第23話 隠したかった言葉
六月四日。
昌志は、昼近くまで布団の中にいた。
目は覚めていた。
けれど、起き上がる気になれなかった。
昨日の夜、黒い本に浮かんだ二つの文章。
駅前の店で、小さなものを落とす。
人の多い場所で、隠したかった言葉を見られる。
どちらも嫌だった。
どちらも、できれば選びたくない。
だから、昌志は決めていた。
今日は外に出ない。
駅前の店には行かない。
人の多い場所にも行かない。
幸い、今日は休みだった。
学校もない。
圭佑と会う約束もない。
遥と会う理由もない。
家にいる。
それだけでいい。
「……これなら、起きないだろ」
昌志は布団の中でつぶやいた。
黒い本の文章は、どちらも外で起きることに見えた。
なら、外へ出なければいい。
選ばなければいい。
何もしなければいい。
簡単なことのはずだった。
昼食の時、母が少し不思議そうに聞いてきた。
「今日は出かけないの?」
「出かけない」
「珍しいわね。最近、駅前の方へよく行っていたから」
「勉強する」
「それはいいけど、ちゃんと休みなさいよ」
「分かってる」
昌志は短く答えた。
母は何か言いたそうだったが、それ以上は聞いてこなかった。その視線から逃げるように、昌志は食事を終えるとすぐ部屋へ戻った。
午後。
黒い本に書かれていた時間帯だ。
昌志は机に向かい、数学の問題集を開いた。
六月二日の模擬テストの結果は、まだ正式には返ってきていない。
だが、手応えはあった。
いつもより解けた。
それだけは分かっている。
だから復習しておいた方がいい。
そう思って、問題集を開いた。
けれど、まったく集中できなかった。
時計を見る。
午後一時。
何も起きない。
午後一時半。
何も起きない。
午後二時。
まだ、何も起きない。
家の中は静かだった。
母は一階にいる。
司はリビングで何か動画でも見ているのか、時々笑い声が聞こえた。
外からは車の音がかすかに聞こえる。
それだけだった。
昌志は問題集を閉じた。
「ほら、やっぱり起きないじゃん」
自分に言い聞かせるように言った。
家にいればいい。
駅前の店にも、人の多い場所にも行かなければいい。そうすれば、黒い本の文章なんて外れる。
少なくとも、今回は。
そう思おうとした。
その時、スマホが震えた。
机の端に置いていたスマホが、小さく鳴る。昌志は、何気なく画面を見た。
知らない番号からのメッセージだった。
『昨日の分、確認した。来月も忘れんなよ』
心臓が、嫌な音を立てた。
昨日。
一万円。
四月二十八日の男たち。
封筒を渡した男の顔が、頭の中に浮かんだ。
昌志は反射的にスマホを伏せた。
だが、その動きが少し大きすぎた。
その瞬間、部屋のドアが開いた。
「お兄ちゃん、母さんが――」
妹の司だった。
昌志は、さらに慌てた。
「入ってくるなよ」
「え、何?」
「何でもない」
「今、何隠したの?」
「隠してない」
「隠したじゃん」
司の視線が、昌志の手元へ向く。
昌志はスマホを握っていた。
画面は伏せてある。
だが、通知音が鳴った直後だった。
しかも、昌志は明らかに慌てていた。
隠したようにしか見えない。
「見せて」
「何でだよ」
「やましいことないならいいじゃん」
「ない」
「じゃあ何でそんな焦ってるの?」
「焦ってない」
「焦ってるって」
司は面白がっているようで、少しだけ本気で疑っている顔だった。
昌志はスマホを机の引き出しに入れようとした。その時、肘が机の上の小物入れに当たった。
「あ」
小物入れが傾く。
中に入っていたペンと消しゴムが落ちた。
それだけならよかった。
だが、その横に置いてあった小さな写真立てまで巻き込まれ、机の端から落ちた。
床にぶつかり、ぱき、と軽い音がした。
司の写真立てだった。
以前、司が友達と撮った写真を入れて、「お兄ちゃんの部屋にも置いといて」と勝手に置いていったものだ。
昌志は、落ちた写真立てを見た。
角が欠けていた。
完全に壊れたわけではない。
だが、元通りではない。
「あ、それ……」
司の声が少し変わった。
「ごめん」
昌志はすぐに言った。
「今、当たって」
「何でそんな慌ててるの」
「だから、別に」
「別にじゃないじゃん。スマホ隠そうとしてたし」
「隠してない」
「じゃあ見せてよ」
「見せない」
「ほら、隠してる」
司の言葉に、昌志は何も返せなかった。
スマホの中身を見られるわけにはいかない。
昨日の分、確認した。
来月も忘れんなよ。
そんな言葉を司に見られたら、どう説明すればいいのか分からない。
金を取られていること。
知らない男たちに脅されていること。
四月二十八日のこと。
全部、話せるわけがなかった。
「ごめん。写真立ては直す」
「……そういう問題じゃないんだけど」
「本当に悪かった」
昌志は、もう一度謝った。
司は欠けた写真立てを拾い、じっと見ていた。
「これ、気に入ってたのに」
「弁償する」
「だから、そういう問題じゃないって」
「ごめん」
謝ることしかできなかった。
駅前の店で、小さなものを落とす。
壊れたものより、謝る声の方が残る。
黒い本の文章が、頭の中で重なった。
ここは駅前の店ではない。
家だ。
自分の部屋だ。
落としたのも、店の商品ではない。
司の写真立てだ。
それでも、昌志は謝っている。
壊れたものより、謝る声の方が残っている。司は写真立てを持ったまま、昌志を見た。
「お兄ちゃん、最近変だよ」
「変じゃない」
「変だよ。急に勉強してるし、スマホ隠すし、部屋にこもるし」
「受験生だから」
「便利だね、受験生って」
司の言い方が、少し刺さった。
圭佑にも似たようなことを言われた気がする。
寝不足。
返事の遅れ。
隠し事。
全部、少しずつ周囲に見え始めている。
「母さんが、洗濯物あるなら出してって」
「分かった」
「あと、スマホ怪しいから」
「怪しくない」
「絶対怪しい」
司はそう言って、部屋を出ていった。
ドアが閉まる。
昌志は、その場に立ち尽くした。
手の中にはスマホがある。
画面はまだ伏せてある。
司は、メッセージの全文を見ていない。
たぶん、見えていない。
でも、隠したことは見られた。
慌てたことも、見られた。
隠したかった言葉そのものではなく、隠したという事実が残ってしまった。
「……家にいたのに」
声が漏れた。
駅前には行っていない。
店にも行っていない。
人の多い場所にも行っていない。
それなのに、黒い本に書かれていたことが起きた。
形を変えて。
場所を変えて。
昌志は、机の上の黒い本を見た。
開きたくなかった。
でも、開かずにはいられなかった。
夜になるまで、昌志は何度も黒い本を見た。
けれど、六月四日のページはすぐには変わらなかった。
そのたびに閉じて、また開いた。
夕飯の時、司はいつもより少し静かだった。写真立てのことを母に言うかと思ったが、言わなかった。
それが逆に落ち着かなかった。
夜。
日付が変わる少し前。
黒い本の六月四日のページが、ようやく文章になっていた。
黒い本には、こうあった。
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――六月四日。
僕は、外へ出なかった。
駅前の店にも行かず、
人の多い場所にも行かなかった。
それでも、
小さなものは部屋の中で落ちた。
壊れたものより、
謝る声の方が残った。
隠したかった言葉は、
画面の中にあった。
司には、全部は見えなかった。
けれど、
隠したことだけは見られた。
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昌志は、しばらく動けなかった。
司。
名前が書かれている。
黒い本は、ちゃんと分かっている。
駅前の店ではなかったことも。
人の多い場所ではなかったことも。
家にいたことも。
そのうえで、文章になっている。
「……外とか、関係ないのかよ」
声が小さく落ちた。
場所ではない。
駅前でも、店でも、人混みでもない。
そこへ行くかどうかではない。
黒い本に書かれた出来事は、意味だけを残して形を変える。
少なくとも、今日はそうだった。
駅前の店で落とすはずだった小さなものは、部屋で落ちた。
人の多い場所で見られるはずだった隠した言葉は、家族に見られかけた。
時間もはっきり書かれていなかった。
場所も当てにならなかった。
それなら、どうやって避ければいいのか。
昌志には分からなかった。
黒い本を閉じようとして、手が止まる。
午前零時が近い。
六月五日のページが浮かぶ時間だ。
見たくない。
けれど、見ない方が怖い。
時計の針が十二時を指した。
真っ黒だった六月五日のページに、文章が浮かぶ。
黒い本には、こうあった。
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――六月五日、放課後。
いつもの相手から、
声が届く。
何か隠しているんじゃないかと、
笑いながら聞かれる。
笑って返せば、
言うべきことは喉の奥に残る。
――六月五日、放課後。
駅前で、
小さな約束が待っている。
返すものは軽い。
けれど、
受け取れば次の言葉が残る。
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「……圭佑か」
昌志は、最初の文章を見てそう思った。
いつもの相手。
声が届く。
何か隠しているんじゃないかと、笑いながら聞かれる。
それはたぶん、圭佑からの電話だ。
今の自分が、一番避けたいものだった。
圭佑に聞かれたら、うまくごまかせる気がしない。何か隠しているんじゃないか。
そう言われたら、顔にも声にも出る気がした。
もう一つの文章を見る。
駅前。
小さな約束。
返すものは軽い。
次の言葉。
何のことかは分からない。
けれど、少なくとも圭佑に問い詰められるよりはましに見えた。
昌志は、黒い本を見つめたまま息を吐いた。
「……こっちを選べば、圭佑の電話は避けられるのか?」
場所も時間も、もう信用できない。
それは分かっている。
それでも、圭佑からの電話だけは避けたかった。
何か隠している。
そう言われるのが怖かった。
だから昌志は、二つ目の文章を何度も読み返した。
駅前で、小さな約束が待っている。
返すものは軽い。
けれど、受け取れば次の言葉が残る。
それが何を意味するのか、まだ分からない。分からないのに、そちらを選ぼうとしている。
昌志は、自分がそれを怖がっているのか、安心しているのかも分からなかった。
黒い本のページは、静かに開かれている。
六月五日。
どちらを選ぶのか。
昌志は、答えを出せないまま、夜の机の前に座り続けた。




