第十五話 知らない少女と話した日
五月二十日。
朝、昌志は机の上で開いた黒い本を見ていた。
今日の日付のところには、短くこう書かれている。
五月二十日 駅前の本屋で知らない少女と話した日
何度見ても、その一行だけだった。
男が出てくるとは書かれていない。
金を取られるとも書かれていない。
路地へ行くとも書かれていない。
ただ、駅前の本屋で知らない少女と話した日。
「……知らない少女」
昌志は、小さくつぶやいた。
その言葉だけで、四月二十八日のことを思い出す。知らない女に声をかけられた日。
有頂天になって、道案内をして、金を取られた日。
同じ失敗はしない。
そう決めている。
だから本当なら、これは×でいい。
知らない相手。
女。
会話。
危ない要素は揃っている。
けれど、場所は駅前の本屋だった。
人通りもある。
店員もいる。
逃げ道もある。
何より、昨日のテレビインタビューがうまくいったせいで、昌志の中にはまだ少し浮ついた熱が残っていた。
「話すだけなら……」
そこまで言って、昌志は口を閉じた。
この言い方が危ないのは分かっている。
四月二十八日も、最初はそうだった。
道案内くらいなら。
名前くらいなら。
近くまでなら。
そうやって少しずつ近づいて、失敗した。
だから、今日は決めておく。
店の外には出ない。
名前は簡単に教えない。
連絡先も教えない。
少しでも変だと思ったら帰る。
昌志はノートを開いた。
五月二十日 知らない少女 △
そこに、小さく書き足す。
本屋から出ない。
書いた文字を見て、少しだけ安心する。
ルールを決めれば大丈夫だ。
今度は、前とは違う。
■駅前・本屋
放課後、昌志は駅前の本屋へ向かった。
入り口には、新刊のポスターが貼られている。自動ドアが開くと、紙とインクの匂いがした。
店内はそれなりに混んでいた。
学生もいる。
会社帰りらしい大人もいる。
レジには店員が二人いる。
危ない場所ではない。
昌志はまず、それを確認した。
黒い本に書かれているからといって、何が起きるのかは分からない。だが、少なくともここなら四月二十八日のようにはならないはずだ。
昌志は参考書の棚へ向かった。
本当は、何かを買うつもりはなかった。
ただ、自然にそこにいる理由がほしかった。棚の前で英語の参考書を手に取り、ぱらぱらとめくる。
内容はあまり頭に入ってこない。
知らない少女。
その言葉が、ずっと頭の隅に残っている。
しばらくして、少し離れた棚の前で、一人の少女が立ち止まっているのが見えた。
短めの髪。
制服は昌志の学校のものではない。
近くの女子校の制服だろうか。
雰囲気は、少し少年っぽかった。
背筋はまっすぐで、手には小さなメモ帳を持っている。棚番号か何かを書き込んでいるらしく、メモと棚を何度も見比べていた。
困っているように見える。
ただ、店員を呼ぶほどでもないらしい。
少女は本棚の前を一歩ずつ移動し、またメモを見て、首をかしげた。
几帳面そうだな、と昌志は思った。
それから、少しだけ迷った。
あれが、黒い本に書かれていた少女なのだろうか。
声をかけるべきか。
声をかけないべきか。
しばらく見ていると、少女の指が一冊の本の背表紙の前で止まった。けれど、すぐに別の棚へ戻る。 どうやら探している本が見つからないらしい。
昌志は、自分でも意外なくらい自然に声をかけていた。
「あの」
少女が振り返る。
目が合った。
大きな反応はない。
ただ、少し警戒するように、メモ帳を胸の前に寄せた。
「探してる本、もしかしてこのシリーズですか?」
昌志は、棚の端に置かれている文庫を指した。少女はメモと本を見比べる。
「……近いです。でも、違います」
「あ、違いましたか」
「ただ、出版社は同じです」
「じゃあ、こっちかも」
昌志は、少し奥の棚を指した。
同じ出版社のフェア台が別の場所に作られていた。以前ここで本を探した時、同じように棚番号と実際の場所がずれていたことを思い出したのだ。
少女は昌志の指した先を見て、歩いていく。昌志も、少し離れてついていった。
もちろん、店の中だけだ。
少女はフェア台の前で足を止めた。
そこに、探していたらしい本があった。
「……ありました」
「よかったです」
少女は本を手に取って、表紙を確認した。メモ帳に小さく何かを書き込む。
本当に几帳面だ。
「ありがとうございます」
「あ、いえ。たまたま知ってただけなんで」
「たまたまですか」
「はい」
最近、自分はこの言葉をよく使う。
そう思って、少しだけ変な気分になった。
少女は本を抱え直し、昌志を見た。
「……ようです」
「よう?」
「はい」
名前なのか、名字なのか。
昌志には分からなかった。
用事の用、という字が一瞬浮かんだが、口には出さなかった。
今ここで変なことを言うと、会話が妙な方向へ行きそうだった。
「俺は……」
言いかけて、昌志は止まった。
名前は簡単に教えない。
朝、ノートにそう書いたばかりだ。
けれど、相手は名乗った。
店の中だ。
普通の会話だ。
四月二十八日とは違う。
「岐阜です」
結局、名字だけ言った。
「岐阜さん」
「はい」
「珍しい名字ですね」
「よく言われます」
そのやり取りに、昌志は少しだけ身構えた。四月二十八日にも、似たような会話をした。
けれど、少女はそれ以上踏み込んでこなかった。
「ありがとうございました、岐阜さん」
「あ、はい」
少女は軽く頭を下げると、レジの方へ歩いていった。それだけだった。
男は出てこない。
金も絡まない。
連絡先も聞かれない。
ただ、本を探していた少女を少し助けて、名前を聞いただけ。昌志はその場に立ったまま、少し拍子抜けしていた。
「……これだけ?」
小さくつぶやく。
黒い本に書かれていたのに、何も得をしていない。
無料券もない。
当たりもない。
テレビにも映らない。
ただ、ようという名前だけが残った。
■学校・教室
五月二十一日。
朝、昌志は黒い本を見て、手を止めた。
五月二十一日 圭佑との約束を忘れかけた日
「……圭佑との約束?」
確かに、何かあった気がする。
放課後。
圭佑。
どこかへ行く。
そこまでは浮かぶ。
けれど、肝心の内容が出てこない。
本屋だったか。
ファミレスだったか。
何かを貸す話だったか。
参考書を見る話だったか。
分からない。
昌志は黒い本を閉じた。
まずい。
圭佑には最近、かなり怪しまれている。
ここで「何の約束だっけ」と聞いたら、絶対に言われる。
お前、忘れてただろ。
それだけは避けたい。
忘れていたことが問題なのではない。忘れていたことを、圭佑に知られることが問題なのだ。
昼休み。
昌志は、圭佑の席へ向かった。
「圭佑」
「ん?」
「今日の放課後だけどさ」
まずは覚えているふりをする。
内容には触れない。
こちらから具体的に言うと墓穴を掘る。
「時間、どうする?」
圭佑はスマホから顔を上げた。
「時間?」
「ああ。すぐ行くのか、一回どっか寄るのか」
頼む。
何か言え。
どこへ行くのか分かる言葉を出せ。
昌志は、内心で祈った。
圭佑は少し考えてから言った。
「混む前に行った方がよくないか。ファミレス」
ファミレス。
それか。
昌志は表情を変えないようにした。
「ああ、だよな」
「お前が相談あるって言ったんだろ。最近、勉強どうするか迷ってるとか何とか」
そうだった。
思い出した。
英語の小テストができたあと、昌志は調子に乗って、少し勉強してもいいかもしれないと言った。
その流れで、圭佑が「じゃあ放課後にでも話すか」と言ったのだ。
完全に忘れていた。
黒い本を見なければ、たぶん放課後まで思い出さなかった。
「そうそう。それ」
「それって何だよ」
「いや、勉強の話。ファミレスなら落ち着いて話せるし」
「お前、ほんとに相談する気ある?」
「あるって」
「ならいいけど」
圭佑はまだ少し疑わしそうだったが、それ以上は突っ込んでこなかった。
昌志は、心の中で息を吐いた。
危なかった。
忘れていたことを、知られずに済んだ。
黒い本のおかげで。
そう思った瞬間、安心した。
けれど同時に、胸の奥が少しだけざわついた。
圭佑との約束まで、黒い本を見ないと思い出せない。それは助かったと言っていいのか。それとも、まずいところまで来ていると言うべきなのか。
昌志はすぐに、その考えを押し込めた。
とにかく、今回は回避できた。
それでいい。
■駅前・ファミレス
放課後、昌志と圭佑は駅前のファミレスに入った。 圭佑はドリンクバーを取りに行き、昌志は席に座る。
窓の外には、駅前の通りが見えた。
昨日、ようと会った本屋もこの近くにある。
ふと、昌志は思い出した。
短い髪。
几帳面そうなメモ帳。
少し少年っぽい雰囲気。
よう。
名前なのか名字なのか、結局よく分からないままだった。
「何ぼーっとしてんだよ」
戻ってきた圭佑に言われ、昌志は顔を上げた。
「別に」
「相談するんじゃなかったのか」
「ああ」
「で、何。勉強? 進路?」
「まあ、その辺」
「ざっくりしすぎだろ」
圭佑は呆れたように言った。
昌志は苦笑いする。
本当は、相談したいことなどまとまっていなかった。
約束の内容すら忘れていたくらいだ。
それでも、何とかそれらしい話をした。
英語の参考書は何がいいか。
今からどのくらい勉強すればいいか。
圭佑は意外と真面目に答えてくれた。
「まあ、やるなら毎日ちょっとずつだろ」
「毎日か」
「当たり前だろ。急に全部できるようにはならねえよ」
その言葉に、昌志は少しだけ引っかかった。急に全部できるようにはならない。
普通は、そうだ。
普通なら、毎日少しずつやるしかない。
でも黒い本があれば、出るところが分かる。当たる場所が分かる。幸運が落ちている日が分かる。
昌志は、カップの中の氷をストローで揺らした。
「お前、聞いてる?」
「聞いてる」
「本当かよ」
「本当」
圭佑は少し目を細めたが、それ以上は言わなかった。約束は、何とか乗り切った。
忘れていたことも、たぶん気づかれていない。昌志はそう思うことにした。
■岐阜家・昌志の部屋
夜。
昌志は黒い本を開いた。
五月二十一日の記載は、もう終わった。
圭佑との約束を忘れかけた日。
確かに、忘れかけていた。
でも、黒い本のおかげで間に合った。
そう考えると、やはりこの本は使える。
小さな幸運を拾うだけではない。
失敗しそうなことも、事前に知ることができる。
昌志は、次のページへ視線を移した。
五月二十二日 好きな芸能人を駅前で見かけた日
その一行を見た瞬間、胸の奥が少し軽くなった。
好きな芸能人。
テレビで何度も見たことがある人。
駅前で見かけるだけかもしれない。
話せるわけではないかもしれない。
それでも、普通ならまず起きないことだった。
テレビに映った。
知らない少女と話した。
圭佑との約束も、何とかごまかせた。
そして明日は、好きな芸能人を駅前で見かける日。昌志は黒い本を閉じずに、しばらくその一行を見ていた。
明日は、悪い日じゃない。
そう思えるだけで、眠るのが少し惜しくなった。




