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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

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第20話 六月のページは黒く塗られていた


 六月一日。


 朝、昌志は黒い本を開いた。


 昨日の夜は、数学の模擬テストのことで頭がいっぱいだった。


 六月二日。


 数学の模擬テストで、対策した問題の型がいくつも出た日。


 その記載を読んでから、昌志は駅前の本屋で対策問題集を買い、四十二ページから五十六ページまでを何度も解いた。


 まだ完璧ではない。


 けれど、何をやればいいか分かっているだけで、いつもの勉強とは全然違った。


 黒い本は、やはり使える。


 そう思っていた。


 だから今朝も、当然のように六月のページを開いた。


 そこで、昌志の手が止まった。


「……何だ、これ」


 六月のページが、黒かった。


 昨日まで読めていたはずの記載が、全部消えている。


 六月二日の数学の模擬テスト。


 六月三日の映画のペアチケット。


 六月四日の圭佑との約束。


 その先にあったはずの予定も、すべて見えない。


 ページ全体に、黒い墨を薄く塗ったような色が広がっていた。


 文字があるのかもしれない。


 けれど、読めない。


 昌志は慌ててページを戻した。


 五月のページを見る。


 そこも、昨日までとは違っていた。


 箇条書きではない。


 五月十八日、駅前でテレビの街頭インタビューを受けた日。


 五月二十五日、スクラッチくじで一万円を当てた日。


 そういう見出しのようなものではなく、ちゃんとした文章になっている。


 黒い本には、こうあった。


━━━━━━━━━━━━━━

――五月二十五日。


僕は駅前の宝くじ売り場で、

スクラッチくじを買った。


黒い本に書かれていた通り、

一万円が当たった。


当たることを知っていたせいで、

僕は思ったほど驚けなかった。


その様子を、

前に本屋で会った少女に見られていた。


彼女は、

まるで当たるのが

分かっていたみたいだと言った。

━━━━━━━━━━━━━━


 昌志は、息を止めた。


 ようのことまで書かれている。


 五月二十五日の見出しには、スクラッチくじのことしかなかったはずだ。


 でも、完成した文章には、ようのことが入っていた。


 逆に、避けた出来事は見当たらない。


 商店街裏の細い道で、目つきの悪い男とすれ違うはずだった日。


 四月二十八日の男に似た人物を見かけるはずだった日。


 そういう記載は、本文のどこにも残っていなかった。


 少なくとも、今見えている文章には、自分が実際に経験したことが残っている。


 昌志は、さらにページをめくった。


 福引。


 落とし物。


 知らない女。


 財布。


 テレビ。


 芸能人。


 一万円。


 四月から五月までに起きたことが、昌志の行動として文章になっていた。


 まるで、自分の自叙伝がいつの間にか完成していたみたいだった。


 その先のページの端に、短い文章があった。


━━━━━━━━━━━━━━

これは予定表ではない。


これは、

まだ書かれていない自叙伝である。

━━━━━━━━━━━━━━


 昌志は、その文章を何度か読んだ。


「……自叙伝?」


 喉が、少し乾いた。


 予定表ではない。


 今まで昌志は、黒い本をそういうものとして使ってきた。


 先の予定を見る。


 良いものを拾う。


 悪いものを避ける。


 そのための本だと思っていた。


 けれど、黒い本は違うと言っている。


 まだ書かれていない自叙伝。


「意味分かんねえよ」


 声が少し掠れた。


 昌志は、もう一度六月のページへ戻った。


 やはり、六月以降は真っ黒だった。


 ただ、六月一日のページだけに、うっすらと文字が浮かんでいる。


 黒い本には、二つの記載があった。


━━━━━━━━━━━━━━

――六月一日、朝。


雨の匂いに気づいた。


少し早く家を出れば、

靴も鞄も濡れずに済む。

━━━━━━━━━━━━━━


 その下には、もう一つ。


━━━━━━━━━━━━━━

――六月一日、朝。


玄関で母に呼び止められる。


少し面倒な話を聞く代わりに、

家の声は扉の奥に残らない。

━━━━━━━━━━━━━━


「……二つ?」


 昌志は眉を寄せた。


 同じ六月一日。


 同じ朝。


 けれど、記載が二つある。


 一つは、雨を避ける朝。


 もう一つは、母に呼び止められる朝。


「これ、どういうことだ?」


 昌志は、二つの文章をもう一度読んだ。


 少し早く家を出れば、雨を避けられる。


 玄関では、母に呼び止められる。


 二つとも同じ朝のことだ。


 けれど、どちらを優先するかで、自分の行動は変わるかもしれない。


 早く家を出ようとすれば、母の話をゆっくり聞いている時間はない。


 母の話を最後まで聞けば、雨に間に合わないかもしれない。


「選べってことか?」


 それとも、ただ二つの出来事が書かれているだけなのか。


 昌志には分からない。


 昨日までなら、先の日付までめくればよかった。


 その中から、良いものを選べばよかった。


 けれど、今は今日のページしか読めない。


 しかも、そこには二つの文章がある。


「何なんだよ、これ」


 昌志は顔をしかめた。


 それでも、何を優先するかと言われれば、迷うほどでもなかった。


 母の話は、あとでも聞ける。


 雨に濡れるのは、今朝しか避けられない。


「濡れる方が嫌だろ」


 昌志はそう呟いて、黒い本を閉じた。


 今日は六月一日。


 数学の模擬テストは明日だ。


 今は、昨日買った問題集をもう少しやる方が大事だった。


 黒い本の意味不明な変化に振り回される必要はない。


 そう思って、昌志は鞄を持った。


***


 階段を下りると、台所から母の声がした。


「昌志、ちょっといい?」


 足が止まった。


 玄関で母に呼び止められる。


 黒い本の二つ目の文章が、頭に浮かんだ。


「何?」


「最近、朝ごはん残し気味じゃない? 眠そうだし、大丈夫?」


「大丈夫。今日ちょっと早く出る」


「早く?」


「数学、見直したいから」


「あんまり無理しないでよ」


「分かってる」


 昌志は、母の方をちゃんと見なかった。


 見ると、何か聞かれそうだった。


 寝不足のこと。


 最近、部屋にこもっていること。


 机の上に問題集やノートを広げっぱなしにしていること。


 そういう話になりそうだった。


 だから、昌志は靴を履いた。


「行ってきます」


「あ、昌志」


 もう一度、母の声がした。


 けれど昌志は、玄関のドアを開けた。


「遅れるから」


 そう言って、外へ出た。


 空は、少し暗かった。


 雨の匂いがした。


 昌志は鞄を肩にかけ直し、駅へ向かって歩き出した。


 途中で、ぽつりと雨粒が落ちた。


 けれど、本格的に降り出す前に、昌志は駅へ着いた。


 電車を降り、学校へ向かう頃には、雨は強くなっていた。


 周囲の生徒たちは、傘を差したり、鞄を頭に乗せたりして走っている。


 昌志は濡れなかった。


 靴も鞄も、ほとんど濡れていない。


 黒い本に書かれていた通りだった。


 少し早く家を出れば、靴も鞄も濡れずに済む。


 確かに、その通りだった。


 けれど、もう一つも起きていた。


 玄関で母に呼び止められた。


 ただ昌志は、その話を最後まで聞かなかった。


 雨を避ける方を優先して、家を出た。


 それだけだった。


 なのに、母の声が妙に頭に残った。


***


 教室に入ると、圭佑がすでに席にいた。


「おはよ」


「ああ」


 昌志は鞄を置き、自分の席に座った。


 圭佑がこちらを見る。


「今日、早いな」


「雨降りそうだったから」


「珍しく正解じゃん。俺、途中でちょっと濡れた」


「まあな」


 昌志は軽く返した。


 机の中から問題集を出す。


 数学の対策問題集。


 四十二ページから五十六ページ。


 昨日から何度も見た範囲だ。


 圭佑がそれを見て、少し意外そうな顔をした。


「お前、朝から数学?」


「明日、模擬テストだし」


「急に真面目だな」


「悪いかよ」


「悪くはないけど」


 圭佑はそう言って、自分のスマホを見た。


「あ、そうだ。昨日送ったやつ見た?」


「昨日?」


 昌志は手を止めた。


「夜。今週の予定どうするかって」


「ああ……」


 見ていない。


 いや、通知は見た気がする。


 でも、数学の問題集と黒い本のことで頭がいっぱいだった。


 返した記憶がない。


「悪い。見たけど、返すの忘れてた」


「最近それ多くない?」


「そうか?」


「多いだろ」


 圭佑は軽く言っただけだった。


 怒っているわけではない。


 けれど、その声はいつもより少し短かった。


「まあ、あとででいいけど」


「分かった」


 昌志はうなずいた。


 圭佑が前を向く。


 昌志は問題集に目を落とした。


 母の話を途中で切り上げて家を出た。


 圭佑への返事も遅れていた。


 それは、黒い本に書かれていた二つの朝とは別の話のようにも思える。


 けれど、本当にそうなのかは分からない。


 今朝、自分は雨を避けることを優先した。


 そのために、母との話を切り上げた。


 数学を優先しているうちに、圭佑への返事も後回しになっていた。


 全部、少しずつ繋がっている気がした。


 昌志は、その考えを追い払うようにシャーペンを握った。


 今日は数学をやる。


 それだけでいい。


***


 放課後、昌志は寄り道をせずに帰った。


 雨はもう上がっていた。


 今日は、駅前で何かを拾う日でもない。


 誰かに会う日でもない。


 少なくとも、朝に見た二つの記載には、そういうことは書かれていなかった。


 部屋に戻ると、昌志はすぐに問題集を開いた。


 二次関数。


 確率。


 図形と方程式。


 三角比。


 同じような問題を何度も解く。


 昨日よりは、少し手が動くようになっていた。


 解き方の型を覚える。


 それが大事だ。


 答えそのものではない。


 考え方を覚える。


 そうすれば、明日の数学の模擬テストで使える。


 夕方になって、スマホが震えた。


 圭佑からだった。


『今週の件、どうする?』


 短い文。


 昌志は少し迷った。


 数学を続けたい。


 今は、集中が切れるのが嫌だった。


 けれど、朝のことを思い出す。


 最近それ多くない?


 圭佑にそう言われた。


 これ以上、返事を遅らせるのはまずいかもしれない。


 昌志は短く返した。


『明日テスト終わったら決める』


 しばらくして、圭佑から返事が来た。


『了解』


 それだけだった。


 いつもなら、もう少し何かついている気がする。


 スタンプとか、軽い文句とか。


 でも今日は、それだけ。


 昌志はスマホを伏せた。


 胸の奥が少しざわつく。


 けれど、すぐに問題集へ戻った。


 今は数学だ。


 明日の点が取れればいい。


 それが一番大事だ。


 そう言い聞かせた。


***


 夜。


 夕飯を食べ、風呂に入り、また机に戻る。


 黒い本は閉じたまま、机の端に置いてあった。


 朝に見た二つの文章を、昌志は何度か思い出していた。


 雨の匂いに気づく。


 母に呼び止められる。


 二つとも、実際に起きた。


 ただ、自分がどう動いたかは違った。


「……まさか」


 昌志は黒い本を開いた。


 六月一日のページを見る。


 朝に見た文章は、もうなかった。


 代わりに、六月一日の出来事が文章になっている。


━━━━━━━━━━━━━━

――六月一日。


僕は、雨の匂いに気づいて、

少し早く家を出た。


おかげで、

靴も鞄も濡れずに済んだ。


――六月一日。


玄関で母に呼び止められた。


けれど、

僕は話を途中で切り上げて家を出た。


数学の問題集を

優先したかったからだ。


夜、

遅れていた返事を返した。


返事は戻ってきた。


けれど、それは

いつもより少し短かった。

━━━━━━━━━━━━━━


 昌志は、その文章をじっと見た。


 朝に書かれていたのは、これではない。


 あの時は、これから起きることが書かれていた。


 けれど今は、今日、自分が実際にしたことになっている。


 一つ目。


 雨の匂いに気づき、早く家を出た。


 その結果、濡れずに済んだ。


 二つ目。


 母に呼び止められた。


 その出来事も、ちゃんと起きていた。


 ただ昌志は、話を最後まで聞かずに家を出た。


 朝にあった二つの文章が、どちらも今日の出来事として残っている。


「……自叙伝」


 朝に読んだ言葉を思い出す。


 これは、まだ書かれていない自叙伝である。


 今なら、少しだけ意味が分かる。


 朝には、これから起きることが書かれていた。


 そして実際に出来事が起きたあとには、自分がどうしたのかが文章になっている。


 いつ書き換わったのかは分からない。


 けれど、少なくとも今はもう、予言ではない。


 今日の昌志がしたことだ。


 昌志は、二つ目の文章をもう一度見た。


 母の話を途中で切り上げた。


 ただそれだけだ。


 雨に濡れずに済んだのだから、得をしたはずだった。


 それなのに、胸の奥が少しだけ重い。


「読んでも分からないのに……」


 昌志はつぶやいた。


 読んでも、何が正しいのかまでは分からない。


 朝に二つの文章が出ても、どちらか一つだけが起きるとは限らない。


 今日だって、二つとも起きた。


 違ったのは、その時に自分がどうしたかだった。


 それなら、全く読まないより、読んでおいた方がいい。


 少なくとも、何が起きるかの影くらいは分かる。


 昌志は、六月二日のページを開こうとした。


 昨日までは、そこに数学の模擬テストの記載があった。


 だから、今日もその問題集を解いた。


 けれど今、六月二日のページは黒く沈んでいる。


 文字は浮かんでいない。


 目を凝らしても、黒い紙の奥には何も見えなかった。


「……明日にならないと、読めないのか?」


 昌志は、六月一日のページへ戻った。


 昨日までは、もっと先まで見ることができた。


 六月に入ってからの予定も、一週間ほど先まで目を通していた。


 いつでもまた見られると思っていたから、全部を細かく覚えているわけではない。


 それなのに今は、その先が真っ黒になっている。


 六月一日に見えたのは、今日のことだけだった。


 しかも、一つではなく二つ。


 そして今、その二つは今日実際に起きたことへ変わっている。


 昨日までとは、明らかに違う。


 もう何日も先まで好きな時にめくって、予定を確認することはできない。


 次に何が書かれるのか。


 それは、その日にならなければ分からないのかもしれない。


「……面倒になったな」


 昌志は小さく呟いた。


 六月二日のページは、まだ読めない。


 明日になれば、また今日のように何かが浮かぶのかもしれない。


 一つなのか。


 二つなのか。


 もっとあるのか。


 それすら、まだ分からない。


 ただ、今日までと同じ使い方ができないことだけは分かった。


 読んでも、何が正しいのかは分からない。


 けれど、読まなければ、何が起きるのかも分からない。


 昌志は黒い本を閉じられなかった。


 机の上で、黒い本は静かに開いている。


 昌志は数学の問題集に手を伸ばす前に、もう一度だけ、真っ黒な六月二日のページを見つめた。



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