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第十六話 好きな芸能人を駅前で見かけた日

 五月二十二日。


 朝、昌志は黒い本を開いていた。


 昨日のことを思い出す。

 圭佑との約束を忘れかけた日。


 正確には、約束があったことは黒い本で思い出した。けれど、内容までは忘れていた。


 ファミレスで勉強の相談をする。それを思い出すために、昌志は圭佑との会話でうまく探った。


 時間はどうするのか。一回どこかへ寄るのか。そうやって、圭佑に忘れていたと悟られないように、約束の中身を聞き出した。


 危なかった。


 もし黒い本を見ていなければ、たぶん完全に忘れていた。放課後、圭佑に声をかけられてから、慌てていたはずだ。そうなれば、間違いなく怪しまれた。


 ――お前、忘れてただろ。

 そう言われていたかもしれない。


「こういう使い方もあるんだな」


 昌志は、小さくつぶやいた。黒い本は、幸運を拾うためだけのものではない。危ないことを避けるためだけでもない。


 忘れかけていた約束を思い出す。

 人の機嫌を損ねる前に、先回りする。

 自分の失敗を、起きる前に知る。


 そういう使い方もできる。


 昨日は、それで助かった。

 圭佑に忘れていたことを知られずに済んだ。


 それだけでも十分だった。


 昌志は、次の記載を見る。


 五月二十二日 好きな芸能人を駅前で見かけた日


 何度読んでも、胸の奥が少し浮いた。

 テレビで何度も見たことがある人。


 バラエティ番組にも出ているし、最近はドラマにも出ている。


 昌志が特別なファンだと大声で言うほどではないが、出ているとつい見てしまうくらいには好きな芸能人だった。


 それを駅前で見かける。


 話せるわけではないだろう。

 握手できるわけでもないだろう。


 それでも、普通ならまず起きないことだ。

 テレビに映った次は、芸能人を見かける。


 黒い本を持つ前の自分なら、そんなことは想像もしなかった。


「……今日は、悪くない日になりそうだな」


 昌志はそう言って、黒い本を閉じた。


 ■学校・教室


 授業中、昌志は何度も時計を見た。

 黒い本には、駅前で見かけたとしか書かれていない。


 何時なのか。

 どのあたりなのか。

 北口なのか、南口なのか。

 駅ビルの中なのか、広場なのか。


 そこまでは分からない。


 けれど、駅前にいなければ見られない。

 それだけは確かだった。


 黒板の文字をノートに写しながらも、頭の中では放課後の予定を考えていた。


 まず北口広場。

 その後、駅ビルの入口。

 時間があれば南口にも回る。

 テレビ局のロケなら、人だかりができているかもしれない。


 そこまで考えて、昌志は少しだけ笑いそうになった。

 まるで、自分で張り込みでもするみたいだ。


 でも、悪くない。

 幸運は、待っているだけでは拾えない。


 場所と時間を合わせて、取りに行くものだ。


「岐阜」


 先生に名前を呼ばれた。


「はい」


「今のところ、分かるか?」

「あ……すみません」


 教室の何人かが小さく笑った。

 昌志は慌てて教科書を見る。


 油断した。

 でも、今日の本命は授業ではない。


 そう思ってしまった自分に、少しだけ引っかかった。

 けれど、その引っかかりはすぐに消えた。


 放課後になれば、駅前へ行ける。

 それだけで、残りの授業は長く感じた。


 ■駅前


 放課後、昌志は駅前へ向かった。


 北口広場には、いつも通り人が多かった。


 会社員。

 学生。

 買い物帰りの人。

 待ち合わせをしているらしい男女。


 昨日テレビに映った場所も、同じ広場の端にある。

 昌志は、何となくそこを避けて歩いた。


 またテレビ関係者がいるわけではない。

 分かっていても、昨日のことを思い出すと、少しだけ顔が熱くなった。


 駅ビルの入口へ回る。


 何もない。


 南口へ行く。


 そこにも、それらしい人だかりはない。


「時間、違うのか……?」


 昌志はスマホで時刻を確認した。

 まだ夕方だ。

 もう少し待てる。


 今日は、見かける日なのだ。


 黒い本にそう書かれている。

 なら、どこかで起きるはずだった。


 昌志は、駅前を何度も歩いた。


 北口。

 駅ビル。

 バスロータリー。


 商店街の入口。

 また北口。


 途中で、自分が少し馬鹿みたいに思えてきた。


 好きな芸能人を見かける。

 それだけのために、駅前をうろうろしている。


 誰かに見られたら、何をしているのかと思われるかもしれない。

 けれど、足は止まらなかった。


 ここで帰ってしまったら、黒い本に書かれた幸運を逃すことになる。

 それだけは嫌だった。


 商店街の入口近くまで戻った時だった。

 前方で、数人が足を止めていた。


 小さなざわめきがある。

 昌志は、反射的にそちらを見た。


 黒いワゴン車。

 その横に、スタッフらしき人が二人。

 そして、帽子をかぶった人物が、建物の入口から出てきた。


 最初は分からなかった。

 でも、横顔が見えた瞬間、昌志の心臓が跳ねた。


「あ……」


 テレビで見たことがある。

 何度も見たことがある。


 好きな芸能人だった。

 帽子をかぶっていても、マスクをしていても、分かる。


 スタッフに囲まれながら、その人はワゴン車へ向かって歩いていた。

 周りの人たちも気づき始める。


「え、あれそうじゃない?」


「本物?」


「ロケ?」


 誰かが小さく言う。

 昌志は、その場から動けなかった。


 話しかけることはできない。

 写真を撮るのも違う気がした。


 ただ、見る。

 ほんの数秒。


 それだけだった。


 芸能人はワゴン車に乗り込んだ。

 ドアが閉まり、車はゆっくり走り出す。


 それで終わりだった。

 けれど、昌志の胸はしばらく高鳴っていた。


 本当に見た。

 黒い本に書かれていた通りだった。


 テレビに映った。

 好きな芸能人も見かけた。


 自分の毎日が、少しずつ普通ではなくなっている。

 そう思うと、嬉しさと怖さが混ざったような感覚がした。

 でも、その時は嬉しさの方が強かった。


「……やっぱ、すごいな」


 誰にも聞こえないように、昌志はつぶやいた。

 黒い本は、まだ当たっている。


 それも、ただの五百円や自販機だけではない。


 テレビ。

 芸能人。


 自分の生活には本来なかったはずのものが、黒い本を通して近づいてくる。

 昌志は、その感覚に少し酔っていた。


 ■岐阜家・昌志の部屋


 夜。


 昌志は黒い本を開いた。

 五月二十二日の記載は、もう終わった。


 好きな芸能人を駅前で見かけた日。

 本当に見かけた。


 話せたわけではない。

 何かをもらったわけでもない。


 けれど、それでも十分だった。


 黒い本がなければ、あの時間に駅前をうろつくことはなかった。


 あの場所で待つこともなかった。

 偶然見かけることもなかった。

 幸運は、やはり選べる。


 そう思った。


 昌志は、次の記載へ視線を移す。


 五月二十三日 帰り道で嫌な視線を感じた日


 急に、胸の奥が冷えた。

 嫌な視線。


 誰からだ。


 四月二十八日の男たちか。

 五月二日に財布を奪った不良か。


 それとも、まったく別の誰かか。


 昌志はノートを開いた。


 五月二十三日 嫌な視線 ×


 そう書きかけて、手が止まった。


 避ける。

 それは簡単だ。


 帰り道を変えればいい。

 人通りの多い道を選べばいい。

 誰かと一緒に帰ればいい。


 そうすれば、嫌な視線を感じずに済むかもしれない。

 でも、それでは分からない。


 誰が見ているのか。

 なぜ見ているのか。

 自分が狙われているのか。


 それとも、ただの気のせいなのか。


 嫌な視線。

 その言葉が、妙に引っかかった。


 黒い本は、危険の避け方までは教えてくれない。

 けれど、危険が近くにあることは教えてくれる。


 なら、その正体を確認できれば。

 次から、もっと上手く避けられるかもしれない。


 昌志は、×の横に小さく△を書いた。


 五月二十三日 嫌な視線 △


 避けるのではない。

 確かめる。

 そう決めた。


 ■学校・教室


 五月二十三日。


 朝から、昌志は落ち着かなかった。

 昨日の芸能人のことを思い出すと、少し気分が浮く。


 けれど、そのすぐ後に、黒い本の記載が頭をよぎる。

 帰り道で嫌な視線を感じた日。


 誰かに見られる。

 それが分かっている。


 普通なら避けるべきだ。

 分かっている。

 でも、避け続けていたら、何も分からないままだ。


 四月二十八日も、五月二日も、黒い本は危険の形をはっきり教えてくれなかった。


 だから今度は、自分で確かめる。


 誰が見ているのか。

 どこから見ているのか。

 何のために見ているのか。


 それを知りたい。


「お前、今日もなんか落ち着かないな」

 圭佑に言われた。


「そうか?」


「そうだろ」


「寝不足」


「便利だな、その言い訳」


 圭佑は呆れたように言った。


 昌志は笑ってごまかした。


 圭佑には言えない。

 今日、誰かに見られるらしいから、それを確かめに行く。


 そんなことを言えば、絶対に止められる。

 止められたら困る。


 今日は、自分で確かめなければならない。


 ■帰り道


 放課後、昌志は一人で学校を出た。


 人通りの多い道を選ぶこともできた。

 駅まで圭佑と一緒に帰ることもできた。


 けれど、今日はあえていつもの帰り道を選んだ。

 黒い本に書かれていた「帰り道」がどこを指すのかは分からない。


 だから、普段通りの道を通るしかない。

 商店街を抜け、駅前へ向かう道。


 途中に、細い路地がいくつかある。

 四月二十八日以降、その路地を見るだけで少し体がこわばるようになった。


 それでも、昌志は歩いた。

 周囲を見る。


 前。

 後ろ。


 道の反対側。

 店のガラス。

 自転車置き場。


 誰かいるか。

 誰か見ているか。


 最初は、何も感じなかった。

 ただの帰り道だった。


 会社帰りの人が歩いている。

 買い物袋を持った女性が店から出てくる。

 自転車に乗った中学生が通り過ぎる。


 普通だ。


 何もない。


 やっぱり避けてもよかったのかもしれない。

 そう思いかけた時だった。


 背中のあたりが、すっと冷えた。

 見られている。

 そう感じた。


 根拠はない。


 誰かと目が合ったわけでもない。

 足音が近づいたわけでもない。


 けれど、確かに視線のようなものがあった。


 昌志は、すぐには振り返らなかった。

 急に振り返れば、相手に気づかれるかもしれない。

 いや、もう気づかれているのかもしれない。


 心臓が速くなる。


 店のガラスに映る後ろの景色を見た。


 人はいる。

 けれど、誰がこちらを見ているのか分からない。


 学生。

 会社員。

 自転車の男。

 店先に立っている人。


 全員が普通に見える。


 誰も、自分を見ているようには見えない。

 でも、視線は消えなかった。

 昌志は歩く速度を少し変えた。


 速くする。


 すると、背中の冷たさも少しだけ強くなった気がした。

 今度はゆっくり歩く。

 それでも、視線は残っている。


 誰だ。


 どこから見ている。


 なぜ俺を見る。


 交差点で立ち止まる。

 信号は赤だった。


 昌志はそこで、ようやく振り返った。


 人がいる。

 けれど、誰もこちらを見ていなかった。

 誰も不自然ではなかった。


 それが、逆に怖かった。


 視線を感じたのに、相手が分からない。

 そこにいるはずなのに、見つけられない。


 青信号になっても、昌志はすぐに動けなかった。

 後ろにいた人が、何人か昌志を避けて歩いていく。


 ただの通行人。

 たぶん、ただの通行人。


 でも、本当にそうなのか。

 昌志には分からなかった。


 結局、家に着くまで視線の正体は分からなかった。


 四月二十八日の男たちなのか。

 五月二日の不良なのか。


 まったく知らない誰かなのか。

 それとも、黒い本を気にしすぎて、自分が勝手にそう感じただけなのか。


 どれもあり得た。

 どれも、違う気がした。


 ■岐阜家・昌志の部屋


 部屋に入ると、昌志はすぐに黒い本を開いた。


 五月二十三日。


 帰り道で嫌な視線を感じた日。

 確かに感じた。


 黒い本は当たっていた。

 でも、やはり肝心なことは書いていなかった。


 誰が見ていたのか。

 どこから見ていたのか。


 なぜ自分なのか。

 何も分からない。


 昌志は、ノートに書いた。


 五月二十三日 嫌な視線 △ 正体不明


 ペン先が、そこで止まる。


 視線を感じただけ。

 ただ、それだけだ。


 それなのに、胸の奥がずっとざわついている。

 黒い本に書かれているから起きたのか。


 それとも、黒い本を持っているから見られているのか。


 昌志は、床に置いた鞄へ視線を向けた。

 その中に、黒い本がある。


 いや、今は机の上にある。

 けれど、鞄を見ただけで、背中がまた冷えた。


 誰かが、自分を見ていた。

 それは確かだと思う。


 でも、その誰かが分からない。

 なぜ、自分なのかも分からない。


 昌志は黒い本を閉じた。

 部屋は静かだった。


 それでも、どこかからまだ見られているような気がした。

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