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第十九話 普通の人には読めない本

 五月三十日。


 昌志は、朝から黒い本を開いていた。


 五月のページは、もうほとんど終わっている。四月に黒い本を買ってから、まだ一か月半も経っていない。


 それなのに、ずいぶん長い時間が過ぎたような気がした。


 福引で一等を引いた。


 落とし物を届けて、礼をもらった。


 知らない女に声をかけられ、金を取られた。


 財布を拾って、不良に殴られた。


 テレビに映った。

 芸能人を見かけた。


 スクラッチくじで一万円を当てた。

 クラスで少しだけ話題になった。


 いいこともあった。

 悪いこともあった。


 けれど、最近の昌志は、少しずつ分かってきたつもりでいた。


 いいことだけ拾えばいい。

 危ないものは避ければいい。


 迷うものは、事前に準備すればいい。


 黒い本は危ない。

 でも、使える。


 昌志は六月のページを開いた。


 六月一日から十日までの記載が、いつものように並んでいる。


 六月一日 朝の雨を避けて濡れずに登校できた日


 六月二日 数学の模擬テストで、対策した問題の型がいくつも出た日


 六月三日 駅前の抽選で映画のペアチケットを当てた日


 六月四日 圭佑と駅前で遊ぶ約束をしていた日


 六月六日 駅前で千円札を拾った日


 六月八日 駅前の本屋で探していた本を見つけた日


 六月九日 夕方、知らない番号から着信があった日


 六月十日 寝不足で授業中に当てられ、答えに詰まった日


「……結構あるな」


 思わず声が出た。

 五月の最初より、明らかに記載が多い。


 十日のうち、ほとんどの日に何かが起こる。


 雨を避ける。

 映画のペアチケットを当てる。

 圭佑との約束。


 千円札。

 本屋。

 知らない番号。

 寝不足。


 いいことも、悪いことも、混ざっている。


 その中で、昌志の目は一つの記載に止まった。


 六月二日。


 数学の模擬テストで、対策した問題の型がいくつも出た日。


 数学の模擬テスト。


 小テストではない。

 ただの確認問題でもない。


 点が出る。

 たぶん順位も出る。


 先生にも見られるし、場合によっては進路の話にも関わる。


 昌志は、そのページの本文を開いた。


 ――六月二日。


 ――数学の模擬テストでは、前日に解いていた対策問題集の型がいくつも出た。


 ――完全に同じ問題ではなかった。


 ――けれど、駅前の本屋で買った『高校数学・模擬テスト対策問題集』の四十二ページから五十六ページまでが、かなり近かった。


 ――二次関数の最大値と最小値。


 ――確率の組み合わせ。


 ――図形と方程式の融合問題。


 ――三角比を使う応用問題。


 ――解き方の流れを覚えていたから、最初の一手で迷わずに済んだ。


 昌志は、そこで息を止めた。

 答えが書いてあるわけではない。


 問題そのものが載っているわけでもない。

 けれど、何をやればいいかは分かる。


 どの問題集を買えばいいか。

 何ページから何ページまでやればいいか。

 どの単元を重点的に覚えればいいか。


 それが分かる。


「……こういうのが欲しかったんだよ」


 声が漏れた。


 金が当たるのもいい。テレビに映るのも、芸能人を見るのも悪くない。


 けれど、これは違う。


 点数になる。

 成績になる。

 自分の力が上がったように見える。


 しかも、答えを盗むわけではない。

 問題を先に見ているわけでもない。


 勉強するのは自分だ。

 覚えるのも自分だ。


 模擬テストで解くのも自分だ。


 なら、これはズルではない。

 効率がいいだけだ。


 昌志はノートを開いた。


 六月二日 数学模擬テスト ○


 高校数学・模擬テスト対策問題集


 四十二〜五十六ページ


 二次関数、確率、図形と方程式、三角比


 書き込んでいくうちに、手が少し震えた。


 怖いからではない。

 期待しているからだ。


 もし、これで点が取れたら。


 もし、いつもの自分では取れない点が取れたら。


 黒い本は、金や偶然だけではなく、自分の成績まで変えられることになる。


 昌志は、すぐに着替えた。

 この問題集を買いに行く。


 六月二日まで、まだ少しある。

 今から始めれば、間に合う。


 駅前の本屋に入ると、昌志はまっすぐ参考書の棚へ向かった。


 黒い本に書かれていたタイトルを、頭の中で繰り返す。


『高校数学・模擬テスト対策問題集』


 棚を探す。


 数学。

 高校三年。

 模試対策。


 似たタイトルの本がいくつかあった。


 昌志は少し焦った。


 黒い本には、タイトルが書いてあった。

 けれど、出版社までは見ていなかった。


 いや、書いてあったのかもしれない。自分がそこまで読まなかっただけかもしれない。


 棚の前で何冊も手に取り、目次を確認する。


 四十二ページ。

 二次関数の最大値と最小値。


 四十六ページ。

 確率の組み合わせ。


 五十ページ。

 図形と方程式。


 五十四ページ。

 三角比の応用。


「あった」


 小さく声が出た。


 黒い本に書かれていた流れと合っている。


 これだ。


 昌志は問題集をレジへ持っていった。


 代金を払う時、財布の中の一万円のことを思い出した。


 スクラッチくじで当てた金だ。

 母には隠している。


 男たちに渡すかもしれない金でもある。


 けれど、これは必要な買い物だ。


 模擬テストで点を取るための投資だ。


 そう自分に言い聞かせて、昌志は問題集を鞄に入れた。


 帰り道、ふと本屋の入口の方を見た。


 ようはいなかった。

 それが少しだけ気になった。


 黒い本に書かれていないのだから、会うはずがない。


 そう思う。


 でも、いないと確認してしまった自分に、少し引っかかった。


 家に戻ると、昌志はすぐに自分の部屋へ向かった。


 机に鞄を置き、黒い本を開く。


 数学の模擬テストの記事をもう一度確認する。


 対策問題集。


 四十二ページから五十六ページ。


 昌志は、買ってきた問題集を開いた。


 二次関数。

 確率。

 図形と方程式。

 三角比。


 普段なら、見ただけで少し嫌になるページだった。


 けれど、今日は違う。

 ここをやればいい。


 そう分かっているだけで、気持ちが軽かった。


 全部やらなくていい。

 広い範囲を闇雲に潰さなくていい。

 出る型だけを覚えればいい。


 昌志はシャーペンを握った。

 最初の問題に取りかかる。


 一問目は時間がかかった。


 二問目も、途中で詰まった。


 けれど、解説を読めば、何となく流れは分かる。


 最大値と最小値をどこで見るのか。

 確率をどう分けるのか。

 図形と方程式をどうつなげるのか。


 覚えるべきなのは、答えではない。

 解き方の型だ。


 昌志はノートに手順を書いた。


 何度も書いた。


 途中で集中が切れるたび、黒い本の文章を見る。


 ――解き方の流れを覚えていたから、最初の一手で迷わずに済んだ。


 その一文を見ると、また机に向かえた。


 六月二日、自分は解ける。

 その未来が、もう書かれている。

 なら、そこへ向かえばいい。


 夕方になり、母に一度呼ばれた。


「昌志、ちょっと買い物行くけど、何かいる?」


「別に」


「夕飯まで寝ないでよ」


「寝ない」


 そう答えたが、母の足音が遠ざかると、昌志はすぐに問題集へ戻った。気づけば、机の上はかなり散らかっていた。


 黒い本。

 数学の問題集。


 ノート。

 消しゴムのカス。

 シャーペン。


 途中から、黒い本を閉じるのも面倒になっていた。


 開いたまま、横に置いておく。

 見たい時にすぐ見られる。

 その方が楽だった。


 昌志は問題を解き続けた。


 四十二ページ。

 四十三ページ。

 四十四ページ。

 四十五ページ。


 だんだん頭が重くなってくる。


 目が乾く。

 それでも、手を止めなかった。


 いつもの自分なら、ここまでやらない。

 けれど今は違う。


 やれば点になると分かっている。


 それが、こんなにも強い理由になるとは思わなかった。


 少しだけ横になろう。

 そう思ったのがまずかった。


 ベッドに腰を下ろした。

 そのまま、背中を倒した。


 天井を見た。


 次に目を開けた時には、部屋の明るさが変わっていた。


「……やば」


 昌志は飛び起きた。


 少し寝るつもりが、かなり時間が経っていた。


 机を見る。

 問題集は開いたまま。

 ノートもそのまま。


 だが、黒い本がない。


「え」


 心臓が跳ねた。


 机の上を探す。


 問題集の下。

 ノートの横。

 椅子の下。


 ない。


 黒い本がない。


 昌志は一気に目が覚めた。


 まさか。

 誰かが。


 その時、部屋の外から母の声がした。


「昌志、起きてる?」


「あ、うん」


「さっき部屋、少し開いてたわよ。換気するならちゃんと窓も開けなさい」


 昌志はドアを開けた。


「母さん、俺の本知らない?」


「本?」


「机の上にあった黒いやつ」


「ああ。開きっぱなしだったから、棚に戻しておいたわよ」


 息が止まりかけた。


「……中、見た?」


 できるだけ普通に聞いたつもりだった。


 でも、声が少し硬かった。


 母は不思議そうに首をかしげた。


「見たっていうか、開きっぱなしだったから閉じただけよ。古本?」


「うん」


「中、真っ白だったけど、あれ何? ノート?」


「……真っ白?」


「ええ。何も書いてなかったわよ。表紙だけ変わってるから、何かのメモ帳かと思った」


 昌志は、すぐに返事ができなかった。


 真っ白。


 母には、そう見えた。

 圭佑と同じだ。


 圭佑にも、中身は白紙に見えていた。


 母にも読めない。

 普通の人には、やっぱり読めない。


「何? 大事な本だった?」


「いや。別に」


「開きっぱなしにしておくからよ。夕飯できたら呼ぶから、もう少ししたら下りてきなさい」


「分かった」


 母はそのまま階段を下りていった。


 昌志はドアを閉める。


 棚を見る。

 黒い本は、そこにあった。


 背表紙をこちらに向けて、普通の本みたいに並んでいる。


 昌志はゆっくり手を伸ばし、棚から取り出した。


 表紙を見る。


『僕はまだ、この本を書いていない』


 いつも通りだった。


 机に戻り、ページを開く。


 六月二日。


 数学の模擬テストで、対策した問題の型がいくつも出た日。


 文字は、ちゃんとそこにあった。


 母が真っ白だと言ったページに、昌志には文字が見えている。


 黒い本の文字が、はっきりと並んでいる。


 昌志は、思わず息を吐いた。


 安心した。


 読まれなかった。

 知られなかった。


 この本の中身は、自分以外には見えない。

 それが分かった。


 けれど、その安心は少し変だった。


 誰にも読まれないなら安全だ。


 そう思う一方で、それは、誰にも分かってもらえないということでもある。


 圭佑にも。

 母にも。


 この本に何が書かれているのか、誰も分からない。


 昌志がどれだけ怖がっても。


 どれだけ期待しても。

 どれだけ頼っても。


 誰にも、その理由は見えない。


 それでも、今は安心の方が大きかった。


 昌志は黒い本を机の中央に置いた。


 問題集をもう一度開く。


 四十二ページから五十六ページ。


 まだ全部は終わっていない。


 でも、何をやればいいかは分かっている。


 六月二日までに、ここを覚えればいい。


 そうすれば、数学の模擬テストで点が取れる。いつもの自分では取れない点を。クラスの誰かが、少し驚くくらいの点を。


 昌志はシャーペンを握った。


 母には読めなかった。

 圭佑にも読めなかった。

 でも、自分には読める。


 それは怖いことのはずだった。


 けれど今の昌志には、特別に選ばれているようにも思えた。


 黒い本を閉じる気には、なれなかった。


 昌志はもう一度、六月二日の記事を読み返した。


 文字は、さっきと同じように黒く並んでいる。


 この本は、まだ自分だけのものだ。


 そう思うと、ページをめくる指に、また力が入った。

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