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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

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第24話 片方だけではなかった

 六月五日。


 昨夜、黒い本に浮かんだ文章が、朝になっても頭から離れなかった。


 いつもの相手から、声が届く。


 何か隠しているんじゃないかと、笑いながら聞かれる。


 笑って返せば、言うべきことは喉の奥に残る。


 たぶん、圭佑のことだ。


 昨日、司にも似たようなことを言われたばかりだった。


 スマホを隠したこと。

 写真立てを落として壊したこと。

 最近変だと言われたこと。


 圭佑にまで聞かれたら、うまくごまかせる気がしなかった。


 でも、避ければまた別の形で起きるかもしれない。


 だったら、こちらから連絡すればいい。


 普通に話す。

 いつも通りに笑う。


 そうすれば、妙な追及にはならないかもしれない。


 昌志はスマホを手に取り、圭佑に電話をかけた。


 呼び出し音が鳴る。


 一回。

 二回。

 三回。


 圭佑は出なかった。


「……出ろよ」


 小さくつぶやいたが、通話は留守番電話に切り替わった。


 昌志は電話を切った。

 メッセージを送ろうとして、指が止まる。


 文字に残すのが嫌だった。最近の自分は、スマホを見られることにも過敏になっている。


 圭佑の家へ行くか。


 そう考えた。

 家にいれば会える。


 いなければ仕方ない。


 少なくとも、自分から圭佑を避けたわけではない。


 昌志は鞄を持った。


 黒い本は机の上に置いていくつもりだった。けれど、部屋を出る直前に足が止まる。


 迷った挙句、鞄の中へ入れた。


 外では開かない。


 そう決めていても、持っていないと落ち着かなかった。


 *


 圭佑の家へ行くには、駅前を通る方が早い。


 昌志は、いつもの道を歩いた。

 圭佑に電話はかけた。


 つながらなかった。


 だから、今から会いに行く。


 それだけなら、まだ自然な行動のはずだった。


 けれど、駅前に近づくほど、昨夜見たもう一つの文章が浮かぶ。


 駅前の小さな約束。


 返すものは軽い。


 けれど、受け取れば次の言葉が残る。


 駅前。

 小さな約束。

 返すもの。


 そこまでそろっているのに、何も起きないと考える方が難しい。


 でも、遠回りしたところで安全とは限らない。


 場所は当てにならない。

 昨日、それを思い知ったばかりだ。


 昌志は駅前広場へ出た。


「岐阜さん!」


 名前を呼ばれた。


 振り向くと、瑞美遥が立っていた。


 短い髪。

 きちんと整えられた制服。


 少し真面目すぎるくらいの顔。


 その手には、小さな封筒があった。


「……瑞美みつみ


「はい。瑞美遥みつみ・ようです」


「いや、もう覚えた」


「ならよかったです」


 遥は軽く頭を下げた。


「この前は、ありがとうございました」


「財布のこと?」


「はい。きちんとお礼を言えていなかったので」


「ファミレスで奢ってもらっただろ」


「あれは、あの場でのお礼です」


「お礼に種類あるのか」


「あります」


 遥は当然のように言った。


 昌志は少し困った。

 圭佑の家へ向かう途中だった。


 けれど、目の前にいる遥は、黒い本の文章そのものに見えた。


「何か用事の途中でしたか?」


「ああ。圭佑の家に行こうと思ってた」


「お友達ですか」


「小学校からの腐れ縁」


「長いですね」


「長すぎるくらい」


「それなら、引き止めるのはよくありませんね」


 遥は封筒を差し出した。


「これだけ渡しておきます。高いものではありません」


 封筒の中には、小さな図書カードが入っていた。


「いや、ここまでしなくていいって」


「よくありません」


「またそれか」


「またそれです」


 昌志は図書カードを見た。

 受け取らなければ、ここで終わる。


 そのまま圭佑の家へ行ける。


 けれど、受け取れば次の言葉が残る。

 結局、昌志はそれを受け取った。


「じゃあ、ありがたく」


「はい」


 遥は少しだけ表情を和らげた。


「本、買うんですか」


「たぶん。参考書か、文庫か」


「文庫も読むんですね」


「まあ、それなりに。ミステリとか、短編集とか。あと古本屋で安かったやつ」


「古本屋ですか?」


 遥が反応した。


「好きなのか?」


「はい。本屋も好きですけど、古本屋も好きです」


「意外だな。新品をきっちり並べて買うタイプかと思った」


「失礼です。でも、少し合っています」


「合ってるのかよ」


「新品の本屋は、整っているので好きです。古本屋は、整っていないところが好きです」


「逆じゃないのか?」


「逆ではありません。探す感じが違います」


 昌志は少し笑った。

 その感覚は分かる気がした。


 古本屋は、何があるか分からない。


 探していた本ではなく、知らない本に出会うことがある。そういう場所で、昌志は黒い本を見つけた。


 そのことを思い出して、笑いが少し引いた。


 遥は、その変化を見逃さなかった。


「岐阜さん、少し顔色が悪いです」


「寝不足なだけ」


「最近、ずっと寝不足なんですか?」


 昌志は言葉に詰まった。


「……観察するの得意だな」


「几帳面なだけです。細かい変化には気づきます」


 遥は少し考えてから言った。


「何か、心配事がありますか?」


 昌志は目を逸らした。


 心配事はありすぎる。


 黒い本のこと。

 男たちに金を払っていること。


 圭佑に隠していること。

 母にも司にも言えないこと。


 どれも話せない。


「別に?」


「別に、という顔ではありません」


「顔に出すぎだろ、俺」


「出ています」


 遥は駅前の人混みを見てから、近くの公園へ目を向けた。


「あそこなら、少し静かです」


「いや、俺、圭佑の家に」


「無理には聞きません。ただ、立ち話だと落ち着かないので」


 昌志はスマホを見る。

 圭佑からの折り返しは、まだない。


 少しだけなら。


 そう思ってしまった時点で、もう二つ目の文章に入っている気がした。


「少しだけなら」


「はい。少しだけです」


 *


 公園の端のベンチに、二人は少し離れて座った。


 遥はすぐには話し出さなかった。


 姿勢を正して、静かに座っている。


「解決できるとは思っていません」


 遥が言った。


「え?」


「心配事があるなら、の話です。私が聞いても、たぶん解決はできません」


「正直だな」


「できないことをできるとは言えません。でも、話せば少し楽になることはあると思います」


 昌志は黙った。


 圭佑なら、もっと直接聞いてくる。


 お前、何か隠してるだろと言い。


 遥は違った。


 踏み込んでいるようで、踏み込みすぎない。それが逆に、少しだけ危なかった。


「今はいい」


「そうですか」


「まだ、そこまでじゃないというか」


「はい」


「悪い」


「謝ることではありません」


 遥は、すぐに引いた。


「でも、無理はしない方がいいです」


「それ、母さんにも言われた」


「なら、聞いた方がいいです」


「母さん側につくのか」


「正しいと思った方につきます」


「強いな」


「普通です」


 昌志は少し笑った。


 その後は、本の話になった。


 遥は栞を何種類か使い分けるらしい。


 学校で読む本。

 家で読む本。


 途中で止めている本。

 返す予定の本。


「そこまで分けるのか」


「分けないと落ち着きません」


「俺はレシートとか、適当な紙を挟む」


「よくありません」


「本に怒られる?」


「私が気になります」


「瑞美が気になるのか」


「はい」


 遥は真面目にうなずいた。


 本の話をしている間だけは、黒い本のことを考えずに済む気がした。


 同じ本の話なのに、まるで違う。


 黒い本は、読めば読むほど息が詰まる。


 遥と話す本は、少しだけ楽だった。


 その時、鞄の中でスマホが震えた。


 画面を見る。


 圭佑だった。


 いつもの相手から、声が届く。


 その一文が頭に浮かぶ。


「出た方がいいです」


「悪い」


 昌志はベンチから少し離れ、通話ボタンを押した。


「もしもし」


『おう、悪い。さっき出られなかった』


 いつもの軽い声だった。


「いや、別に」


『何だよ。お前から電話とか珍しいじゃん』


「そうか?」


『最近のお前なら珍しいだろ。何かこそこそしてるし』


「こそこそしてない」


『してるって。なんか俺に隠れて危ないことしてんじゃないのか?』


「してねえよ」


 昌志は笑って返した。


 笑えたと思う。


『本当か?』


「本当」


『じゃあ何だ。彼女でもできたか』


「何でそうなるんだよ」


『隠し事ってだいたいそうだろ』


「お前の中ではな」


 黒い本のことも。


 男たちに金を払っていることも。


 司にスマホを見られかけたことも。


 何一つ、話せなかった。


 言うべきことは、喉の奥に残る。


 その一文が、頭の中で静かに鳴った。


 電話の向こうで、別の声がした。


『お兄ちゃん、誰?』


 少し高い、女の子の声。


「今の、美月?」


『ああ。うちの妹』


 相沢美月。


 圭佑の妹だ。


 小さい頃、圭佑の後ろにくっついていた子。今は同じ高校の一年生だと聞いている。


『昌志先輩? たまには遊びに来てくださいよー』


『何でお前が出てくるんだよ』


 圭佑が呆れた声を出した。


『だって久しぶりじゃん。小さい時はよく来てたのに』


『お前は黙ってろ』


『ひど』


 そのやり取りに、昌志は少し笑った。


 相沢家の空気は、昔からこんな感じだった気がする。


『まあ、聞こえた通りだ。美月も、たまにはお前に会いたいってさ』


「俺に?」


『昔遊んでもらった記憶があるんだと。お前、意外と面倒見よかったからな』


「そうだったか?」


『そうだったんじゃねえの。俺は覚えてないけど』


「覚えてないのかよ」


『妹の記憶力を信じろ。同じ学校なんだし、たまには声かけてやれば?』


「いや、一年の教室なんて行かないだろ」


『廊下とかで会うだろ』


「会ってるかもしれないけど、分からない」


『薄情な先輩だな』


「お前が言うな!」


 いつものやり取りだった。


 けれど、それだけだった。


 圭佑が心配してくれていることも。

 美月の声で少し懐かしくなったことも。


 何かを言うきっかけにはならなかった。


『で、何の用だった?』


「今日、家いるなら行こうかと思って」


『悪い。今ちょっと出てる。夕方まで戻らないかも』


「そうか」


『また学校で話そうぜ。あと、冗談抜きでさ』


 圭佑の声が、少し変わった。


『本当に危ないことなら言えよ』


 昌志は、すぐに答えられなかった。


 言えないことばかりだった。


「だから、大丈夫だって」


 また笑って返した。


『ならいいけど』


「じゃあ、また学校で」


『おう』


 通話が切れた。


 昌志はスマホを見つめた。


 圭佑とは話した。


 笑って返した。


 その代わり、言うべきことは喉の奥に残った。しかも、それは遥と話している途中で起きた。


 駅前の小さな約束。


 いつもの相手から届いた声。


 別々の文章だったはずなのに、同じ時間の中で重なっている。


 ベンチに戻ると、遥は静かに待っていた。


「お友達でしたか」


「ああ。さっき言ってた圭佑。今、出てるらしい」


「では、予定はなくなったんですか?」


「たぶん」


「そうですか」


 遥は深く聞かなかった。


 その代わり、昌志の顔を見た。


「今の電話のあと、また顔色が悪くなりました」


「本当に観察するな」


「気になります」


「何が」


「岐阜さんが、です」


 さらりと言われて、昌志は返す言葉に困った。


 遥は少し遅れて、自分の言い方に気づいたように目を瞬かせた。


「今のは、変な意味ではありません」


「分かってる」


「心配という意味です」


「分かってるって」


「ならいいです」


 その後、二人はもう少しだけ本の話をした。


 古本屋で何を見るか。


 新刊書店の棚の並びがどう違うか。


 文庫の背表紙は、出版社ごとに雰囲気が違うこと。遥はそういう話を、思ったより楽しそうにした。


 表情は大きく変わらない。

 けれど、言葉が少し増える。

 昌志にも、それくらいは分かった。


 遥と別れたのは、それから少し後だった。


「呼び止めてすみませんでした」


「別に。図書カードもらったし」


「高いものではありません。でも、ちゃんとお礼です」


「分かった。ありがと」


 遥は小さくうなずいた。


「また、本の話をしてもいいですか」


「本の話?」


「はい。古本屋の話も、少し気になります」


 受け取れば次の言葉が残る。

 黒い本にあった言葉が、頭に浮かぶ。


 たぶん、これだ。


「……まあ、機会があれば」


「はい。機会があれば」


 遥は少しだけ満足したようにうなずいた。


「また、どこかで」


「またな」


 そう言って別れた。


 昌志は、駅前に立ったまま少しだけ動けなかった。


 圭佑の家へ向かうつもりだった。

 でも、圭佑には会えなかった。


 その途中で遥に会った。


 そこで圭佑から電話が来た。


 何か隠しているんじゃないかと聞かれた。


 笑って返した。


 言うべきことは、やっぱり言えなかった。


「……何だよ、それ」


 小さくつぶやいた。


 どちらかを選んだつもりだった。


 なのに、遥の方にも入った。


 それどころか、遥といる時に圭佑の方まで起きた。


 *


 家に帰ると、昌志はすぐに黒い本を開いた。


 まだ夜ではない。


 だから、六月五日のページは文章化されていない。


 けれど、朝に見た二つの文章は頭に残っている。


 昌志は、圭佑を選ぶつもりだった。


 圭佑に電話をかけた。


 つながらなかったから、圭佑の家へ向かった。


 その途中で、遥に会った。


 図書カードを受け取り、公園で話した。


 そして、圭佑から電話がかかってきた。


「……両方じゃねえか」


 声が落ちた。


 一つを選んだつもりだった。


 圭佑の方を選べば、遥の方は進まないと思っていた。


 でも違った。


 片方だけではなかった。


 読まなければ不安になる。

 読んでも、正しく選べるとは限らない。


 選ばないつもりでも、家の中で起きる。

 片方を選んだつもりでも、両方起きる。


「どうしろって言うんだよ」


 答えはなかった。


 夜。


 六月五日のページは文章になった。


 黒い本には、こうあった。


 ━━━━━━━━━━━━━━

 ――六月五日。


 僕は、いつもの相手を

 選ぶつもりで家を出た。


 声は、すぐには届かなかった。


 だから僕は、

 会いに行こうとした。


 その途中で、

 駅前の小さな約束を受け取った。


 返すものは軽かった。


 けれど、

 受け取ったことで、

 次の言葉が残った。


 彼女は、

 心配事があるのかと聞いた。


 僕は、

 今はいいと答えた。


 その時、

 いつもの相手から声が届いた。


 何か隠しているんじゃないかと

 笑いながら聞かれて、

 僕も笑って返した。


 言うべきことは、

 喉の奥に残った。

 ━━━━━━━━━━━━━━


 昌志は、文章をじっと見た。


 一つではなかった。


 どちらかではなかった。

 圭佑も、遥も、両方書かれている。


「片方だけじゃ、ないのかよ」


 つぶやいても、黒い本は何も答えない。


 ただ、今日のことを、もう終わった文章としてそこに残している。


 日付が変わる少し前、昌志は黒い本を開いたまま待っていた。


 六月六日のページは、まだ真っ黒だ。


 午前零時を過ぎる。


 黒いページに、文字が浮かんだ。


 今度は、二つではなかった。


 三つだった。


 ━━━━━━━━━━━━━━

 ――六月六日、午後。


 いつもの相手は、

 笑っていなかった。


 隠しているなら言えと、

 短い声で言われる。


 ――六月六日、午後。


 家の中で、

 軽い嘘を重ねる。


 誰も怒らない代わりに、

 見ないふりが増える。


 ――六月六日、午後。


 彼女は、

 昨日の続きを待っている。


 話せなかったことは、

 まだ喉の奥に残っている。

 ━━━━━━━━━━━━━━


「……三つ?」


 昌志は、思わず声を出した。


 二つでも、両方起きた。


 それなのに、今度は三つある。


 いつもの相手。


 家の中。


 彼女。


 たぶん、圭佑。


 たぶん、家族。


 たぶん、遥。


 どれを選べばいいのか。


 いや、選んだつもりでも、本当にそれだけを選べるのか。


 もう、分からなかった。


 黒い本は、机の上で静かに開いている。

 昌志は、三つの文章を何度も読み返した。


 読めば読むほど、答えが遠くなっていく気がした。

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