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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

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第21話 瑞美遥という名前


 六月二日。


 朝、昌志は黒い本を開いた。


 昨日の夜まで、六月二日のページは真っ黒だった。


 けれど、日付が変わった今は違う。


 黒いページの中に、短い文章が浮かんでいる。


 黒い本には、二つの記載があった。


━━━━━━━━━━━━━━

――六月二日、放課後。


彼女は駅前で、

何かを探していた。


声をかければ、

短い時間を失う。


見つけたものより、

名前の方が残る。

━━━━━━━━━━━━━━


 その下には、もう一つ。


━━━━━━━━━━━━━━

――六月二日、放課後。


数字の手応えは、

教室に残っていた。


確かめれば、

明日のざわめきに

少しだけ備えられる。

━━━━━━━━━━━━━━


「……また二つか」


 昌志は、眉を寄せた。


 どちらも六月二日の放課後。


 つまり、同じ時間帯の話だ。


 昨日も二つの記載が出た。


 そして、書かれていた出来事は二つとも起きた。


 違ったのは、その時に自分がどう動いたかだった。


 一つ目には、彼女とある。


 彼女。


 その言葉だけで、昌志の頭には、あの少女の顔が浮かんだ。


 よう。


 本屋で会い、スクラッチくじを当てたところを見られた少女。


 ただ、それが本当にようのことなのかは分からない。


 黒い本は、もうはっきりとは書いてくれない。


 二つ目は、数学のことだろう。


 今日は数学の模擬テストがある。


 五月三十日に読んだ記載をもとに、昌志は問題集の四十二ページから五十六ページまでを繰り返し解いた。


 手応えを確かめれば、明日の教室で少し落ち着ける。


 それも分かる。


 けれど、昌志の目は一つ目の文章に戻っていた。


 見つけたものより、名前の方が残る。


 その一文が、妙に引っかかった。


***


 数学の模擬テストは、午前中に行われた。


 問題用紙をめくった瞬間、昌志は息を止めた。


 最初の大問は、二次関数。


 数字は違う。


 形も完全には同じではない。


 それでも、昨日まで解いていた問題集の型に近かった。


 確率の問題も、図形と方程式の問題も、最初の一手が分かる。


 いつもなら、問題文を読んだ時点で手が止まっていた。


 けれど今日は違った。


 全部が解けたわけではない。


 ミスもあると思う。


 それでも、空欄はいつもよりずっと少なかった。


 終了の合図が出た時、昌志は鉛筆を置きながら、小さく息を吐いた。


 できた。


 そう思った。


 少なくとも、いつもの自分ではなかった。


 昼休み、圭佑が昌志の席に来た。


「昌志、数学どうだった?」


「まあ、いつもよりは」


「いつもよりは?」


「少しはできたと思う」


「へえ。最近、本当に真面目だな」


「模擬テストだし」


「それで急にできるなら苦労しないけどな」


 圭佑は冗談っぽく言った。


 けれど、昌志は少しだけ返事に詰まった。


 急にできた。


 その言葉は、軽く聞き流せなかった。


 放課後、数学の先生が教室へ顔を出した。


「今日の模擬テスト、解答と簡単な解説を職員室前に置いておく。気になる者は見ておけ」


 何人かが立ち上がる。


 昌志も、反射的に鞄を持ちかけた。


 確かめたい。


 どのくらいできたのか。


 何点くらい取れそうなのか。


 明日、クラスで何か言われても、落ち着いていられるように。


 けれど、その瞬間、黒い本の文章が頭に浮かんだ。


 彼女は駅前で、何かを探していた。


 声をかければ、短い時間を失う。


 昌志は、職員室へ向かう廊下を見た。


 それから、昇降口の方を見る。


 どちらも放課後だ。


 職員室前へ寄っている間に、駅前の「彼女」がいなくなるかもしれない。


「……何で今日なんだよ」


 小さくつぶやいて、昌志は昇降口へ向かった。


***


 駅前は、放課後の学生と買い物客で混んでいた。


 昌志は北口の広場を見回す。


 いるとは限らない。


 黒い本の「彼女」が、ようのことだとも限らない。


 それでも、探さずにはいられなかった。


 駅ビルの階段横。


 バス停の近く。


 ベンチのあたり。


 何度か歩いて、少し馬鹿らしくなってきた頃だった。


 ベンチの近くで、短い髪の少女がしゃがみ込んでいた。


 ようだった。


 鞄の中を確認し、足元を見る。


 それから、少し離れた植え込みの方へ視線を動かす。


 明らかに、何かを探している。


「おい」


 声をかけると、ようが顔を上げた。


「あ」


「何してるんだ?」


「探し物です」


「何を?」


 ようは一瞬だけ迷ったあと、少し悔しそうに言った。


「財布です」


「財布?」


「はい。改札を出る時にはありました。ここで鞄を開けた時には、ありませんでした」


「その間か」


「そうです。だから困っています」


 財布。


 その言葉に、昌志は五月二日のことを思い出した。


 拾った財布。


 絡んできた不良。


 殴られた痛み。


 けれど、目の前のようは本当に困っている。


 昌志は息を吐いた。


「探すぞ」


「いいんですか」


「困ってるんだろ」


「でも、時間が」


「短い時間くらいなら、まあ」


「え?」


「何でもない」


 危ない。


 黒い本の言葉を、そのまま言いかけた。


 二人で改札から広場までの道を戻った。


 ようは思っていた以上に几帳面だった。


「私は右側を見ます。岐阜さんは左側をお願いします」


「岐阜さん?」


「名字です」


「まあ、そうだけど」


「名前で呼ぶのは失礼だと言いました」


「まだ覚えてたのか」


「忘れません」


 そういうところは、いかにもようらしい。


 財布はなかなか見つからなかった。


 駅員に聞いても、落とし物は届いていない。


 広場へ戻り、もう一度ベンチ周辺を見る。


 見つけたものより、名前の方が残る。


 黒い本の一文が、また頭をよぎった。


 その時、昌志は植え込みとベンチの隙間に目を留めた。


「ここは、もう見たか?」


「一度見ました」


「あるとしたら、この辺だと思うんだよ。もう一回見てみる」


 昌志はしゃがみ込み、スマホのライトをつけた。


 植え込みの奥に、紺色の小さなものがある。


「あった」


 ようが息を止めた。


「本当ですか」


「たぶん、これ」


 昌志は手を伸ばし、小さな財布を引っ張り出した。


 紺色の財布。


 少し土がついている。


 ようは両手で受け取ると、すぐに中身を確認した。


「……あります」


「学生証も?」


「はい。あります」


 ようが財布を開いた時、カード入れの中の学生証が少し見えた。


 昌志は、反射的にそこへ目を向けてしまった。


 女子校の名前。


 高校三年。


 それから、氏名の欄。


 瑞美遥。


「みずみ……はるか?」


 思わず口にすると、ようが慌てて財布を閉じた。


「見ましたね」


「いや、見えただけだ」


「見ました」


「悪い」


「悪いと思っているなら、あまり見ないでください」


「だから悪いって」


 昌志は少し気まずくなって目を逸らした。


 瑞美遥。


 漢字は分かった。


 けれど、読み方までは分からない。


 瑞美をどう読むのかも、遥をどう読むのかも、まだ分からなかった。


 ただ、ようが高校三年生だということだけは分かった。


「助かりました」


 ようは、財布を鞄の内ポケットへしまい、深く頭を下げた。


「別に。見つかってよかったな」


「お礼をします」


「いいって」


「よくありません」


「財布見つかったんだから、それでいいだろ」


「借りを作ったままにするのは落ち着きません」


「几帳面だな」


「普通です」


 結局、昌志は断りきれなかった。


***


 駅前のファミレスに入った。


 ようはメニューを見ながら、真面目な顔で言った。


「高いものはやめてください」


「奢る側が言うのか」


「はい。お礼ですが、上限はあります」


「変なところで現実的だな」


「普通です」


 昌志はドリンクバーと安いデザートにした。


 ようは、それでようやく納得したようだった。


 席に戻ると、昌志はさっき見えた学生証のことを思い出した。


「さっきの名前」


「見たんですね」


「見えただけだって」


「どちらでも同じです」


「読み方、分からなかった」


 そう言うと、ようは少しだけ姿勢を正した。


「瑞美遥です。みつみ、よう」


「あ、そう読むのか」


「はい」


「瑞美で、みつみ。遥で、よう」


「そうです」


「だから、ようだったのか」


「はい。だから、ようよう言わないでください」


「まだ言ってないだろ」


「言いそうな顔をしています」


「顔に出すぎだろ、俺」


「出ています」


 いつもの調子だったけど、安心したのか、ようは笑顔だった。


 昌志の中で、少しだけ彼女の印象も変わっていた。


 よう。


 ただの音だった名前に、名字と漢字がついた。


 瑞美遥――みつみ・よう。


 名前を知ると、相手の輪郭が少しはっきりした気がした。


「高校三年なんだな」


「そこも見ましたね」


「見えただけ」


「便利な言い方ですね」


「悪かったって」


「高校三年です。近くの女子校に通っています」


「同い年かよ」


「意外そうですね」


「中学生くらいかと思ってた」


「かなり失礼です」


「本当に悪い」


 遥は少しだけ頬を膨らませた。


 でも、本気で怒っているようには見えなかった。


 会話は、学校の話へ移った。


 遥の学校は駅から二駅先にある女子校らしい。


 校則が細かいこと。


 寄り道は一応よくないこと。


 それでも、今日は財布の件があったから仕方ないこと。


 遥は一つ一つ、言い訳のように整理して話した。


「全部理由つけるんだな」


「理由がないと落ち着きません」


「やっぱり几帳面だな」


「普通です」


 昌志は笑った。


 数学の解答を見る時間は、もうなくなっていた。


 先生に聞くこともできない。


 明日、模擬テストの結果で何か言われても、準備はできない。


 それでも、不思議と後悔は薄かった。


 短い時間を失った。


 確かにそうだ。


 けれど、その代わりに、瑞美遥という名前が残った。


***


 家に帰った頃には、予定より遅くなっていた。


 母に「遅かったわね」と言われ、昌志は「駅前で少し」とだけ答えた。


 嘘ではない。


 けれど、全部でもない。


 部屋に入ると、昌志はすぐに黒い本を開いた。


 六月二日のページ。


 朝に見た二つの文章は、もうなかった。


 代わりに、今日実際に起きたことが書かれている。


━━━━━━━━━━━━━━

――六月二日。


数学の模擬テストでは、

覚えた型が何度か使えた。


いつもの僕なら、

空欄にしていた場所にも

答えを書けた。


放課後、

数字の手応えは教室に残った。


僕は、

それを確かめなかった。


――六月二日。


駅前で、

彼女は何かを探していた。


声をかけたことで、

短い時間を失った。


けれど、見つけたものより、

名前の方が残った。


瑞美遥。


その名前を、

僕はしばらく忘れなかった。

━━━━━━━━━━━━━━


 昌志は、その文章を何度も読んだ。


 数学の確認をしなかったことも、ちゃんと書かれている。


 駅前で遥に声をかけたことも。


 財布を見つけたことは、はっきりとは書かれていない。


 ただ、見つけたものより、名前の方が残った、とある。


 確かにそうだった。


 財布よりも。


 ファミレスのデザートよりも。


 数学の手応えよりも。


 瑞美遥という名前の方が、頭に残っている。


 昌志は、もう一度ページの上の方を見た。


 朝には、


 確かめれば、明日のざわめきに少しだけ備えられる。


 そう書かれていた。


 今、その文章はない。


 代わりに、


 僕は、それを確かめなかった。


 と書かれている。


 選ばなかったからといって、数学の模擬テストそのものがなくなったわけではない。


 明日になれば、結果について何かあるのかもしれない。


「……明日、どうなるんだよ」


 数学の結果が返ってくるのか。


 クラスで何か言われるのか。


 それとも、別のことが起きるのか。


 六月三日のページは、まだ真っ黒だった。


 午前零時を過ぎるまでは、多分読めない。


 それが、少しだけ不安だった。


 けれど、読めるようになったら、自分はきっと読む。


 そう思った。


 読んでも、全部は分からない。


 どちらを優先しても、正しいとは限らない。


 それでも、読まないまま朝を迎える方が、今は怖かった。


 昌志は黒い本を閉じずに、机の上に置いた。


 その横に、数学の問題集がある。


 けれど、しばらく手は伸びなかった。


 瑞美遥。


 黒い本に残ったその名前を、昌志はもう一度だけ目でなぞった。


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