あまり話さない女子まで、こちらを見た。
「岐阜くん、何聞かれたの?」
「駅前の再開発とか」
「緊張した?」
「まあ、少し」
「見たかった。どの番組?」
質問される。
名前を呼ばれる。
それだけで、妙に気分がよかった。
クラスの中心にいるわけではない。
人気者になったわけでもない。
けれど、昨日までより少しだけ、自分の方へ視線が向いている。
それが分かった。
圭佑が後ろから近づいてきた。
「お前、本当に出てたな」
「まあな」
「まあな、じゃねえよ。昨日の用事ってそれ?」
「たまたま声かけられただけ」
「お前のたまたま、最近多すぎだろ」
圭佑は軽く笑った。
でも、その目は少しだけ真面目だった。
「本当に大丈夫か?」
「何が」
「いや、なんか最近、変に浮いてるから」
「浮いてるって何だよ」
「調子に乗ってる、の方が近いかも」
「ひどいな」
「自覚あるだろ」
昌志は笑ってごまかした。
調子に乗っている。
そうかもしれない。
でも、悪い気はしなかった。
授業が始まる。
英語の時間。
先生が教室に入ってきた瞬間、昌志は嫌なことを思い出した。
五月十九日 英語の宿題を忘れて先生に注意された日 昨日の夜、テレビのことで頭がいっぱいだった。
宿題。
やっていない。
血の気が引いた。
「じゃあ、昨日の宿題を確認します」
先生の声が響く。
昌志は慌てて教科書とノートを開いた。
やっていない。
真っ白だ。
「岐阜」
「はい」
「宿題は?」
「……すみません。忘れました」
教室の何人かが小さく笑った。
先生は大きく怒りはしなかった。
「最近小テストは良かったんだから、こういうところもちゃんとしなさい」
「はい」
昌志は小さく答えた。
顔が少し熱い。
テレビに出たことで浮かれていた分、その注意が妙に恥ずかしかった。
けれど同時に、少し安心もしていた。
黒い本に書かれていた通りだ。
英語の宿題を忘れて先生に注意された日。
当たった。
悪いことも当たる。
なら、次から気をつければいい。
宿題忘れくらいなら、まだ避けられる。
■自宅
昌志は家に帰ると、すぐに黒い本を開いた。
クラスで少し話題になった余韻が、まだ体に残っている。
テレビに映った。
みんなに聞かれた。
普段話さない女子にも名前を呼ばれた。
それだけで、少し自分が変わったような気がした。
黒い本は、金だけではなかった。
当たりや無料券だけでもなかった。
人から見られることも、拾える。
そう思うと、胸の奥がまた熱くなる。
昌志は五月二十日の記載を見た。
五月二十日 駅前の本屋で知らない少女と話した日
そこで、指が止まった。
知らない少女。
その言葉だけで、四月二十八日のことを思い出す。
知らない女に声をかけられた日。
有頂天になって、失敗した日。
金を取られた日。
財布を拾った時のように、また何か足りない情報があるのかもしれない。 危ないなら、最初から避けた方がいい。
「これは……駄目だろ」
昌志はノートを開き、×を書こうとした。
けれど、ペン先は紙に触れる直前で止まった。
場所は駅前の本屋。
路地ではない。
脇道でもない。
財布でもない。
金でもない。
男が出てくるとも書かれていない。
ただ、知らない少女と話した日。
それだけだった。
「……話すだけなら」
小さくつぶやく。
前とは違う。
今度は浮かれない。
名前も簡単には教えない。
変な場所にはついていかない。
少しでも危ないと思ったら、すぐ帰る。
そうすれば、大丈夫なはずだ。
昌志は、×の横に小さく△を書いた。
それでも、しばらくその一行から目を離せなかった。
テレビに映った時の熱が、まだ少し残っている。その熱が、警戒心の隙間に入り込んでくる。
黒い本に書かれている未来を、また一つ確かめたい。
昌志は、そう思ってしまっていた。




