第十七話 当たるのが分かっていたみたいでした
五月二十五日。
朝、昌志は黒い本を開いた。
五月二十五日 スクラッチくじで一万円を当てた日
短い一行だった。
スクラッチくじ。
一万円。
その文字を見ただけで、昌志の胸の奥が少し熱くなる。
来月には、一万円が必要だった。
四月二十八日の男たちに、本当に払うべきなのかは分からない。
警察に言うべきなのかもしれない。
圭佑に相談するべきなのかもしれない。
それでも、今の昌志にはまだできなかった。
だから、一万円は大きい。
しかも今回は、財布を拾うわけではない。
知らない女についていくわけでもない。
路地に入るわけでもない。
ただ、スクラッチくじを買うだけだ。
「これは、さすがに安全だろ」
昌志はノートを開いた。
五月二十五日 スクラッチくじ一万円 ○
迷う必要はなかった。
■駅前・宝くじ売り場
放課後、昌志は駅前へ向かった。
宝くじ売り場は、駅ビルの入口近くにあった。
派手な看板。
小さな窓口。
その前に、何人かが並んでいる。
昌志は少し離れたところで、周囲を確認した。
怖そうな男はいない。
四月二十八日の男たちもいない。
五月二日の不良もいない。
普通の駅前だった。
それでも、一度だけ後ろを見る。
誰かに見られている気はしなかった。
五月二十三日の嫌な視線以来、昌志は背後が少し気になるようになっていた。
けれど今日は大丈夫そうだった。
昌志は列に並んだ。
順番が来る。
「スクラッチ、一枚ください」
窓口の女性が、スクラッチくじを一枚差し出す。
昌志は金を払って、それを受け取った。
手の中の紙は、思ったより軽い。
この薄い紙に、一万円が乗っている。
そう思うと、少しだけ変な感じがした。
近くの台に移動し、財布から十円玉を取り出す。
銀色の部分を削る。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
昌志の手が止まった。
絵柄が揃っている。
何度か確認する。
間違いない。
一万円。
「……よし」
声は小さかった。
大きく喜ぶつもりだった。
もっと驚くと思っていた。
けれど実際に当たると、思ったより冷静だった。
黒い本に書かれていた。
だから、当たることは分かっていた。
嬉しくないわけではない。
ただ、驚きは少なかった。
昌志はくじを持って、もう一度窓口へ向かった。
「当たりですね。一万円です」
女性が確認して、現金を渡してくれる。
一万円札。
昌志はそれを財布にしまった。
これで一万円。
来月の分にはなる。
少しだけ息が楽になる。
その時だった。
「……当たったんですか?」
背後から声がした。
昌志は振り返った。
そこに、あの少女がいた。
短めの髪。
少し少年みたいな雰囲気。
昌志とは違う学校の制服。
駅前の本屋で会った、よう。
「またお前か」
思わずそう言うと、少女は眉をひそめた。
「お前は失礼です」
「あ、悪い」
「それと、よう、ようって呼ぶのも、あまり連呼しないでください」
「いや、まだ一回も呼んでないけど」
「顔に出てました」
「顔に?」
「呼びそうな顔でした」
昌志は少し黙った。
何だそれ、と思った。
でも、この少女は真面目な顔をしている。
冗談なのか本気なのか分かりにくい。
「じゃあ、何て呼べばいいんだよ」
「それは、また今度でいいです」
「今決めろよ」
「今は必要ありません」
きっぱり言われた。
几帳面なのか、変なのか。
まだよく分からない。
少女は昌志の財布の方を少し見た。
「それ、本当に当たったんですか?」
「まあ。一万円」
「一万円ですか?」
ようは、少しだけ目を丸くした。
その反応を見て、昌志はようやく自分があまり喜んでいなかったことに気づいた。
普通、一万円が当たったらもっと驚くのかもしれない。
もっと声を上げるのかもしれない。
少なくとも、今のように「よし」だけで済ませるものではない気がした。
「いや、普通に嬉しいけど」
「そうは見えませんでした」
「見えないって何が」
「まるで、当たるのが分かっていたみたいでした」
心臓が、一瞬だけ止まった気がした。
昌志は、すぐに顔を逸らした。
「そんなわけないだろ」
「そうですか」
「当たったから驚いてるし」
「驚いている顔には見えませんでした」
「顔に出にくいだけだよ」
「そうなんですか」
ようは、まだ少し不思議そうに見ている。
その視線が、五月二十三日の嫌な視線とは違うのに、妙に落ち着かなかった。
疑われている。
そう思った。
黒い本のことを知られているわけではない。
けれど、何かがおかしいと思われている。
それが分かる。
昌志は慌てて話を変えた。
「何か食べるか」
「え?」
「一万円当たったし。アイスくらいなら」
言ってから、少しだけ変な誘い方だったと思った。
相手は中学生くらいに見える。
いや、制服を見る限り高校生かもしれないが、雰囲気が少し幼く見えるのだ。
少年みたいで、妙に落ち着いていて、でも言うことは細かい。
ようは少し考えたあと、売り場の近くにあるアイスの看板を見た。
「高いのはやめます」
「別にいいって」
「一万円が当たったからといって、無駄遣いしていい理由にはなりません」
「几帳面だな」
「普通です」
「普通かな」
「普通です」
ようは真顔で言った。
昌志は少し笑った。
その笑いは、思ったより自然に出た。
近くの店で、二人はアイスを買った。
昌志は少し高いものにしようとしたが、ようは一番安いカップアイスを選んだ。
「本当にそれでいいのか」
「はい。食べきれる量なので」
「そこも基準なんだな」
「食べきれないものを買う意味がありません」
「まあ、そうだけど」
二人は駅前のベンチに少しだけ座った。
話したことは、大したことではない。
駅前の本屋のこと。
探していた本が面白かったかどうか。
学校がこの近くなのかどうか。
ようは、近くの女子校に通っているらしい。
年までは分からなかった。
聞くタイミングもなかった。
「じゃあ、私はこれで」
アイスを食べ終えると、ようは立ち上がった。
「帰るのか」
「はい。寄り道は一か所までと決めています」
「何それ?」
「帰りが遅くなるので」
「几帳面だな」
「普通です」
また同じ言い方をした。
ようは軽く頭を下げる。
「ごちそうさまでした」
「ああ」
「それと」
「何」
「一万円、なくさない方がいいです」
「分かってるよ」
「顔が少し、浮いているので」
「顔に出すぎだろ、俺」
「出ています」
ようはそう言って、駅の方へ歩いていった。
昌志はその背中を見送った。
黒い本に、ようと会うとは書いていなかった。
スクラッチくじで一万円を当てた日。
ただ、それだけだった。
なのに、今日一番頭に残ったのは、一万円よりも、ようの言葉だった。
『まるで、当たるのが分かっていたみたいでした。』
昌志は、財布の中の一万円を指で確かめた。
確かに当たった。
けれど、それを見られていた。
そのことの方が、少しだけ気になった。
■岐阜家・昌志の部屋
夜。
昌志は黒い本を開いた。
五月二十五日。
そこには、やはり一行だけがあった。
五月二十五日 スクラッチくじで一万円を当てた日
ようのことは、どこにも書かれていない。
駅前で会ったこと。
当たりを見られたこと。
アイスを奢ったこと。
まるで当たるのが分かっていたみたいだと言われたこと。
何も書かれていない。
「……書いてないんだよな」
昌志は小さくつぶやいた。
黒い本には、重要なことが書かれる。
そう思っていた。
少なくとも、昌志にとって意味のある出来事は載るのだと思っていた。
でも、ようとの再会は載っていなかった。
それなのに、妙に頭から離れない。
昌志はページをめくった。
五月二十六日 母に最近のお金の使い方を聞かれた日
「これは……まずいな」
一万円がある。
財布の中に、今日当てた一万円がある。
母に見られたら面倒だ。
最近、コンビニくじで無料券を当てたり、自販機でもう一本当てたり、テレビに映ったり、少しずつ目立つことが増えている。
そこに一万円。
どう考えても怪しまれる。
昌志はノートを開いた。
五月二十六日 母に金の使い方を聞かれる ×
その横に書く。
一万円は財布に入れたままにしない。
余計な買い物をしない。
母の前で金の話をしない。
書いてから、少しだけ安心した。
分かっていれば避けられる。
黒い本は、やはり使える。
さらに次のページを見る。
五月二十七日 クラスで少しだけ話題になった日
昌志は、その一行で手を止めた。
クラスで話題。
テレビの時は、確かに少しだけ話題になった。
だが、これは五月二十七日だ。
テレビの話題がまた出るのか。
それとも、別のことなのか。
スクラッチくじの一万円が知られるのか。
ように言われたこととは、関係があるのか。
「……何の話だ?」
分からない。
でも、少し気になる。
話題になる。
その言葉には、まだ甘い響きがあった。
テレビに映った時、クラスで名前を呼ばれた。
普段あまり話さない女子にも声をかけられた。
あの感覚を、昌志はまだ覚えている。
だから警戒するより先に、少し期待してしまった。
五月二十六日は、母に怪しまれないようにする。
五月二十七日は、何かの話題になる。
そう考えながら、昌志は黒い本を閉じた。
スクラッチくじの一万円よりも、ようの言葉が残っている。
そのことに気づかないふりをしながら、昌志は明後日の記載をもう一度だけ思い出した。
クラスで少しだけ話題になった日。
それが何の話なのか、少しだけ楽しみになっていた。
■岐阜家・リビング
五月二十六日。
夕食のあと、昌志はなるべく普通にしていた。
財布の中の一万円は、机の引き出しの奥に隠してある。
今日は余計な買い物もしていない。
コンビニにも寄らなかった。
母の前で財布も出していない。
大丈夫だ。
そう思っていた時だった。
「昌志」
母が、洗い物をしながら言った。
「最近、お金の使い方、大丈夫?」
心臓が跳ねた。
来た。
黒い本の記載通りだ。
昌志は、できるだけ平静を装った。
「大丈夫って?」
「この前から、ちょこちょこ買い食いしてるでしょ。司が言ってたわよ。コンビニでお菓子買ってたとか、アイス食べてたとか」
司。
余計なことを。
そう思ったが、顔には出さないようにした。
「そんなに使ってないよ」
「本当?」
「うん。無料券とか使ったし」
「無料券?」
「コンビニのくじで当たったやつ」
「ああ、そうなの」
母は少し納得したようだった。
昌志は心の中で息を吐く。
一万円のことではない。
まだ大丈夫だ。
「受験もあるんだから、無駄遣いしすぎないようにね」
「分かってる」
「必要なものがあるなら言いなさい」
「うん」
会話はそこで終わった。
大きく疑われたわけではない。
ただ、軽く聞かれただけだった。
それでも、昌志の背中には汗がにじんでいた。
黒い本を見ていなければ、もっと動揺していたかもしれない。
一万円を財布に入れたままだったら、何かの拍子に見られていたかもしれない。
やはり、分かっていれば避けられる。
昌志はそう思った。
そう思うことで、少し落ち着いた。
■岐阜家・昌志の部屋
部屋に戻ると、昌志は引き出しを開けた。
一万円札は、そこにある。
無事だった。
母には見つかっていない。
今日も、何とか回避できた。
昌志は黒い本を開く。
五月二十六日 母に最近のお金の使い方を聞かれた日
たしかに聞かれた。
でも、深くは追及されなかった。
準備していたからだ。
黒い本を見ていたからだ。
昌志はページをめくる。
五月二十七日 クラスで少しだけ話題になった日
やはり、その一行が気になる。
母の追及は回避できた。
一万円も隠せた。
明日は、クラスで話題になる。
それが良い話なのか、悪い話なのかは分からない。
でも、昌志は少しだけ期待していた。
黒い本に書かれている以上、何かが起きる。
そして最近の自分は、その何かをうまく拾えるようになっている。
そう思っていた。
机の上で、黒い本は静かに開いている。
昌志はその一行を見つめたまま、明日の教室のことを考え続けていた。




