第22話 何も書かれていない日
六月三日。
朝、昌志は黒い本を開いた。
六月二日のページは、もう文章になっている。
数学の模擬テスト。
駅前で何かを探していた彼女。
瑞美遥という名前。
昨日、自分が選んだ出来事が、そこには確かに残っていた。
だから今日も、次のページを読むつもりだった。
六月三日。
そこに何が書かれているのか。
何を選ばなければならないのか。
それを確かめるつもりだった。
けれど、ページは黒かった。
「……またかよ」
昌志は眉を寄せた。
昨日までの黒さとは違う。
六月一日も、六月二日も、その日になれば文章が浮かんできた。
だが今日は違う。
六月三日のページには、何もない。
短い文章もない。
二つの候補もない。
ただ、黒いだけだった。
昌志はページをこすった。
意味はなかった。
目を近づけても、文字は見えない。
「今日は、何もない日ってことか?」
そう思おうとした。
でも、うまくいかなかった。
何も書かれていないなら、自由なはずだ。
何も選ばなくていい。
どちらか一つを選ばされることもない。
そう考えれば、安心できるはずだった。
なのに、胸の奥は落ち着かなかった。
何も書かれていない。
それは、何も起きないという意味なのか。
それとも、何が起きるか分からないという意味なのか。
その区別がつかなかった。
昌志は黒い本を閉じた。
今日は普通に過ごせばいい。
そう自分に言い聞かせて、鞄を持った。
■学校・教室
学校に着いても、落ち着かなかった。
授業中、何度も鞄の中が気になった。
今日は黒い本が入っている。
ただ開いたところで、何も読めない。
分かっている。
それでも、見たくなる。
何か浮かんでいるかもしれない。
さっきは見えなかっただけかもしれない。
次の休み時間には、文字が出ているかもしれない。そんなことばかり考えてしまう。
先生の声が、頭に入ってこなかった。
黒板の文字をノートに写しているはずなのに、手だけが動いている。自分が何を書いているのか、あとから見るまで分からない。
昼休み、圭佑が購買のパンを持って席に来た。
「昌志、今日ぼーっとしてないか?」
「そうか?」
「してるだろ。数学で燃え尽きた?」
「別に」
「昨日、手応えあったんだろ?」
「まだ返ってきてない」
「でも、できた感じはあったんだろ」
「まあ、少し」
昌志は曖昧に答えた。
圭佑は少しだけ目を細めた。
「最近、少しって言う時ほど怪しいんだよな」
「何だよ、それ」
「いや、なんとなく」
圭佑は軽く笑った。
その笑い方はいつも通りだった。
けれど、昌志は素直に笑い返せなかった。
黒い本に何も書かれていない。ただそれだけで、こんなにも落ち着かない。
そのことを、誰にも言えない。
圭佑にも。
母にも。
遥にも。
自分でも、少しおかしいと思う。
けれど、どうしようもなかった。
何も読めないまま一日を過ごすことが、こんなに不安だとは思っていなかった。
放課後。
昌志は、駅前へ向かった。
黒い本には何も書かれていない。
それでも、行かなければならない用事があった。
四月二十八日の男たちへの、一万円。
遅れていた分だ。
ずっと気になっていた。
黒い本に書かれていないからといって、現実の支払いが消えるわけではない。
むしろ、書かれていないことの方が怖かった。
■駅前
指定された場所は、駅前の雑居ビルの裏手だった。四月二十八日に連れて行かれた路地とは違う。
それでも、似た空気があった。
薄暗い壁。
室外機の音。
通りから少し外れただけなのに、人の声が遠くなる感じ。
昌志は封筒を握りしめた。
中には一万円が入っている。
スクラッチくじで当てた金の一部。
黒い本のおかげで手に入れた金を、黒い本がきっかけで関わった男たちに渡す。
そう考えると、胸の奥が嫌なふうに冷えた。
男は一人だけだった。
派手な柄のシャツでもない。
黒いパーカーでもない。
知らない男だった。ただ、あちらはこちらのことを知っているような顔をしていた。
「持ってきた?」
「……はい」
昌志は封筒を差し出した。
男は中身を軽く確認し、鼻で笑った。
「高校生なのにちゃんとしてんじゃん」
昌志は何も言わなかった。
「来月も忘れんなよ」
それだけ言って、男は去っていった。
殴られたわけではない。
脅されたわけでもない。
ただ、一万円を取られただけ。
それだけだった。
それだけなのに、駅前から帰る足は重かった。
黒い本には、何も書かれていなかった。
今日のことは、本には出ていない。
つまり、本に書かれていない現実も、普通に起きる。
当たり前のことだ。
でも、今の昌志には、それが妙に怖かった。
■岐阜家・昌志の部屋
夜になっても、六月三日のページは黒いままだった。
昌志は何度も黒い本を開いた。
夕飯の前。
風呂の後。
数学の問題集を開く前。
スマホを見た後。
何度開いても、何も浮かんでこない。
何もない。
何もないのに、気になる。
何もないから、もっと気になる。
「……俺、何やってんだ」
昌志は机の前でつぶやいた。
黒い本が読めない。それだけで、一日中ずっと落ち着かなかった。
授業も、圭佑との会話も、家での時間も、全部どこか上滑りしていた。
一万円を渡しに行った時も、本に書いていないことが起きているというだけで、やけに怖かった。
これでは、黒い本が使えるとか使えないとかの話ではない。
黒い本がないと、落ち着けない。黒い本に何も書かれていないだけで、普通の一日を普通に過ごせなくなっている。
そのことに気づいて、昌志は少し気持ち悪くなった。
時計を見る。
午後十一時五十六分。
あと四分で日付が変わる。
昌志は黒い本を開いたまま、机に置いた。
秒針の音が、いつもより大きく聞こえた。
五十七分。
五十八分。
五十九分。
日付が変わる。
午前零時。
黒いページに、文字が浮かんだ。
六月四日のページだった。
黒い本には、こうあった。
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――六月四日、午後。
駅前の店で、
小さなものを落とす。
壊れたものより、
謝る声の方が残る。
――六月四日、午後。
人の多い場所で、
隠したかった言葉を見られる。
奪われるものは少ない。
残るものは、少し重い。
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「……どっちも嫌じゃねえか!」
昌志は、思わず声を出した。
駅前の店で、小さなものを落とす。
壊れたものより、謝る声の方が残る。
何かを壊すのかもしれない。
店員に謝るのかもしれない。
弁償するのかもしれない。
それだけでも嫌だった。
もう一つは、人の多い場所で、隠したかった言葉を見られる。
スマホか。
メッセージか。
それとも、黒い本に関わる何かなのか。
はっきりとは分からない。
けれど、嫌なことなのは分かる。
奪われるものは少ない。
残るものは、少し重い。
その言い方も気に入らなかった。
どちらも、外で起きることのように見えた。
駅前の店。
人の多い場所。
どちらも、出かけなければ関係ない。
しかも六月四日は休みだった。
学校もない。
駅前へ行く用事もない。
誰かと会う約束もない。
「じゃあ、出なきゃいいだろ」
昌志は黒い本を閉じた。
駅前の店には行かない。
人の多い場所にも行かない。
家にいる。
部屋から出ない。
それなら、どちらも起きるはずがない。
黒い本が何を書こうと、そこへ行かなければいい。選ばなかったものは、消えたとは限らない。
その一文が頭をよぎった。
けれど昌志は、すぐにそれを追い払った。
今回は違う。
どちらも、外で起きることだ。
家にいれば大丈夫だ。そう思うと、ほんの少しだけ呼吸が楽になった。
六月四日のページは、閉じた黒い表紙の下で黙っている。
昌志はベッドに倒れ込んだ。
明日は、何も選ばない。
何も拾わない。
何も失わない。
ただ家にいる。
それだけでいいはずだった。




