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第十八話 少しだけ話題になった日

 五月二十七日。


 朝、昌志は黒い本を開いた。


 五月二十七日 クラスで少しだけ話題になった日

 短い一行だった。


 クラスで少しだけ話題。

 何のことなのかは、はっきりしない。


 テレビの街頭インタビューのことかもしれない。

 駅前で好きな芸能人を見かけたことかもしれない。


 それとも、まったく別のことかもしれない。

 ただ、悪い記載ではなさそうだった。


 少なくとも、四月二十八日の男たちや、不良や、嫌な視線のようなものではない。


「少しだけ、か」


 昌志は小さく笑った。


 人気者になる、とは書かれていない。

 有名になる、とも書かれていない。


 少しだけ話題。


 けれど、今の昌志にはそのくらいでも十分だった。

 テレビに映った時、クラスで名前を呼ばれた。


 普段あまり話さない女子にも声をかけられた。

 あの感覚を、昌志はまだ覚えている。


 黒い本を持つ前の自分には、たぶんなかった時間だ。


 昌志は黒い本を閉じた。

 今日も、悪い日ではない。


 そう思って、鞄を持った。


 ■学校・教室


 教室に入ると、すぐに何人かの視線がこちらへ向いた。


「あ、岐阜来た」


 誰かが言った。

 昌志は一瞬、身構えた。


 だが、その声に嫌な感じはなかった。


「お前、また駅前で何かあったんだって?」


「また?」


 昌志は聞き返した。


「ほら、この前テレビ出てたじゃん」


「ああ」


「今度は芸能人見たって聞いたんだけど」


 その声で、周囲が少しだけ反応した。


「え、誰?」


「本物?」


「写真撮った?」


「いや、撮ってない」


「えー、もったいな」


 普段なら話しかけてこない女子まで、こちらを見る。


「岐阜くん、最近駅前で何か起きすぎじゃない?」


「たまたまだよ」


 昌志はそう答えた。

 自然に言えたと思う。


 けれど、内心では違う。

 たまたまではない。


 テレビの街頭インタビューも、好きな芸能人を見かけたことも、黒い本に書かれていた。


 だから駅前へ行った。

 だから見られた。


 だから今、こうして話題になっている。


「なんか最近、岐阜ってついてるよな」


 男子の一人が言った。


「テレビ出て、芸能人見て、小テストもできてたし」


「小テストは関係ないだろ」


「いや、でも急にできてたじゃん」


「ちょっと勉強しただけだって」


 昌志は笑ってごまかした。

 小テストも黒い本に書かれていた。


 教科書のどこから出るか分かっていた。

 だから勉強できた。


 それを、誰にも言えない。

 言えないのに、言われる。


 ついてる。

 最近調子いい。


 そう見られる。

 胸の奥が、少しだけ熱くなった。


 悪い気はしなかった。

 むしろ、かなり気分がよかった。


 黒い本は、金だけをくれるわけではない。


 こういうものもくれる。


 人から見られること。

 話しかけられること。


 自分が少しだけ、いつもと違う場所にいるように感じること。

 それも、幸運なのだと思った。


 圭佑が自分の席からこちらを見ていた。

 笑ってはいる。

 けれど、目は少しだけ真面目だった。


「お前、最近ほんと駅前多いな」


「駅前くらい、誰でも行くだろ」


「まあな。でもお前の場合、行くたび何か起きてる気がする」


「気のせい」


「そうだといいけど」


 圭佑はそれ以上、強くは言わなかった。

 ただ、その言い方が少しだけ引っかかった。


 そうだといいけど。

 昌志は笑って流した。


 今日は、話題になる日だ。

 黒い本にそう書かれていた。


 だから、これでいい。


 これは、悪い出来事ではない。

 そう思うことにした。


 授業が始まってからも、何度か視線を感じた。

 嫌な視線ではない。


 誰かがこちらを見て、少し笑って、また前を向く。


 ただそれだけだ。


 五月二十三日に感じた視線とは違う。

 あれは背中が冷たくなるような視線だった。


 今日のこれは、少しむずがゆい。

 けれど、嫌ではなかった。


 昼休みになると、また何人かが話しかけてきた。


「芸能人、本当に近かったの?」


「まあ、車に乗るところ見ただけだけど」


「いいなあ」


「名前呼んだ?」


「呼ぶわけないだろ」


「写真もなし?」


「なし」


「岐阜くん、真面目だね」


 女子にそう言われて、昌志は少し困ったように笑った。


 真面目。

 たぶん、違う。


 写真を撮らなかったのは、ただ余裕がなかったからだ。

 でも、悪くない言われ方だった。


 少しだけ、自分がちゃんとしている人間に見られた気がした。


 黒い本を使って駅前をうろついていたことなど、誰も知らない。


 知っているのは、自分だけだ。

 だから、これはうまくいっている。


 そう思った。


 ■岐阜家・昌志の部屋


 その夜、昌志は黒い本を開いた。

 五月二十七日の記載は、終わった。


 クラスで少しだけ話題になった日。


 その通りだった。

 大げさなものではない。

 人気者になったわけでもない。


 けれど、確かにいつもより少しだけ、自分の方へ視線が集まった。


 それは、気持ちよかった。


 昌志はノートに書き込む。

 五月二十七日 クラスで少しだけ話題 ○ 成功


 成功。 

 その二文字を見て、少し口元が緩む。


 最近、うまくいっている。

 そう思った。


 コンビニくじ。

 小テスト。

 テレビ。


 芸能人。

 クラスで話題。


 黒い本をうまく使えば、これまで自分とは関係なかったものが少しずつ近づいてくる。

 それが分かってきた。


 昌志は、次の記載を確認した。


 五月二十九日 四月二十八日の男に似た人物を見かけた日


 その一行を見た瞬間、口元の緩みが消えた。


 四月二十八日の男。

 派手な柄のシャツ。

 黒いパーカー。


 人の女に何してんの、と低い声で言った男たち。


 現金と商品券を取られた。

 毎月一万円払えと言われた。

 連絡先も交換させられた。


 あの日のことは、まだ腹の奥に残っている。


「これは、ない」


 昌志はすぐにノートを開いた。


 五月二十九日 男に似た人物 ×

 迷う必要はなかった。


 似た人物を見かける。

 ただそれだけかもしれない。

 本当に本人ではないかもしれない。


 向こうはこちらに気づかないかもしれない。


 けれど、関わる必要はない。

 危険そうなものは避ける。

 それが今のルールだ。


 昌志は、その横に書き足した。


 駅前北口は避ける。

 商店街脇道も避ける。

 人通りの多い道を使う。


 圭佑と一緒に帰れそうなら一緒に帰る。


 そこまで書いて、少し安心した。


 黒い本には危険の避け方までは書かれていない。

 だから、自分で考えればいい。


 前よりはうまくやれる。

 そう思った。


 五月二十八日は、特に何も起きなかった。

 黒い本にも、何も書かれていなかった。


 昌志は、少し拍子抜けした。


 何もない日。

 それはそれで、少し落ち着かなかった。


 最近の昌志は、朝起きると黒い本を見る。


 今日、何かあるのか。

 何を拾えばいいのか。

 何を避ければいいのか。


 それを確認する。


 何も書かれていない日は、自由なはずだった。

 なのに、何をすればいいのか少し分からなくなる。


 それに気づいて、昌志はすぐに黒い本を閉じた。


「……別に、普通でいいだろ」


 そう言ったが、言葉は少し弱かった。


 何もない一日は、ただ過ぎた。

 それだけだった。


 五月二十九日。


 昌志は朝から、いつもより周囲を気にしていた。

 四月二十八日の男に似た人物を見かけた日。


 見かけるだけ。

 それでも、見たくなかった。


 学校でも、圭佑に声をかけるタイミングを探した。


 ■学校・教室


「圭佑、今日帰りどうする?」


「何だよ急に」


「いや、駅前まで一緒に行くなら行こうかなって」


「珍しいな。お前最近、用事あるって先に消えること多かったのに」


「今日はない」


「ふーん」


 圭佑は少しだけこちらを見た。

 疑われている気がした。


 けれど、今日はそれでもよかった。

 一人で帰るよりはましだ。


 放課後、昌志は圭佑と一緒に学校を出た。


 ■帰り道


 駅前北口は避けた。

 商店街の脇道も避けた。


 人通りの多い道を選び、できるだけ圭佑の横を歩いた。


「今日、なんか遠回りじゃね?」


「そうか?」


「そうだろ。いつもならそっち曲がるじゃん」


「今日はこっちの気分」


「気分ねえ」


 圭佑は何か言いたそうだったが、結局それ以上は聞いてこなかった。

 昌志は歩きながら、何度も周囲を見た。


 派手な柄のシャツ。


 黒いパーカー。

 明るく染めた髪。


 似た背格好の人間を見るたびに、胸が縮む。


 けれど、黒い本に書かれていた人物は見かけなかった。

 いや、見かけずに済んだ。



 駅前を抜け、家の近くまで来たところで、昌志はようやく息を吐いた。


 回避できた。

 そう思った。


 五月二十九日 四月二十八日の男に似た人物を見かけた日


 その記載を、起こさずに済んだ。


 黒い本に書かれた未来を、避けられた。

 やはり、分かっていれば何とかなる。


 危険なものには近づかなければいい。


 この本は危ない。

 でも、使い方を間違えなければ、自分を守ることもできる。


 昌志はそう考えた。


 ■岐阜家・昌志の部屋


 夜、昌志は黒い本を開いた。


 五月二十九日の記載を見返す。

 四月二十八日の男に似た人物を見かけた日。


 今日、その人物は見ていない。

 少なくとも、昌志は見なかった。


 回避できた。

 ノートにそう書く。


 五月二十九日 男に似た人物 × 回避


 それから、昌志はしばらく手を止めた。

 五月のページが、そろそろ終わる。


 四月十六日に、黒い本を買った。

 四月十七日に、福引で一等を引いた。


 四月二十八日に、知らない女に声をかけられて失敗した。

 五月二日に、財布を拾って殴られた。


 それでも、五月の後半にはまた小さな幸運を拾い続けた。


 テレビに映った。

 芸能人を見かけた。

 スクラッチくじで一万円を当てた。


 クラスで少しだけ話題になった。


 危ないものも、いくつか避けられた。


 うまくやれている。

 そう思う。



 昌志は、六月のページを開いた。

 そこには、六月上旬の記載が並んでいた。


 六月二日 数学の小テストで問題集四十二ページから四十五ページの類題が出た日


 六月三日 朝、圭佑に「最近付き合い悪い」と言われた日


 六月五日 駅前の抽選で映画のペアチケットを当てた日


 六月六日 母に机の上のノートを見られそうになった日


 六月八日 現代文の確認テストで授業プリント三枚目の内容が出た日


 六月九日 帰り道で四月二十八日の男たちの声に似た笑い声を聞いた日


 昌志は、最初に六月二日の記載を見た。


 数学の小テスト。

 問題集四十二ページから四十五ページの類題。


 次に、六月八日。

 現代文の確認テスト。


 授業プリント三枚目の内容。


「……こういうのが欲しかったんだよ」


 思わず、声が漏れた。

 金が当たるのもいい。


 テレビに映るのも、芸能人を見かけるのも悪くない。

 でも、これは違う。


 出るところが分かる。

 そこを勉強すれば、点が取れる。


 答えを盗むわけではない。

 問題を見ているわけでもない。


 自分で覚えて、自分で書くだけだ。

 これなら、誰にも怪しまれない。


 母にも、圭佑にも、先生にも。


 昌志は六月のページから目を離せなかった。


 いい記載だけではない。


 圭佑に付き合い悪いと言われる日。

 母にノートを見られそうになる日。


 男たちの声に似た笑い声を聞く日。

 悪いものも混ざっている。


 でも、それは避ければいい。

 今までだって、いくつか避けられた。


 それより、テストの範囲が分かることの方が大きい。


 黒い本は、まだ使える。

 いや、使い方は、まだ増えていく。


 昌志はノートの新しいページを開いた。


 六月用の予定表を作るために、ペンを握った。

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