第25話 三つのうち、二つ
六月六日。
朝、昌志は黒い本を開いたまま、机の前に座っていた。
昨夜浮かんだ文章が、頭から離れない。
圭佑のことらしき文章。
家の中で嘘を重ねる文章。
そして、遥が昨日の続きを待っているような文章。
「……三つは多いだろ」
昌志は、誰に言うでもなくつぶやいた。
二つでも分からなかった。
昨日は、圭佑の方を選ぶつもりだった。
最初に電話をかけた。
けれど繋がらなかった。
だから圭佑の家へ行こうとして、その途中で遥に会った。
図書カードを受け取った。
公園で話した。
そこで、圭佑から電話がかかってきた。
何か隠しているんじゃないかと聞かれて、昌志は笑ってごまかした。
圭佑の方も、遥の方も、両方起きた。
どちらか一つではなかった。
それだけでも分からないのに、今日は三つある。
一つ目は、たぶん圭佑だ。
いつもの相手。
隠しているなら言え。
昨日も圭佑には怪しまれた。
最後には、冗談抜きで危ないことなら言え、とまで言われた。
圭佑に会えば、この話になる可能性が高い。
二つ目は、家の中。
軽い嘘を重ねる。
これは避けたい。
昨日、司にスマホを見られかけたばかりだ。
写真立ても壊した。
これ以上、家族に変に思われたくない。
三つ目は、彼女。
たぶん遥だ。
昨日の続きを待っている。
話せなかったことは、まだ喉の奥に残っている。
昨日、公園で遥に聞かれた。
何か心配事があるのか。
話せば少し楽になることもある。
そう言われた。
昌志は「今はいい」と答えた。
それが、まだ残っているということなのかもしれない。
「……学校に行けば、圭佑には会える」
昌志はそう考えた。
今日は学校がある。
家にいれば、二つ目に入る気がする。
外に出れば、遥に会うかもしれない。
でも、学校へ行けば圭佑に会える。
圭佑を選べる。
しかも、いつもより早く家を出れば、母にも司にも余計なことを言われずに済む。
遥に会う可能性も低くなる。
朝食も取らずに出ればいい。
それなら、誰にもつかまらない。
自分で選べるはずだ。
昌志は鞄を持った。
黒い本を入れるかどうか迷ったが、結局入れた。
持っていない方が、怖かった。
階段を下りると、母が台所から顔を出した。
「昌志、朝ごはんは?」
「いらない。早く行く」
「また? ちゃんと食べなさい」
「学校で何か買う」
「本当に?」
「本当」
言ってから、少し胸が重くなった。
学校で何か買うつもりはない。
軽い嘘。
その言葉が頭をよぎる。
けれど、ここで止まれば家の中の文章に入ってしまう気がした。
「行ってきます」
昌志は、それ以上聞かれる前に家を出た。
*
いつもより早い時間だった。
校門のあたりには、まだ生徒が少ない。
これなら、余計な相手には会わない。
そう思った直後だった。
「昌志」
声をかけられた。
圭佑だった。
いつもより少し早く来ていたらしい。
昌志は足を止めた。
「……早いな」
「お前もな」
圭佑は笑っていなかった。
昨夜の黒い本にあった言葉が、そのまま頭に浮かぶ。
「昨日の連絡なんだけど」
「悪いな、最初出られなくて」
「ああ」
「それで、あの時何してたんだよ」
圭佑の声は、怒っているというより、探っている感じだった。
昌志は目を逸らしかけて、踏みとどまった。
「ちょっと用事」
「最近そればっかだな」
「そうか?」
「そうだろ」
圭佑は少し間を置いてから言った。
「お前、何か隠してるだろ?」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
来た。
黒い本に書かれていた通りだった。
「隠してない」
「即答する時ほど怪しいんだよ」
「何だよ、それ」
「じゃあ言い方変える」
圭佑は、少しだけ声を落とした。
「彼女いるんじゃないのか?」
「は?」
昌志は思わず間の抜けた声を出した。
「何でそうなるんだよ」
「俺の知り合いが見たんだよ。お前が女子と二人でファミレスに入ってるところ」
頭の中に、駅前のファミレスが浮かんだ。
遥。
財布。
お礼。
瑞美遥という名前。
「あれは違う」
「違うって何が」
「財布を探すのを手伝って、その礼で」
「財布?」
「本当だって」
「それでファミレス?」
「そうなったんだよ」
「へえ」
圭佑は、明らかに信じていない顔をした。
「それ、俺に隠してたの?」
「隠してたわけじゃない」
「言ってないだけ?」
「そう」
「それを隠してるって言うんじゃないのか」
返す言葉に詰まった。
その時だった。
「岐阜さん」
横から声がした。
昌志は固まった。
圭佑も振り向く。
そこに、瑞美遥が立っていた。
きちんと整えられた制服。
短い髪。
いつもの真面目な顔。
ここは、昌志の学校の校門だ。
断じて遥の学校ではない。
いるはずがない場所に、彼女がいた。
「……瑞美」
「おはようございます」
「何でここに?」
「近くまで用事がありました」
「用事?」
「はい」
遥はそう言ってから、圭佑の方を見た。
「ご友人ですか?」
「あ、えっと」
昌志が答える前に、圭佑が一歩前へ出た。
「圭佑です。昌志の友達」
「瑞美遥です。」
遥は丁寧に頭を下げた。
圭佑は少しだけ目を瞬かせた。
「変わった名前なんですね」
「よく言われます。ですが、少し失礼です」
「あ、すみません」
圭佑が珍しく素直に謝った。
昌志は、それどころではなかった。
彼女は、昨日の続きを待っている。
昨夜の黒い本にあった言葉。
それも、ここで重なっている。
「瑞美さんって、昌志と最近親しいんですか?」
圭佑が聞いた。
余計なことを聞くな。
そう思ったが、止める前に遥が答えた。
「最近、少しお話しするようになりました」
「へえ」
「この前、財布を探すのを手伝っていただきました」
「ああ、それは聞きました」
圭佑が昌志を見る。
信じていない顔から、少し面白がる顔に変わっていた。
「本当だったんだな」
「だから言っただろ」
「でも、ファミレスも本当なんだろ?」
「お礼です」
遥が真面目に言った。
「借りを作ったままにするのは落ち着きませんので」
「なるほど」
圭佑は、何かを納得したようにうなずいた。
絶対に変な納得をしている。
昌志には分かった。
遥は、二人のやり取りを不思議そうに見ていた。
「仲がいいんですね」
「どこが」
「今の会話は、仲の良い友人同士の戯れ言に見えました」
「戯れ言」
圭佑が少し笑った。
「そう見えるらしいぞ、昌志」
「笑うな」
「いや、面白い」
遥は、そこで昌志の方を見た。
「昨日の続きですが」
昌志の体が少し固まる。
圭佑の視線もこちらに向いた。
「昨日の続き?」
「はい。昨日、岐阜さんに心配事があるのか聞きました」
「心配事?」
圭佑の目が細くなる。
昌志は慌てて言った。
「大したことじゃない」
「大したことじゃないとは、私は言っていません」
「瑞美、今は」
「はい。今はやめておきます」
遥は、すぐに引いた。
それが逆に、圭佑の疑いを深めた気がした。
「では、私はこれで」
「え、帰るのか」
「授業がありますので」
「学校は?」
「二駅先です。ここからでも間に合います」
「わざわざ来たのか」
昌志が聞くと、遥は少しだけ視線を逸らした。
「昨日のことで、少し気になったので」
それだけ言って、遥は頭を下げた。
「では、また」
彼女は昇降口を離れていった。
昌志は、その背中を見送るしかなかった。
連絡先を聞いていない。
昨日も、今日も、また聞けなかった。
今さらそのことに気づいて、少しだけ後悔した。
*
その日一日、圭佑は何度も昌志に絡んできた。
「で、瑞美さんとはどこで知り合ったんだっけ?」
「本屋」
「本屋で知り合って、財布探して、ファミレス?」
「順番がおかしいけど、だいたいそんな感じ」
「だいたいで済ませるなよ」
「うるさい」
「心配事って何?」
「知らない」
「本人が知らないわけないだろ」
「言葉のあやだよ」
「怪しいな」
圭佑は、怒っているというより、半分はからかっていた。
けれど、その奥に本気の心配が混じっていることも分かった。
だから余計に面倒だった。
昼休みも、移動教室の途中も、放課後も、圭佑は何かにつけて聞いてきた。
「彼女じゃない」
「分かった分かった」
「分かってないだろ」
「でも、親しいんだろ」
「でも、親しくなかったら、わざわざ朝こないだろ」
圭佑の笑顔が憎らしい、絶対楽しんでる。
「最近少し話すようになっただけ」
「それ、瑞美さんも同じこと言ってたな」
「だから本当なんだよ」
「じゃあ何で隠してたんだ?」
そこに戻る。
昌志は答えられない。
隠していたつもりはなかった。
でも、話していなかった。
話さなかった理由を聞かれると、困る。
黒い本のことが絡んでいるからだ。
遥は、黒い本に書かれていないのに何度も現れる。あるいは、黒い本の曖昧な文章の中に入ってくる。
そんなことを圭佑に説明できるはずがない。
結局、昌志は一日中ごまかし続けた。
*
家に帰ると、昌志はすぐに黒い本を開いた。
六月六日のページ。
朝には候補だった文章が、もう別の形に変わっていた。
黒い本には、こうあった。
━━━━━━━━━━━━━━
――六月六日。
いつもの相手は、
笑っていなかった。
隠しているなら言えと、
短い声で言われた。
僕は、
笑ってごまかした。
そのすぐあと、
彼女がそこに来た。
彼女は、
昨日の続きを待っていた。
話せなかったことは、
まだ喉の奥に残っていた。
僕は、
いつもの相手にも、
彼女にも、
ちゃんと答えられなかった。
━━━━━━━━━━━━━━
「……一つじゃないのかよ」
昌志は、思わず呟いた。
三つのうち、一つを選ぶのだと思っていた。
家を出たから、家の中の嘘は避けた。
学校へ行ったから、圭佑の方を選んだ。
そう思っていた。
なのに、文章には圭佑も遥も入っている。
いつもの相手。
彼女。
どちらも達成されている。
しかも、遥のところには、昨日の続きを待っていたとある。
つまり、遥は本当に心配して来てくれていた。
財布の礼でも、偶然でもない。
昨日、昌志が「今はいい」と言ったことを、気にしていた。
その続きを聞こうとしてくれていた。なのに、自分は圭佑への弁解で頭がいっぱいで、ちゃんと答えなかった。
「……悪いことしたな」
小さく言った。
遥にも。
圭佑にも。
どちらにも、ちゃんと答えていない。
黒い本の文章は短い。
けれど、その短さがかえって刺さった。
僕は、いつもの相手にも、彼女にも、ちゃんと答えられなかった。
その通りだった。
昌志は椅子にもたれた。
三つのうち一つだと思っていた。
でも違った。
今回は、二つだけだった。
けれど、それで終わる保証はない。
出ていた候補が、全部起きる日もあるかもしれない。
一つしか起きない日もあるかもしれない。
起きなかったものが、本当に消えたのかも分からない。
あとになって、別の形で追ってくる可能性だってある。
「どうしろって言うんだよ」
答えはなかった。
黒い本は、ただ机の上で開かれている。
黒い本は、何も説明しない。
ただ、起きたことだけを、あとから文章にする。
夜。
昌志は午前零時を待った。
次の日の文章が浮かぶはずだった。
六月七日。
何が出るのか。
二つなのか。
三つなのか。
それとも、もっと増えるのか。
怖かった。
けれど、見ない方がもっと怖かった。
時計の針が十二時を指す。
午前零時。
昌志は、六月七日のページを見た。
ページは黒いままだった。
文字は浮かばない。
何も出てこない。
「……またかよ」
声が、ほとんど息だけになった。
六月三日と同じだ。
何も書かれていない。
何も選べない。
それなのに、何も起きないとは思えない。
昌志は黒い本を閉じられなかった。
真っ黒な六月七日のページを見つめたまま、しばらく動けなかった。
「……確かめるしかないのか」
昌志は、机の上に置いていたノートを見た。
五月の出来事。
六月に入ってから変わったこと。
場所が外れた日。
家にいても逃げられなかった日。
選んだつもりのないものまで起きた日。
全部、書き出せば何か分かるかもしれない。
いや、分かると思いたかった。
六月七日のページは、まだ真っ黒だった。
何も書かれていない。
何も選べない。
だからこそ、昌志は初めて、自分の手で黒い本のルールを確かめようと思った。




